foo-d 風土 -58ページ目

foo-d 風土

自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に

最上の
   深き紅燃え
      秋終焉

先週土曜日 久しぶりに土いじり

自宅から車で30分、山奥の飯地町のさらに奥のキャンプ場の上にある窯場で陶芸をしてきました。
久しぶりに粘土を取り出して、まずこねるところから始める。しっかりと捏ねて粘度を増し、空気を抜く大切な作業だ。
大きな塊を丸めながら菊練りをしていくのだが、しばらく練っているともう右手が疲れてくる。
プロに言わせると菊練りなどそう疲れるものではないと言われる。
しかし年に数回しか焼き物をやらない人間にとっては要領も悪く、粘土の粘着力が強すぎる。
それでも10キロほどの粘土を菊練りをして丸くしていきながら何を作ろうか考える。


いつものこと。事前に何を作ろうなんて思った事はあまり無い。

大体いつも土を練りながら浮かんできたものを作る。
 考えると言うより何か頭の奥の方からこれを作ろうと浮かんでくる。

今回は、ふと、電動ろくろを使おうとなぜか思った。

いつも茶碗でも花器でも何でも手捻りで作ってきたが、今回はふと電動ろくろを使おうと出てきたから、電動ろくろの上に置いてスイッチを入れる。
慣れないと中心を取るのが大変だが、やればなんとかなる。回しながら歪んだところを叩きながら直し、

さあ、 脳裏に浮かんできたものは

        今回は花器だ。
  壺でもなく。抹茶茶碗でもなかった

大きな花器を作ろう。
ゆっくり回しながらおおきく形を整えて
一応ろくろは完了、なかなか良い出来だ。

丸い良い形 我ながら美形だ。

しかし、これでは誰でも作れる花器だ、これでは面白くない。

一応第一段階終了 







今からが本領
 ここからが周之介流。  どこにもないものを造る
 今日はここまで

明日、半乾きになってから また来て整形を少しして、自宅に持ち帰り、ここからが本筋の仕事の始まり。
 
次の手を考える。

さて、どんな花器に仕上がるか、自分でもまだわからない


どんなものができるだろう

思いつき人生の
 楽しい思索行動の時間

伯父 伊藤宝城が「倉吉の文化を支えた彫刻家・伊藤宝城」として2022年10月8日の山陰地方の大手新聞に載りました。

〈記事内容〉

芸術の秋、今日から米子市美術館では第66回県展が始まります。

 約70年前、第5回県展の開催を前に、県展がより意義ある展覧会になるよう提言した彫刻家がいます。倉吉市在住の彫刻家・伊藤宝城(本名・博)です。宝城の本業は医師で、戦前は大阪、戦後復員してからは生まれ育った倉吉市広瀬町で開業しました。戦前から彫刻を独学で始め、戦後は白セメントを使用した抽象彫刻を創作しました。 1953年に二科展初入選、翌年には特待賞を受賞した宝城は、平和や祈りをテーマとした作品を多く制作しています。

 代表作の一つは沖縄県糸満市の沖縄戦跡国定公園内に設置されている 〈姫百合の女神像》(1950年)です。陸軍病院で看護要員として従事したひめゆり学徒隊に思いを寄せ、「彼女たちの翼となれ」と4年がかりで制作しました。

占領下の沖縄への作品輸送は困難を極めましたが、琉球大関係者の力添えにより無事に届けられ、1952年の慰霊祭では多くの人々が像の前で手を合わせる様子が記録されています。

 俳句、詩もたしなんだ宝城は、倉吉文芸協会の設立に参加、機関誌『ごろくと』の編集に携わりました。「ごろくと』第2号(1954年)「県展の存否」に、県展開催を喜ぶ一方で審査のあり方などについて厳しい意見を発表しています。

 宝城の家は文化人が集まるサロンとなり、棟方志功などが来倉する際には宿泊費などを負担し倉吉の文化を支えました。宝城の弟には、医師で油彩を描いた武、東京美術学校を卒業した彰(戦没死)、染織家・吉田たすくがいます。来月、北栄みらい伝承館で開催される「生誕100年吉田たすくとゆか

りの作家展」では、上神焼で焼かれた宝城の陶彫《平和を語る》が展示されます。 (学芸員・伊藤泉美)

