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 さて、「美しい国、日本」最終回です。その1、その2をお読みでない方は、こちら↓から御覧頂けます。

その1
http://blogs.yahoo.co.jp/grouptaytay/21969858.html
その2
http://blogs.yahoo.co.jp/grouptaytay/22539361.html

 自分はこれだけは必ずします、という最重要事項だけをピックアップして、それについて具体的、かつ明確に説明するのではなく、兎に角、思いついたことを羅列している感のある、安倍首相の所信表明演説(註1)ですが、最後にきてふと、本人がどれだけ意識的かは措くとしても、これはもしかしたら一種の目くらましかも知れない、という気がして来ました。
註1
http://www.sankei.co.jp/news/060929/sei004.htm

 と言うのは、やみくもに外交問題や国際問題に触れた後、ふいに、国民との対話から日本のイメージについて述べ、その後、いきなり憲法改正について言及しているからです。少し長いとは思いますが、その部分を引用してみます。

 私は、国民との対話を何よりも重視します。メールマガジンやタウンミーティングの充実に加え、国民に対する説明責任を十分に果たすため、新たに政府インターネットテレビを通じて、自らの考えを直接語りかける「ライブ・トーク官邸」を始めます。
 「美しい国、日本」の魅力を世界にアピールすることも重要です。かつて、品質の悪い商品の代名詞であった「メード・イン・ジャパン」のイメージの刷新に取り組んだ故盛田昭夫氏は、日本製品の質の高さを米国で臆(おく)せず主張し、高品質のブランドとして世界に認知させました。未来に向けた新しい日本の「カントリー・アイデンティティー」、すなわち、わが国の理念、目指すべき方向、日本らしさを世界に発信していくことが、これからの日本にとって極めて重要なことであります。国家としての対外広報を、わが国の叡智を集めて、戦略的に実施します。
 国の理想、かたちを物語るのは、憲法です。現行の憲法は、日本が占領されている時代に制定され、既に60年近くが経ちました。新しい時代にふさわしい憲法の在り方についての議論が、積極的に行われています。与野党において議論が深められ、方向性がしっかりと出てくることを願っております。まずは、日本国憲法の改正手続に関する法律案の早期成立を期待します。


 インターネットを駆使した国民との対話路線に触れ、若い世代にも親しみやすい「初の戦後生まれの」首相という部分を強調した上で、日本のイメージについて語り、「メード・イン・ジャパン」が、今や「高品質のブランド」として世界に認知されていることをアピールした後、「未来に向けた新しい日本の『カントリー・アイデンティティー』」を確立し、世界に広める必要性を説き、そこから一気に流れ込むように「国の理想、かたちを物語るのは、憲法です。」と訴え、「まずは、日本国憲法の改正手続に関する法律案の早期成立を期待します。」と結んでいるわけですが、これには狐につままれた感がすると同時に、これこそが安倍首相の戦略なのだという気もしてきます。その戦略とは、ぼんやりした気分にくるんで、最も言いにくいことにいつの間にか触れる、という戦略です。

 想えば、この8500字になんなんとする所信表明演説には、妙に具体的な部分が唐突に出てきます。中でも力点が置かれていると思われるのは、首相自ら「最重要法案」と位置づけており、この週明けから実質審議に入った教育基本法の成立と、憲法改正に漕ぎ着ける足がかりを作ることの2点です。そしてこの2つに通底する概念が、首相の合言葉とも言える「愛国心」であるとすれば、この2つについての言及が、他の部分に比して、より具体的、かつ、より情熱的に語られるのも無理からぬこと、と言えるのかも知れません。

 演説の中で、教育基本法案について触れている部分を振り返ってみると、「美しい国、日本」を実現するためには不可欠な子どもや若者のモラルや、学ぶ意欲が低下、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下を指摘した上で、安倍氏は次の様に述べています。

 教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくることです。

 その後に「わずか3年ほどの間に、若い長州藩士に志を持たせる教育を行い、有為な人材を多数輩出し」た吉田松陰の例をひき

小さな松下村塾が「明治維新胎動の地」となったのです。家族、地域、国、そして命を大切にする、豊かな人間性と創造性を備えた規律ある人間の育成に向け、教育再生に直ちに取り組みます。

と続けているのですが、これはすなわち、次代を担う子供達の教育を、その力を失った地域や家庭に代わって、かつての私塾松下村塾に倣いつつ、国がする、と宣言していることに他なりません。
 が、ここでも、教育基本法改正案で最も大きな争点となっている「愛国心」という言葉は敢えて使われておらず、「家族、地域、国、そして命を大切にする」というぼんやりした表現に掏(す)り替えられています。
 しかもこれに続く具体策の部分では、「豊かな人間性と創造性を備えた規律ある人間の育成」というよりは、学力向上により重きがおかれているようにも見えます。

 このように見てくると、安倍首相の所信表明演説は、その論理展開(というものが、もしあるとすれば、の話ですが)に穴やほころびばかりが目立つと共に、具体的に何を言っているか分からない印象を与えつつも、自分の言いたいことはいつのまにかちゃっかりと忍び込ませている、といった感があります。
 と同時に、この演説の中ではうやむやになってしまった「愛国心」という言葉などの例からも分かる様に、首相に就任してからその言動が微妙に変化している、という指摘が出る所以ともなる「あやふやさ」が滲み出ているとも言えます。

