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フーバーのブログ

気がついたことなど

数年前に放映された、リクルート社提供の就活番組のCMです。

番組の内容は、お笑い芸人の次長課長がいろいろな会社の社長にアポを取って会いに行くというものでした。

はっきりいって番組よりもCMのほうが出来が良かったです。








記憶に残るCMには一定のパターンがあるように思います。

 ・印象に残る言葉やシーンがある
 ・高揚感がある
 ・表現していることが会社のコンセプトと一致している

といったあたりでしょうか。

こうしてみるとあまりに当たり前なのですが。

でもこれらを高い次元で実現するのはかなり難しい。このCMはこれらをみごと突破しています。

フリスクと並んで、記憶に強く残っています。

日本経済新聞 2011/03/03 夕刊 9面 「ニュースな人」


元厚生労働省局長、現内閣府政策統括官。言わずと知れた大阪地検特捜部冤罪事件の村木 厚子氏が登場です。

記事では、人柄・仕事ぶり・これまでの女性としての仕事での苦労などが取り上げられています。

ただ、その辺りは他の書籍・記事でも見ることができるでしょう。

この記事は、政治部 福山記者の思い入れが垣間見える最後のパラグラフです。


「心血を注いだ改正育児・介護休業法の成立は拘置所で知らされた。仕事に戻りたかった。戻らなくてはいけないと思った。なぜなら「間違いは常に起こりうる。失った時間は戻らないが、自分がきちんと原状復帰することで間違いが正される姿を社会に示したい。それが自分のため、人のため、そして検察のためでもある」と考えるから。
 自らに降り掛かった苦難さえ公益に昇華する。パブリックサーバント(公僕)の本分である。」



官僚は悪で、官僚を批判するのが正義というような風潮があります。

確かに日本には明治以来官尊民卑の感覚があり、官僚パッシングによりカタルシスを求める感覚もわかりますし、行政の監視という点から目を光らせておく必要はあると思います。

ただ、問題なのはいわゆる「官僚的な」取り組み・判断であり、官僚そのものすべて悪だというわけではありません。

最近の政治やメディアはその辺りが混乱しているように思えます。
日本経済新聞 2011/03/02 夕刊 9面 「さらりーまん生態学(いきざまがく)」


「この十ン年、苦労続きの経営者Sが、新聞で見た就活学生のコメントに失笑をもらした。
『自分に合った仕事に就くことはもう諦めて、どこでもいいから就職したい』だとよ。仕事の中身もろくに知らないくせに、自分に合ったも合わないもないだろう。」


何年か組織で仕事をしたことがある人ならうなづく言葉と思います。

このあと、人気の「創造的な仕事」について筆者の江波戸哲夫氏とS氏とのやり取りが続きます。

大学を卒業しても就職しない(しなくてもよい)という風潮は90年代後半から増えてきているように思います。

自己分析のしすぎで自己愛が増大してしまったのか。

情報に流されて就活が自己目的化してしまったのか。


自分に合った仕事を探すというのも価値観ですが、まずは社会に出て自立して働くのだという意思を持つことが就職活動の第一歩だと、40歳前のおじさんは思うわけです。
日本経済新聞 2011/02/26 夕刊文化欄「遠みち近みち」

「今、話題の芥川賞作家・朝吹真理子さん(26)には、大変な将棋好きという一面がある。自分で指すより見るのが好き。新聞や専門雑誌の観戦記を愛読している。」

ご本人が書いているのではないようですが、ブログがあるようです→朝吹真理子、芥川賞作家の文学とニュース


「ご自身の将棋の腕前は「大変弱い」そうだが、一手一手の意味合いはわからなくても、基本ルールさえわかっていれば観戦記から多くのことが感じ取れるという。「翻訳された海外文学を読むのと同じような感覚」だそうだ。」

そうなんです。

いま私がやっているのは囲碁ですが、人と対戦しなくても・強くなら(れ)なくても、楽しさは感じられるんですよね。

実戦を経て強くなっていくのも嬉しいですが(私も決して諦めたわけではありません)、観戦記・棋譜・解説の中に感動を見出すのもまた囲碁の醍醐味のような気がします(我ながらいっちょまえ…)


「注目の王座戦2次予選決勝、郷田真隆九段-村山慈明五段戦の観戦記は4月上旬から本誌将棋欄に掲載予定だ。」

朝吹さんの観戦記が掲載されるそうです。「快諾」だったとのこと。ひと月先ですが楽しみです。
日本経済新聞 2011/02/25 朝刊 13面


住商情報システムによるCSK吸収合併が発表されました。


「情報サービス大手の住商情報システムとCSKは24日、経営統合することで合意したと発表した。」
「住商情報がCSKを10月1日付で吸収合併する。」


グループ内に2つ同じようなシステム会社がある必要はなく経営統合は既定路線だったでしょう。

CSKはSIであり、プログラマーやシステムエンジニアが情報システムをこつこつ作って一人あたりいくらいただく、というようなビジネスが中心でした。

労働集約型事業ともいえる積み上げの世界です。業績悪化の原因となった金融事業・不動産証券化事業などとは必要な資本・ビジネスリスクなどが根本的に違いました。そこに気付けなかったのがすべてだった気がします。

10月1日でCSKはなくなるわけですが、社員だったわけでもないのになぜか憤りのようなものを感じます。

それは、自分が情報サービスの世界に身を置き、プログラマーやシステムエンジニアが苦しみながら仕事に臨む姿を見てきたからだと思います。本業以外のことが原因で会社がなくなってしまうことを(廃業するわけではないですが)、彼らがないがしろにされたように感じているのだと思います。

CSKのプログラマーやシステムエンジニアの人たちが、これから活躍されていくことを期待します。(じつは、経営が安定してみんな安心しているかもしれませんが(^-^) )