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伯父 伊藤宝城の作品

「姫百合の女神像」

写真のように、1952年設置時から姫百合の慰霊碑の前にあり、後ろに慰霊碑と戦没者の碑文が見えます。

 現在は、何十年後の慰霊碑の建て替え時に5m程離れたガラスケースに入れて建っています。

 

 沖縄に送る前に伊藤病院の前で撮った記念写真に1歳の私も載っています。

 

 「鬼手天心像」

 伊藤病院は倉吉以外に鳥取市でも1891年に県下最大の伊藤病院 (因幡病院(現在の鳥取県立中央病院))を開院していましたが、1931年に鳥取市に寄贈します。その後、昭和31(1956)年に鳥取県立中央病院の礎となった伊藤家の貢献に対する顕彰碑として、伊藤本家の子孫で彫刻家の伊藤宝城に依頼した鬼手天心像が病院玄関に建立され、現在も飾られています。

 鳥取県立中央病院沿革 鬼手天心像

https://www.pref.tottori.lg.jp/281525.htm

父の生誕100年を記念し

「吉田たすくとゆかりの作家展」

が11月3日から12月4日迄 鳥取県北栄町の北栄みらい伝承館で開催されます。

 

 (父の生誕100年展は倉吉市立倉吉博物館で行われる筈だったようですが、長期改装中の為、北栄町で由来のある方達と一緒の展覧会となった模様です)

 

「倉吉市生まれの染織家・吉田たすく(1922-1987)は、兄に彫刻家の伊藤宝城、油絵を描いた伊藤武、東京美術学校(現 東京芸大)を卒業した伊藤彰のいる芸術的雰囲気の中で育ちます。1945年に長谷川富三郎の勧めで創作郷土玩具の制作に、1947年には「諸国工芸店 風土」の経営に携わります。その後、1947年より高機で絣制作を始めて以降、染織の技法を追求し1963年には自宅に「たすく手織研究所」を開設します。新匠工芸展や東京、大阪をはじめ各地の個展で作品を発表し、多くの愛好者を得ました。1950年、倉吉市展の創設に参加、以後倉吉市展や鳥取県展の審査員を務めます。同時に倉吉西中学校、久米中学校、大栄中学校で教鞭をとりました。
 本展では生誕100年を記念して、吉田たすくの仕事と関わりのあった作家の作品を展示しその交遊を紹介します。

たすく工房で学んだ染織家の古澤順子、新匠工芸展に出品していた白瓷の前田昭博(人間国宝)、教え子で陶芸家の河本賢治(福満焼)、中森伯雅(上神焼)、矢田彰儀(黒見焼)、教師仲間の小原幹男(倉吉焼)、福田良徳、前場幸人、淀川修三。兄で彫刻家・伊藤宝城の作品は上神焼窯元で焼かれた作品です。(このポスターより)

 

 父たすくとゆかりのある作家の方々は多方面に沢山いらっしゃいますが、今回は主に県内の工芸関係の方に絞って出品して頂いているようです。

 

 

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生誕100年 吉田たすくとゆかりの作家展

11月3日~12月4日

■会場:北栄みらい伝承館

     鳥取県東伯郡北栄町田井47-1 

電話0858-36-4309

 ■休館日:月曜日と祝日の翌日

 ■入館料:無料

 

同時開催

吉田たすくとゆかりの北栄町の作家たち

生田和孝 伊藤武 加藤廉兵衛 米本一郎

 

 

関連講座「吉田たすくの仕事と交遊」

■日時:11月13日(日)午後1時半~3時

 ■場所:北栄町中央公民館 講堂

     (北栄みらい伝承館向かい)

 ■定員:30人

  [11/1午前9時より受付開始・先着順]

 

北栄みらい伝承館(北条歴史民俗資料館

鳥取県東伯郡北栄町田井47-1

0858-36-4309

 

多くの方々にご覧頂ければ光栄です。

 

 

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父は8人兄弟で兄弟は芸術家も多く今回は長兄と次兄の作品と、母方の大叔父、加藤廉兵衛の作品が出品されます。

長兄 伊藤宝城 医師、詩人、版画家、彫刻家

次兄 伊藤武 医師、洋画家

四男 伊藤彰、洋画家 (戦死)

