10月も残すところあと1週間。というわけで先週末慌てて、懸案だった春菊の種まきをしました。
 毎年、秋から年末にかけては何かと忙しく、秋に蒔く種や植える苗は、いつもパスの状態だったのです。が、今年は、万年緊縮財政事情に拍車がかかったこともあって、節約効率の高い野菜作りを本格的にスタートさせる目論見で、かなり遅ればせながらも、頑張って種まきをした次第です。
 御常連さんは御存知の様に、ウィローさん&K氏御夫妻から頂いた園芸セットと、GRISさんのおすすめに従って、サラダ菜とバジルの種を初めて蒔いたのが2002年の5月。以来、バジルは毎年育てているのですが、御夫妻に頂いた紫蘇やミニトマトや、自分達で苗を買って来たローズマリー、タイム、アップルミントなどのハーヴの他にはなかなか手が出ず、昨年、ようやく唐辛子を、今年はその勢いでししとうがらしを育てただけに留まっています。
 というような状況なので、野菜だけでも自家製のものを食したい、という目標には、未だ遥かに遠いわけですが、これからはせめて1年を通して、何か食べられるものを育てられればなぁ、と思っている次第です。

〇〇〇

 さて、安倍首相の目指す「美しい国、日本」についての続きです。前々回をお読みでない方は、こちら↓から御覧頂けます。
http://blogs.yahoo.co.jp/grouptaytay/21969858.html

 安倍首相が就任3日後の9月29日に行った所信表明演説(註1)は、世界各国のニュースで、想いの外、重要扱いされていたように記憶しています。

註1
http://www.sankei.co.jp/news/060929/sei004.htm

 例えば、アルジャジーラ(註2)では、安倍首相が所信表明演説を行ったことを伝えた後、街頭インタヴューで高齢男性が「具体的に、美しい国が何なのか、よくわからない」というような主旨の発言をしている部分が取り上げられていました。中東でも、日本の首相の演説の内容が、結構重要視されている、ということも興味深く思いましたが、このインタヴューを取り上げたことはとても印象的でした。とは言え、この演説に対しては、日本の政治家達からも厳しい意見が相次いだことを考え合わせると(註3)、この高齢男性の意見をピックアップしたのは、至極妥当な線だったとも言えるのかも知れません。

註2
http://english.aljazeera.net/HomePage
註3
http://www.news24.jp/68020.html

 確かに、改めて安倍氏の所信表明演説を読んでみると、街頭インタヴューを受けていた高齢男性や日本の政治家達の言っていることも、強ち的外れではないように感じてしまうのは、一国の首相の演説としては寂しいところ。もしこれが私の教え子の書いたレポートか答案だったら、私は間違いなく良い点はつけないだろうなぁ、と思う内容です。

 例えば、冒頭に「自らの政治姿勢」を明らかにしたいとして

特定の団体や個人のための政治を行うつもりは一切ありません。

と仰っているのですが、これをもっと具体的に言えば、「私はどんな団体に対しても、その団体に有利な政策を実行するつもりはありませんし、特定の個人の意向に従って、政策を決定するつもりもありません」という、政治家として至極当然のことを断っているに過ぎず、ある意味で、このようなことをわざわざ所信表明演説の冒頭に持ってくるからには、そういった既成事実が沢山あるに違いない、と思わずにはおれません。

 又、これに続いて 

額に汗して勤勉に働き、家族を愛し、自分の暮らす地域や故郷を良くしたいと思い、日本の未来を信じたいと願っている人々、そしてすべての国民の期待に応える政治を行ってまいります。

という部分は、「額に汗して勤勉に働き、(中略)日本の未来を信じたいと願っている人々」と「そしてすべての国民」という部分の繋がりが不明で、これではまるで「あっ、そうだ、ニートと呼ばれて働いていない人もいるし、家族を虐待している人もいる。又、地域や故郷が嫌いな人もいれば、日本に未来はない、と思っている人もいるなぁ。」とふと思いついて、「そしてすべての国民」と付け足したのではないか、という様な印象を与えます。
 ちなみに、この2つを関連づける一例として

額に汗して勤勉に働き、家族を愛し、自分の暮らす地域や故郷を良くしたいと思い、日本の未来を信じたいと願っている人々のみならず、様々な理由で就業しておらず、家族との関係に悩み、自分の暮らす地域や故郷を愛せず、日本の未来に希望が持てない人をも含めたすべての国民

というような文が考えられるのではないかと思いますが、恐らく安倍氏としては、最も言いたくない例文のような気がします。

 この後、経済状況を初めとした、日本の現状認識について述べられ、彼が「勇気をもって、国民に指し示す」ところの、彼の「目指すこの国のかたち」とは、次のようなものであるとします。

活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」であります。この「美しい国」の姿を、私は次のように考えます。

 一つ目は、文化、伝統、自然、歴史を大切にする国であります。
 二つ目は、自由な社会を基本とし、規律を知る、凛(りん)とした国であります。
 三つ目は、未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国であります。
 四つ目は、世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国であります。


