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foo-d 風土

自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に

侘び寂びを
 愛で(めで)求めつつ
   生きるとも

  未だ錆びなく
   侘しくもなし



 侘び寂びは
  愛れば尚更
   温かき魂(たま)

 …………………………
  達観と
   いう字も読めぬ
       ガキの道



今年は卯年

 うさぎを祀った神社は全国にありますが、名前にうさぎの字が入った神社がある事をご存知ですか。

『古事記』に描かれた神話、因幡(いなば)の白うさぎで有名な白兎神社(はくとじんじゃ)です。 因幡国(いなばのくに)は鳥取県の東部で、白兎神社は鳥取市にあります。

 祀られるのは、出雲の大国主命と因幡の八上姫(やかみひめ)との縁を結んだ因幡の白うさぎ(白兎神)で、日本で初めてのラブストーリーの発祥地「白兎」として、2010年に「恋人の聖地」に認定され、縁結びスポットとして脚光を浴びていて若い女性の方が多くおとづれています。

出雲大社は縁結びで有名ですが、その出雲大社の祭神である大国主神のと八上姫の縁を取り持ったのが因幡の白うさぎですから、出雲大社より縁結びには良いかもしれませんね。

「古事記」の白うさぎが包まって身体を治したように、(蒲(ガマ)は古くから吐血剤として用いられています)このことから日本の医療、動物医療の発祥の地と云われ、古来、皮膚病、傷疾に霊験あらたかな神様が鎮座する神社となっています。

 本殿の礎石は菊の紋章で作られていて、皇室とも深い関係があるようです。隣には「道の駅神話の里 白うさぎ」もあり、近くには雄大な白兎海岸があり、ウサギの住んでいた沖の島、「大黒さま」の曲の歌碑もあります。

うさぎは争いを好まない穏やかな性格で跳躍力があるため、干支では「平安」「安全」「飛躍」の象徴と位置づけられ、うさぎの子だくさんにあやかって、子宝・安産・子孫繁栄を願うのです。

 うさぎは神話の世界で、大国主命と一緒に語られてきました。大国主命(おおくにぬしのみこと)は心優しい国津神(くにつかみ/国造りの神)で、各地に恋愛伝説を残しています。このため『うさぎ神社』は、縁結びのパワースポットとなることが多いです」

卯年には白兎神社にお参りしたら、車で20分程で鳥取砂丘もあります。

私の実家のある蔵の町倉吉市からは36kmです。

鳥取県は因幡国と伯耆国の二国でできていますが、江戸時代中期までは海上輸送は日本海側が表であり、神代の時代からたたら製鉄と織物で栄えた国でした。

 …………………………

いなばの白うさぎ

あらすじ

 出雲の国にだいこくさま(大国主神おおくにぬしのかみ)という神様がいらっしゃいました。 その神様はおおぜいの兄弟があり、その中でもいちばん心のやさしい神様でした。

 兄弟の神様たちは因幡の国に八上比売(やかみひめ)という美しい姫がいるという噂を聞き、みんなで会いに行こうと決められました。 だいこくさまは兄弟達の家来のように大きな袋を背負わされ、一番後からついていくことになりました。

 兄弟たちが因幡の国の気多の岬を通りかかったとき、体の皮を剥かれて泣いている一匹のうさぎを見つけました。

 兄弟たちはそのうさぎに意地悪をして、海水を浴びて風にあたるとよいと嘘をつきました。

 そのうさぎはだまされていることも知らずに、言われるまま海に飛び込み、風当たりのよい丘の上で風に吹かれていました。そうしていると海水が乾いて傷がもっとひどくヒリヒリ痛みだしました。

 前よりも苦しくなって泣いているうさぎのところに、後からついてきた だいこくさまが通りかかりました。

 だいこくさまはそのうさぎを見てどうして泣いているのかわけを聞きました。

そのうさぎは言いました。

 わたしは隠岐の島に住んでいたのですが、一度この国に渡ってみたいと 思って泳がないでわたる方法を考えていました。するとそこにワニ(サ メ)がきたので、わたしは彼らを利用しようと考えました。

わたしはワニに自分の仲間とどっちが多いかくらべっこしようと話をもちかけました。

ワニたちは私の言うとおりに背中を並べはじめて、私は数を数えるふりをしながら、向こうの岸まで渡っていきました。

 しかし、もう少しというところで私はうまくだませたことが嬉しくなって、つい、だましたことをいってしまいワニを怒らせてしまいました。 そのしかえしに私はワニに皮を剥かれてしまったのです。

 それから、私が痛くて泣いていると先ほどここを通られた神様たちが、私に海に浸かって風で乾かすとよいとおっしゃったのでそうしたら前よりもっと痛くなったのです。

 だいこくさまはそれを聞いてそのうさぎに言いました。 かわいそうに、すぐに真水で体を洗い、それから蒲(がま)の花を摘んできて、その上に寝転ぶといい。そういわれたうさぎは今度は川に浸かり、集めた蒲の花のうえに、静かに寝転びました。