七男 たすく 染織家

 

●伊藤宝城 (1909~1961)

医師で彫刻家 洋画家、詩人、戦後の前衛芸術

私の実家から徒歩5分くらいのところにあり、私の母は機織りで忙しく、私が小さい頃はほぼ毎日こちらへ来ていて、私の第二の実家のようなものでした。

伊藤宝城宅は文化人がよく集まるサロンの様な感じになっており、地元及び日本各地からの文化人の訪問も多く、棟方志功や、日本海側の民芸運動の中心人物であった吉田璋也や、浜田庄司柳宗悦河井寛次郎なども来訪し、知遇を得て民芸運動にもかかわった。

●伊藤武

医師で洋画家

北条町江北(現北栄町)で医院開業

私の伯父(たすくの七人兄弟の次兄) 私は子供の頃10km程の距離を自転車でよく遊びに行っていました。

●加藤廉兵衛(1915-2012)

鳥取県伝統工芸士。終戦後に中部に伝わる土人形を再興した作家

私の母方の大叔父 郷土玩具作家 

 子供の頃遊びに行くと、いつも可愛らしい土人形を縁側でよく作っていました。

 

 

●生田和孝(1927~1982年)たすくの親友

鳥取県東伯郡中北条村(現北栄町)出身。

河井寛次郎の下で陶芸を学び、兵庫県篠山市に工房を構え、戦後衰退した丹波焼を盛り立てた3人の一人。しのぎと面取りが得意で、全国に名を轟かせる活躍をされた陶芸家です。

たすくの倉吉中学(現 倉吉東高)の後輩で友人。作品の食器類を沢山たすくのところに送ってこられていて、私の実家での食器の大部分は生田さんのもので、私はそれで育ったようなものでした。

染めと織の万葉慕情33

 つるばみ染めの歌

   1982/11/19 吉田たすく

先週、どんぐり染のことをつるばみ染と書きましたら御指摘がありました。どんぐりの種類とのことで、どんぐりだけをさしているのではありません。以後気をつけます。(注1)

 

 また、続いてつるばみ染の歌ですが、

 

 橡(つるばみ)

  一重の衣

   裏もなく

   あるらむ児故

   恋ひ渡るかも

 

 つるばみの一重の衣、ここまでがうらもなくにかかる序です。

 先週は橡の袷(あわせ)の衣でしたが、今回はうらの無い一重(ひとへ)の衣です。一重の衣はうらがないように、あの児は気持ちに裏も表もない単純な児で、屈託がないだろうが、あの児を思う

私は恋しさに、あれこれと思い悩んでいることです。

 

次にまた一首

 

 橡の

  衣(きぬ)解(と)き洗ひ

   まつち山

  本つ人には

   なほ及かずけり  (注2)

 

 つるばみ染の麻の衣は洗うと硬くなるので、またキヌタで打つのだといいます。またうつをまつちにかけて、類音のもとつ人に続くのだそうです。もとつ人とは、もとからなじみしたしんだ妻です。

 下賎な人の着るつるばみ染の衣を、とき洗ってまた打つという名のマツチ、その名から連想されるモトツ人(もとからなじんだ妻)にまさる人はいないと歌っています。

 まずしくてもなじんだ妻がこの世では一番だというのです。同じ気持ちを大伴家持が歌った歌に、こんなのがあります。

 

 紅(くれない)

  移ろふものぞ

   橡の

  馴れにし衣に

   なほしかめやも

 

 ベニバナで染めた衣は、色があせやすいが、つるばみ染は黒茶色の地味な色だけれどもあせないと歌い、クレナイの衣を着ている貴人の乙女は気がかわりやすくさめやすいが、つるばみ染の身

分の低い衣を着ている馴れた妻にはやはり及ぶものがないものを、と歌っています。

 つるばみ染を書いているうちに秋も行ってしまいます。

 

 先週の大山の紅葉はすばらしかったし、この間通った奥津渓の紅葉もきれいでしたが、霜の下り朝には紅葉も散ったことでしょう。(注3)

 

 経(たて)もなく

  緯(よこ)も定めず

   未通女(おとめ)らが

  織れるもみじに

   霜な降りそね (注4)