 ここには、多くの人に「何となくよくわからない」という印象を与える安倍氏の演説の特徴が、よく現れているように思います。
 最も抽象的な「美しい国、日本」という言葉を形容するのに彼が使った言葉は

●活力
●チャンス
●優しさ
●自律

ですが、その後に続く「美しい国」の姿の4項目が、それらに対応し、それらを具体的に説明していないことが、この演説の大きな特徴と言えるでしょう。
 敢えて対応させるとすれば、「活力」と三つ目の「未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国」とが、かろうじて繋がるかとは思いますが、だからと言って、三つ目のフレーズが「活力」の内実やあり様を具体的に説明しているかと問えば、そうとも言えません。
 更には、二つ目には「凛(りん)とした国」というような、非常に情緒的で主観的な言葉が使われ、「美しい国、日本」や「優しさ」と並んで、その時に思いついた情緒や気分に流されているような印象を人に与えます。

 首相が「目指すこの国のかたち」として掲げた「美しい国、日本」という言葉は、この演説のキャッチフレーズとも言えるわけですから、所信表明演説では、この言葉の意図するものについて、国民に明確に伝えるのが最も重要な目的のひとつだと思うのですが、上に述べた様な、定義からは遠く、漠然として的を得ない言葉の羅刹に終始していることが、この演説が評価されなかった第一の原因ではないでしょうか。

 このように、目標を明確に定義し、説明することができなかったのですから、そのような国を実現させるには、どのような政策をとれば良いと考えているか、という段になると、更に漠然としています。
 ここではひとつひとつに触れている余裕はありませんが、首相が組閣した「美しい国創り内閣」が実行しようとしていることを羅列してみますと、「安定した経済成長を図る為のイノベーションとテレワーク人口倍増などの戦略を使った生産性の向上、そしてオープンな姿勢」「格差是正を図る為の雇用システムの見直し、パート労働者の社会保険適用拡大、フリーター・女性・高齢者に焦点を当てた雇用の促進」「地方の活性化を図る為の『頑張る地方応援プログラム』の実施」、「中小企業・農林水産業・NPOの支援」、「2011年度に財政収支の黒字化を図る為の公務員数の削減、地方の自律、国民負担、道州制(註4)の導入」「安心の社会の構築を図る為の年金制度、医療・介護、少子化、国内の治安、環境を巡る対策」「教育再生を図るための『教育基本法の早期成立』」などなど。

註4
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%B7%9E%E5%88%B6
http://www.doshusei.com/main/index.htm

 ここまで見ても、驚くほど多彩な項目が並んでいるわけですが、それぞれの必然性と具体性は見られず、例えば「医薬、工学、情報技術などの分野」の「イノベーション」や「自宅での仕事を可能にするテレワーク人口の倍増」が、安定した経済成長とどんな風に繋がり、その為に具体的にはどうするのかについては、全く触れられていません。
 こうしたことは、その他の項目に関しても言えるので、結局、全体では何が本当にしたいのか、大変分かり辛いものになっています。

 上の項目だけ見ても、よくもここまで次から次へと並べたものだと思うのですが、流石に演説の最後は息切れがしてきたのか、或いは、手持ちのコマがなくなってきたのか、こと外交に関する項目になると、少なからず横滑りが見られます。
 「7月の北朝鮮によるミサイル発射」を導入部分として、安全保障と日米同盟について、その必要性を力説した後、中国と韓国、北朝鮮に触れ、ロシアについてはお愛想程度、東南アジア諸国連合(ASEAN)とオーストラリア、インドはひとまとめに触れ、そこから急にイラクに飛んだかと思うと、個別の国との外交問題から、テロ対策、ODA、エネルギー資源の確保、国連まで、まるで連想ゲームのような形で流れていっています。
 この辺りになると、「あ、そうだ、海外と言えばあれも言っておかなくちゃ。これも、言うべきかも。」という具合に、演説の展開が非常に恣意的に決められているという印象を拭えません。

 首相や大統領の就任演説が、その首相や大統領の時代を創る感のある欧米では、専属のライターが構想を練り、選び抜かれた言葉と言い回しで、見事な演説を生み出します。それを聞くのが国民の楽しみにもなるほど、それは本当によく出来たもので、時に首相や大統領本人とは余りにもかけ離れて立派であるがゆえに、逆にマイナスの効果を生み出してしまうことさえあるほどです。
 一方、日本では、首相就任演説はさほど重きを置かれてはおらず、入学式での校長や学長の挨拶や、結婚式での乾杯の音頭同様、「今から始めます、どうぞ宜しく。」といった程度のものでも許されます。

 ならば、そのような演説など、わざわざ取り上げるに足らないものではないか、と思われる向きもあるかも知れません。が、それがどうもそうは行かない気が私はしています。そして、恐らくそれが私の「違和感」と深く通じているように思うのです。

 あまりだらだら続けるのもみっともないのですが、字数制限もありますので、この続きは次回(最終回)に書いてみたいと思います。

                                 ラピス(Lapis)