 そもそも「美しい国、日本」という表現は、何処からやって来たのでしょうか?
 嘗て、川端康成がノーベル文学賞を受賞した時の記念講演「美しい日本の私」を連想した向きも多かったようなので、私もパペルに借りて記念講演の全文を読んでみたのですが、これを英語に翻訳したサ〇デン・ステッカー氏は、相当、苦労しただろうなぁ、と思う内容でした。
 当時、私達はまだ子供だったので、恐らくパペル母が買ったと思われる講談〇現代新書についている黄色い帯には、江藤淳のこんな文章が掲げられています。

スウェーデン学士院は、あるいは川端氏が、東と西のあいだに論理の橋を構築することを期待していたのかもしれない。しかし彼らの見たものは、おそらく黒々としたみぞであり、そのかなたに咲きはじめた一輪の花、むしろつぼみであった。そしてそのつぼみには白く輝く小さな露が寄りそうていた。それが川端氏の「美しい日本の私」である。氏はこれこそ橋だという。学士院会員たちはこの優雅な問いを、いやむしろ謎を、どのように理解したであろうか。

 さすがは江藤氏、と思わせる文章で、俗な言い方をすれば、正に、言い得て妙、という気がしました。尚、川端氏の講演に興味がおありになる方は、今でも簡単に手に入りますので、図書館かこちら↓でどうぞ。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061155806

 さて、この川端氏の講演から約四半世紀後の1994年、日本人で2人目となるノーベル文学賞を受賞した大江健三郎は、受賞式で「美しい日本の私」をもじった「あいまいな日本の私」と題した記念講演をすることになるわけですが、安倍首相とは逆の政治的立場を明確にしているこちらの講演の方は、川端氏のそれに比すれば、英語に翻訳するのがかなり簡単だったのではないか、と思われる内容です。

 こうしてみれば、安倍首相の就任演説と、2人のノーベル賞作家の受賞記念講演には、本質的な接点は皆無であるように見えます。が、強いて結びつけようとするならば、内容のレベルは全く違うにしても、川端氏の講演の論理的不明快さと、内容は別にして、大江氏の講演の表題である「あいまい」さとを兼ね備えたものが、安倍首相の演説だ、と言えるのかも知れません。
 
 本来、美とは、各個人で感じ方が異なるものだと私は思っています。以前、某大手米雑誌に、世界共通の美の基準というものがある、というまことしやかな記事が出ていましたが、東洋に分類される国に育ち、やはり東洋にあるもう1つ国に長期滞在し、それぞれ1年という短い期間ではあれど、西洋に分類される2つの国に住んだ経験だけから考えてみても、美はその土地の文化や風土などによって、様々に変化しているように感じます。
 安倍首相は、そのような「美」を、国が規定し、「これが美しい国、日本のあるべき姿である」と定義して、政策を作り、実行してゆく、と言いますが、それはとりもなおさず、国が「美しい」と認めたもの以外のものを「醜」とする、ということになりかねません。個人的には、これは大変危険なことだと思わざるを得ないのです。

 広く知られている様に、例えば、子供同士の「いじめ」の現場では、「醜い」という感覚的な価値基準が、最も強い排除・差別の根拠になります。「あいつは汚い。」「あいつは臭い。」と言われ、「美しくないもの」というレッテルを貼られた子供の周囲には、その子がどんな事をされても仕方がない、という暗黙の了解のようなものが蔓延する、と言われます。
 想えば、あのナチス・ドイツが標榜したのも「美的国家」でした。美術品に優劣をつけ、「美しい」と評価されたものは保護され、逆に「醜い」というレッテルを貼られたものは、徹底的に破壊されました。人間も又、同様の選別に遭い、大虐殺が行われたことは、周知の事実です。
 このように、美とは、ともすれば、排他的な国家主義/国粋主義と一体化しやすい性質をもっています。自分に都合の良いものを「美しいもの」として優遇し、自分に都合の悪いものを「醜い」として排除するのは、恐らく人間の中に潜む本質的な性質なのでしょう。だからこそ私は、国を司る人間が「美」という言葉を使う時、違和感を覚え、警戒心を抱くのです。そして、それが施政のリーダーとなるべき人の「あいまいな」言動にはぐらかされたまま、いつのまにか政策として承認され、実行に移されていくことに、大きな危機感を覚えます。
 「あいまい」でありながら、否、だからこそ、非常に「危険な」国、日本。これが私が7年前に帰国して以来、持ち続けている日本のイメージです。そして、これこそが、私が日本に違和感を覚える大きな要因のひとつかも知れません。

 今や歴史的な独裁者として名高いヒトラーですが、彼が政界に出始めた頃、識者と呼ばれる人々の多くは、「あんなヤツ、大したことはない。」と、彼を馬鹿にし、誰もまともに相手にしなかったそうです。その彼が、あれよあれよという間に力をつけ、気が付いた時には、誰にもその暴走をとめることができなくなっていたのです。
 私達も、「時、既に遅し。」と嘆くことのない様、自分の国の政治をしっかりと注視し、少しでもひっかかったり、違和感を覚えたら、地道に声を挙げてゆかなければならない、そんな想いを新たにした安倍首相の所信表明演説でした。

 末筆になりましたが、貴重な時間を割いて、だらだらと続いた駄文をお読み頂きました皆様には、この場を借りまして、心から御礼を申し上げます。

                                 ラピス(Lapis)