 

 未通女(まだ男が通わない女)だから乙女とよむのだそうですが、たて糸もよこ糸も定かでないように、美しく織ったもみじに霜よ降らないでおくれ、と頼むのです。

 織り人の私は、毎日たて糸の張りとよこ糸のしらべがこんぜんと一つの韻として目にうつり、肌にさわれる衣を織りたく思っていますが、この歌はまさにその美しいもみじの錦を歌っています。

 

(新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

 

 

 …………………………

 

(注1)

どんぐり染のことをつるばみ染と書いたら指摘があったとありますが、指摘をされた方はどんぐりの広義の意味をご存知なかったのでしょうね。

おそらく、どんぐりを「栗」「椎(しい)の実」、トチの実などと分けて表現する地方、滋賀県以西の地域にお住みの方だったのでしょう。

 

どんぐりとは、広義にはブナ科の果実の俗称で、ブナ科の果実には、「栗」「椎(しい)の実」、「楢(なら)の実」なども含まれます。

狭義にはクリブナイヌブナ以外のブナ科の果実。

 

つるばみとは古名はどんぐりの総称である。

  訓読み とち・くぬぎ・つるばみ

①とち。トチノキ科の落葉高木。 ②くぬぎ。ブナ科の落葉高木。実はどんぐりと呼ぶ。 ③つるばみ。どんぐりの古名。

④実またはその梂 (かさ) を煮た汁で染めた色。灰汁 (あく) 媒染して薄茶色、鉄媒染して焦げ茶色や黒色に染める。また、その色の衣服。奈良時代、家人・奴婢 (ぬひ) の着る衣服の色。

(学研全訳古語辞典 ・Wikipedia等より)

 

(注2)

まつちやま(真土山)は、奈良県五條市(ごじょうし)~和歌山県橋本市にある山です。この歌では、衣を「また打ち」することから連想しているようです。

 

(注3)

2022年10月25日 大山に初冠雪があったそうです。これで大山は頂上付近が真っ白、その下は紅葉、麓は緑という三段の色で分けられます。

私も過去に3度ほど観ていますが、それはそれは比べるものがないほど素晴らしい紅葉となります。

是非皆さんもこの三段の紅葉を観に大山にお出かけください。

 

(注4)

この歌は大津皇子(おほつのみこ)が詠んだ一首です。
大津皇子は天武天皇の皇子で、後に皇位争いのために謀反の罪を着せられて殺害されてしまう悲劇の皇子のように思われていますが、秋の情景を素敵な歌で詠んだロマンティックな方だったのでしょう。

染めと織の万葉慕情32

 どんぐり染めの歌

   1982/11/12 吉田たすく

 

 どんぐり染の話ですが、このどんぐりで染めますと大変深みのある茶色や黒茶色に染まります。

 以前、私の織物工房に織の研究に来ていた研究生の一人が、どんぐりがたくさんなっているというので、取って来てもらった事があります。 因幡一の宮の宇倍神社の娘ですので、神社境内にたくさんのどんぐりがなっていたのです。どんぐりを染色鍋に入れて煮て一番液を取り、また水を入れて二番液を煮出します。一番よりも二番、三番液の方が濃い色が出て来ます。一、二、三番を一緒にして、これに糸を入れて煮て、灰か泥で媒染すると赤味をおびた茶色が染まるのです。また、鉄媒染をしますと茶っぱい黒色に染まります。

 

 どんぐり染の事が万葉集に六首のっています。

どんぐりの事を橡(つるばみ)といいますが、橡の衣(きぬ)はどんぐりの液で染めた黒茶色の衣の事です。 当時の衣服令というきまりでは家人、奴婢などの下賎な者の着る衣の色となっています。他の染色にくらべ、入手しやすいどんぐりでいちばん地味な色であるから、そのような賎民の衣の色にされたのでしょう。

 

 橡(つるばみ)の

       衣(きぬ)は人皆

          事無しと

     いひし時より

   着ほしく思ほゆ

 

 橡で染めた黒茶色の衣を着ている賎民の女ならば、わずらわしい事はないと聞いてから、私はその橡の衣を着たいと思っている。

 貴人の乙女や普通の娘は、事後わずらわしい事がおこりがちだが、橡の娘なら後でそんな事もないときくから(橡の衣を着たい) 一夜ねてみたいと思っているというので

しょう。

 

この歌は第七巻の「衣に寄す」 歌の中の一首です。これにつづいてまた一首

 

 橡の(つるばみの)

  解濯衣(ときあらいきぬ)

   あやしくも

   殊に着欲(きほ)しき

    このタ(ゆうべ)かも

 

 橡で染めた黒茶色の解き洗い衣を着ていた賎民の娘と長く親しんでいたが、妙に、とりわけ着たい(ねたい)今日の夕です。

 

 次に物に寄せて思をのべる歌

 

 かくのみに

  ありける君を

   衣にあらば

  下にも着むと

   わが思へりける

 

 橡の

  袷(あわせ)の衣

   裏にせば

  われ強() ひめやも

   君が来まさぬ

 

 こういうお気持ちであったあなたを着物ならば一番下に着ようと思っています。(はだとはだをふれあいたい)と衣に寄せて歌い、次の歌も嫁衣に寄せた歌です。

 

橡のあわせを裏に着るように、あなたのお気持ちがこちらに向かなければ、無理とは申しませんけれど、あなたのおいでのないのは、ああ。となげきの歌です。

 下賎な色であったつるばみ色も、私の工房で染めて綴っています。 実にすばらしい茶色です。着尺に織り、ストールを織っています。

(新匠工芸会会員、織物作家)

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つるばみ【橡】 の解説

  訓読み とち・くぬぎ・つるばみ

①とち。トチノキ科の落葉高木。 ②くぬぎ。ブナ科の落葉高木。実はどんぐりと呼ぶ。 ③つるばみ。どんぐりの古名。

 

実またはその梂 (かさ) を煮た汁で染めた色。灰汁 (あく) 媒染して薄茶色、鉄媒染して焦げ茶色や黒色に染める。また、その色の衣服。奈良時代、家人奴婢 (ぬひ) の着る衣服の色。

 

 

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(新聞の番号が一つ進んでいますが、なぜか新聞では8から10に飛んでいます。ミスか9だから避けたのかどうかわかりませんが、後日96が2ツあり、トータル100ページとなっております。)

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 これは新聞の切り抜きしか残されていず、古いもので読みづらい部分もあり、一部解説や余話を交えながら私が読み解いていきます。

 尚このシリーズのバックナンバーはアメーバの私のブログ 「foo-d 風土」の中のカテゴリー『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、そちらをご覧ください。

https://ameblo.jp/foo-do/

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいます。

 

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく




〈花材〉

クルクマ
竜胆リンドウ
ハラン
ブルーベリー

秋を代表する花の一つ 「竜胆」は長く伸びた一つの茎にたくさんの花をつけていますから後ろで演出して頂き
クルクマは花言葉が「あなたの姿に酔いしれる」だそうでメインに飾りました。
 ただ 酔いしれるにはまだ若い感じの花ですね。
ブルーベリーは写真では分かりにくいですが実もついていました。






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  花器は2015年製作の拙作 銘 「双龍」 
 大地に眠る二頭の竜が目覚めて頭をもたげようとしているイメージで造りました。
  化粧土を刷毛目 透明釉 天目釉を刷毛目 透明釉

染めと織の万葉慕情31
 栗の歌 (2)
   1982/11/05 吉田たすく

 

 

 

 

 先週の栗染の話のつづきですが栗をあつかった歌に「布を曝す井戸」の
詞をつかった歌で染織に関係した歌があります。

 三つ栗の
  那賀に向へる
   曝井(さらしい)の
  絶えず通はむ
   そこに妻がも  (注1)

 武蔵の国の那賀という所に向きあっている曝井の水が絶えないように通いたいその那賀へ、そこに妻が居て欲しいものだというのでしょう。 この地名の那賀(なか)の詞を 「なか」と見てその詞を飾るため、三つ栗と上
につけたのです。
 いが栗の中には三個の栗の実が入っていますので、そのなかが那賀にか
かるのです。 万葉の歌は詞ばあそびをしているみたいです。
 万葉集には多摩川で布を曝す歌がありますが、那賀も同じく麻織物の盛
んな所であったのかもしれません。
織り手の乙女が爆井で織り上げた布を曝している。その乙女の白いかいながちらちら見えて、あんな乙女が妻であったら毎夜通いたいものだなどと思っての歌でしょうか。
 栗の歌に染織に関係ありませんがもう一つあります。この歌は、「妻に与ふる歌」と「妻のこたふる歌」の二首からなっています。(注2)

 雪こそは
  春日(はるひ)消ゆらめ
   心さへ
  消えうせたれや
    言(こと)も通はぬ

 松反(まつかへり)
  しひてあれやは
   三栗の
  中上り来ぬ
   麿といふ奴  

 雪は春日に消えるでしょうが、心までも消えたのだろうか(そんなはずはないと思うけれど)言葉すら行来しないことだ、と主がぼやけば、妻はこたえて歌うのです。
 松反は枕詞で「しひてあれやは」 できものが出て感覚を喪失する意だそうですから、しびれてばかになってしまった(わけでもなかろうに)中上(なかのぼり)して私の所に来もしない、麿という奴はほんとうに。

 中上りというのは当時国守が任期中に一度、京都へ中間報告に上る事で
す。その中を飾る詞として三つ栗がつかわれているのです。

 ここで栗の歌をおわりますが、栗染の歌はありませんでした。栗で染め
ればあんなに美しい茶色、くり色が染まりますのに、万葉人は栗を使った染色はしていなかったのでしょうか。
 ところが栗に似たものに「どんぐり」がありますが、このどんぐり染の
歌がかなりあるのです。
 次回は、どんぐり染の歌とりあげてみます。なかなかおもしろい歌がそ
ろっています。

      (新匠工芸会会員、織物作家)

 …………………………

(注1)

三つ栗の 那賀に向へる 曝井(さらしい)の 絶えず通はむ そこに妻がも

作者 高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)
那賀(なか)に向って、流れてゆく泉のように絶えることの無い様に通っていこう。そこに愛しい妻がいてくれたらもっといいのになぁ。
栗(くり)は、中に実が三つ入っています。そこで、「三栗(みつぐり)の」で「なか」を導いています。

  那珂へと注ぐ曝井の
    湧き水のように絶え間なく
    通(かよ)って行こうと思うから
    そこに妻がいてほしい

那珂郡(なかのこおり)の曝井(さらしい)
 「那珂郡」茨城県水戸市の一部と那珂市・ひたちなか市・常陸大宮市のほぼ全域。
 「曝井」茨城県水戸市愛宕町の湧き水。

(注2)
両歌共 作者 柿本人麻呂

妻に与えた歌
雪ならば春日に消えもしようが、そなたは心まで消え失せたのか何の便りも寄越さないね。

妻が応えた歌
都から離れて長くなるせいか、都をお忘れになったのかしらね。三栗でもちゃんと中があるのに中上りもしないままですものね、麻呂って人は。

染めと織の万葉慕情31

 栗の歌 (2)

   1982/11/05 吉田たすく

 先週の栗染の話のつづきですが栗をあつかった歌に「布を曝す井戸」の

詞をつかった歌で染織に関係した歌があります。

 

 三つ栗の

  那賀に向へる

   曝井(さらしい)

  絶えず通はむ

   そこに妻がも  (注1)

 

 武蔵の国の那賀という所に向きあっている曝井の水が絶えないように通いたいその那賀へ、そこに妻が居て欲しいものだというのでしょう。 この地名の那賀(なか)の詞を 「なか」と見てその詞を飾るため、三つ栗と上

につけたのです。

 いが栗の中には三個の栗の実が入っていますので、そのなかが那賀にか

かるのです。 万葉の歌は詞ばあそびをしているみたいです。

 万葉集には多摩川で布を曝す歌がありますが、那賀も同じく麻織物の盛

んな所であったのかもしれません。

織り手の乙女が爆井で織り上げた布を曝している。その乙女の白いかいながちらちら見えて、あんな乙女が妻であったら毎夜通いたいものだなどと思っての歌でしょうか。

 栗の歌に染織に関係ありませんがもう一つあります。この歌は、「妻に与ふる歌」と「妻のこたふる歌」の二首からなっています。(注2)

 

 雪こそは 

  春日(はるひ)消ゆらめ

   心さへ

  消えうせたれや

    言(こと)も通はぬ

 

 松反(まつかへり)

  しひてあれやは

   三栗の

  中上り来ぬ

   麿といふ奴  

 

 雪は春日に消えるでしょうが、心までも消えたのだろうか(そんなはずはないと思うけれど)言葉すら行来しないことだ、と主がぼやけば、妻はこたえて歌うのです。

 松反は枕詞で「しひてあれやは」 できものが出て感覚を喪失する意だそうですから、しびれてばかになってしまった(わけでもなかろうに)中上(なかのぼり)して私の所に来もしない、麿という奴はほんとうに。

 

 中上りというのは当時国守が任期中に一度、京都へ中間報告に上る事で

す。その中を飾る詞として三つ栗がつかわれているのです。

 

 ここで栗の歌をおわりますが、栗染の歌はありませんでした。栗で染め

ればあんなに美しい茶色、くり色が染まりますのに、万葉人は栗を使った染色はしていなかったのでしょうか。

 ところが栗に似たものに「どんぐり」がありますが、このどんぐり染の

歌がかなりあるのです。

 次回は、どんぐり染の歌とりあげてみます。なかなかおもしろい歌がそ

ろっています。

 

      (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 …………………………

 

(注1)

 

三つ栗の 那賀に向へる 曝井(さらしい)の 絶えず通はむ そこに妻がも

 

作者 高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)

那賀(なか)に向って、流れてゆく泉のように絶えることの無い様に通っていこう。そこに愛しい妻がいてくれたらもっといいのになぁ。

栗(くり)は、中に実が三つ入っています。そこで、「三栗(みつぐり)の」で「なか」を導いています。

 

  那珂へと注ぐ曝井の

    湧き水のように絶え間なく

    通(かよ)って行こうと思うから

    そこに妻がいてほしい

 

那珂郡(なかのこおり)の曝井(さらしい)

 「那珂郡」茨城県水戸市の一部と那珂市・ひたちなか市・常陸大宮市のほぼ全域。

 「曝井」茨城県水戸市愛宕町の湧き水。

 

(注2)

両歌共 作者 柿本人麻呂

 

妻に与えた歌

雪ならば春日に消えもしようが、そなたは心まで消え失せたのか何の便りも寄越さないね。

 

妻が応えた歌

都から離れて長くなるせいか、都をお忘れになったのかしらね。三栗でもちゃんと中があるのに中上りもしないままですものね、麻呂って人は。

 

染めと織の万葉慕情30
  栗の歌 (1)
   1982/10/22 吉田たすく


 秋も深まり、秋祭りもあちこちで終わったようです。 倉吉地方では、祭りのごちそうには栗おこわを作るならわしになっています。 栗おこわがなければ祭りにならないのです。この栗おこわを作る前に、栗のあま皮をむくのですが、このあま皮がいい染料になるのです。


 祭りが近づくと、知り合いにたのんでおいてあま皮を集めることにしています。かなり集まったら染色にかかります。 まず、栗の皮を染色鍋に入れ煮出します。 栗色の染液が出て来ます。この栗色の液をそうきでこして皮を取り去り、染液だけ取り出します。それからいよいよ染色にかかります。この染液に糸をつけて煮ること三十分。 あげてしぼり、灰のあくにつけます。
 薄い茶色に染まった糸は、みるみる栗色に発色してくるのです。 この糸をしぼり、さきの染液にもう一度入れて煮ていると、ますます濃い栗色に変わって行くのです。 この仕事を二回、三回繰り返しますと、栗のあま皮色の赤味をおびた茶色に染まるのです。 これが毎年の祭りの時季の私の染色なのです。 栗色なのです。
 ところで、万葉時代の染色に栗染のはないかと歌をさがしましたところ、栗の歌がありました。

 瓜食(は)めば
  子ども思ほゆ
     栗食めば
  まして偲(しぬ) ばゆ
   何處(いづく)より
  来りしものそ
    眼交(まなかひ)に
  もとなかかりて
   安眠 (やすい)し 寝さぬ  (注1)

これは山上憶良の有名な歌、子等を思う歌の一首です。 (注2)
栗を食うことによって子供をいとおしく思う歌ですが、この歌に反歌がついています。

 銀(しろがね)も
  金(くがね)も玉も
   何せむに
  勝(まさ) れる宝
   子にしかめやも  (注2)

というのです。ここまで書きますと、倉吉の小公園のこの歌碑を紹介しなければなりません。
石文の裏に、次のようもに刻まれていました。


 「子らを思う歌 作者 山上憶良
霊亀二年(716年)伯耆守に任せられ倉吉の地に来た
国守として数年の月日をおくる
  昭和五十四年 国際児童年を記念して建てる

 倉吉市 市民憲章の会
   書 山本嘉将 文 山下清三」とあります。

 憶良が倉吉に来ていたことを記念して作られた、子供を思う歌の碑です。 万葉の歌碑は全国に何百首もありますが、倉吉にはこれ一つです。知らない人がほとんどです。
厚生病院の裏の公園ですから、一度ご覧になってはいかがですか。

 栗の歌が横道にはずれました。 栗の歌はこの憶良の歌の他に二首ありましたが、栗染の歌はありませんでした。 栗で染めることをしていなかったのかもしれません。
他の二首は次に書きます。
  (新匠工芸会会員、織物作家)


 …………………………
毎回点線の下は周之介の思いつきの記入文です

(注1)
瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ) ばゆ 何處(いづく)より 来りしものそ 眼交に もとなかかりて 安眠 (やすい)し 寝さぬ
  山上憶良

訳 
瓜を食べれば(残してきた)子どものことが自然に思われる。 粟を食べれば、いっそうしのばれる。 いったい子どもたちはどこから来たものなのだろうか(どのような縁で、私の子どもとしてやってきたのだろうか)。 目の前にやたらと(子どもたちの姿が)ちらついて、安眠させてくれないことよ。

山上憶良は、奈良時代初期の下級貴族出身の官人であり、歌人として名高く万葉集に約80首の歌が収められています。憶良は、「子等を思ふ歌」「貧窮問答歌」など、庶民の生活や子どもを思う親心、家族愛を詠んだ歌を多く残し
ています。
 660年頃の生まれと推定され、出自は諸説あり、よくわかっていません。42歳で遣唐使書記に抜擢され、唐に渡り最先端の文化に触れて帰国し、54歳の時に上級官人、霊亀二年(716年)に57歳で国守となり、伯耆守に任命され5年間伯耆国府(倉吉市)に居ました。
 後に因幡国(鳥取県東部)の国守として万葉集の編纂と万葉集の最後の歌を詠った大伴家持は、この山上憶良の影響を強く受けています。

(注2)
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝(まさ) れる宝 子にしかめやも 
万葉集の歌を知らなくても、この歌はあまりにも有名で誰でもご存知ですね。
まさかこれが上記の長歌の後の返歌の短歌だったとは。どちらもあまりにも深い親の愛情を表していますね。

 (余話)
大伴家持は、天平宝字2年(758年) 42歳で因幡国国守に赴任して今の鳥取市へ赴任しますが、翌年の新年 天平宝字3年(759)1月1日に、国郡司等の宴で新年にあたり、気分も新たになって、その日降り積もる雪のように、めでたい事が重なるようにと年賀の挨拶のような歌を詠んでいます。

「新(あらた)しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)」

これもあまりにも有名な歌ですね。

この歌は万葉集最後の歌として万葉集第20巻第4516首に載せられています。
万葉集は759年から130年間の4500の歌が収め、完成は鎌倉時代後期とされていますが、家持は時代を超えて読み継がれていく万葉集だからこそ、愛着のある鳥取で詠んだ目出度いこの歌を終焉の歌として終えたのでしょう。


鳥取県は伯耆国と因幡国でできていますが、
 伯耆国
鳥取県の中部西部 今の倉吉市、米子市、境港市、東伯郡、西伯郡、日野郡にあたります。
国庁跡は鳥取県倉吉市国府、国分寺、不入岡(ふにゅうおか)

 因幡国
鳥取県の東部 鳥取市、岩美郡、八頭郡にあたる。 
国庁跡は鳥取県鳥取市国府町中郷

たすくが生まれ生涯暮らしたのは平安時代で言うと伯耆国 久米郡 倉吉です。