 そうするとうさぎのからだから毛が生えはじめ、すっかり元のしろうさぎに戻りました。

 そのあと、ずい分遅れてだいこくさまは因幡の国につかれましたが、八上比売(やかみひめ)が求められたのは、だいこくさまでした。

(文は 出雲大社より)

染めと織の万葉慕情40

  正月の宴

   1983/1/14 吉田たすく

 年があけましたので、新年の染織の歌をさがしましたが、みつかりませんでした。染織の歌ではないのですが、雪の間からのぞくヤブコウジの歌と、正月の宴(うたげ)の歌をお送りします。

大伴家持が越中守をしていたころの雪の日に作った歌です。

 この雪の

  消残(けのこる)時に

   いざ行かな

  山橘の

   実の照るも見む

 この雪がまだ消え残っている間に、さあ行こう。山橘はヤブコウジの事です。 ヤブコウジの実が赤く雪に照っているのも見 よう。今年は私のうちのヤブコウジも沢山赤い実をつけてくれました。 この可憐な赤い実はサンゴのかんざしのようで、白い雪にはえるものです。

 次の歌は天平勝宝三年の作で、この年は大佛開眼の前年にあたります。藤原仲麿との衝突もまだなく、大伴一族も平安な正月を迎えて喜び、越中守の館で正月二日作った歌です。

 新しき

  年の初めは

    彌年(いやとし)に

   雪踏み平(なら)し

    常かくにもが

 新しい年の初めは、毎年毎年、このように雪を踏みならして、いつも太平でありたいものだ。 この年の雪は「時に降る雪殊に多く、積みて四尺あり」と記されています。大雪の正月だったのですね。

正月二日は家持の館での宴でしたが、翌三日には縄麿の館の宴楽(うたげ)に、家持はその大雪をおして出かけます。

 降る雪を

  腰になづみて

    参り来し

   験(しるし)もあるか

    年の初めに

 腰まで降り積もった雪の宴に難儀しながら参上したので、しるしが有ることです。年の初めに、車も自動車もなく腰までの雪をかきわけて宴に行けばねうちがあることでしょう。

こんなにして雪道をやって来てくれる客ですから、そのもてなしに「作りもの」を作って待っています。館の内庭に雪を積みあげて岩の形に彫刻し、その雪の岩山に「奇巧(たくみ)に草樹の花を採(いろど)り発(つ

くる)」 木や草をさして、花などあしらって、デコレーションを作り、客を迎えます。

 この作りものを褒めて、家持と同席の久米の朝臣廣縄の作る歌一首

 なでしこは

  秋咲くものを

     君が家の

   雪の厳に

    咲けりけるかも

 なでしこは秋咲くものと思っていたら、あなたの家では雪の岩に今咲いてるのですね。おどろいたなあ。宴も夜を徹してたけなわですが、鶏が鳴きはじめます。

 うち羽振(はぶ)き

  鶏は鳴くとも

   かくばかり

  降り敷く雪に

    君いまさめやも

 鳴く鶏は

  いやしき鳴けど

    降る雪の

   千重に積みこそ

    われたちかねて

 主人の縄麿は歌います。「鶏が鳴いて朝になっても、この降りしく雪ですもの。君はお帰りになるはずはありません。どうぞゆっくりと」

家持こたえて、「千重に積もる雪ですから、立ち帰りかねていますが、 そろそろおいとまいたしましょう」

お正月の宴も、こんな問答の歌で楽しく進行していくのです。

 

              (新匠工芸会会員、織物作家)

 

染めと織の万葉慕情39

  養蚕の歌(2)

   1982/12/24 吉田たすく

養蚕の歌のつづきです。春の新しい桑の芽で整った繭の歌です。 今いうハルコという春産のカイコの事で年に二回か三回養うカイコさんの中で一番よい絹の取れるカイコさんです。

 筑波嶺(つくばね)の

  新桑繭(にひくはまよ)の

   衣はあれど

  君が御衣し

    あやに着欲しも

 この歌は東歌(あづまうた)といって関東地方の歌で、今でいう民謡だそうですが。

 筑波嶺は茨城県筑波郡にある男女二降を持つ山として知られ、春秋ここでカガイ(思いを歌にたくして男女が集まる交際の場)が行われ上代人の生活と深くつながっていた事が、風土記や万葉集の説話や歌でわかると岩波書店の日本古典文学大系の萬葉集に出ています。 そのツクバ山の新しい春の桑の葉で養った繭で作った美しい絹織の衣、そのうるわしい衣はさておき、あなたのやわらかいお召物を、不思議なほどに着たいと無性に思うのです。

 御衣を着欲しとは、あなたの体の事を衣にたとえてあなた自身を着たいと詞っているのです。

 万葉当時から筑波の嶺のふもとは養蚕の盛んに行われ、美しい絹織物の産地であったので、このような歌が作られ、筑彼の嶺のウタガキでにぎやかに男女の歌韻にのった事でしょう。

 同じ常陸(ひたち)の国の歌に「布を乾す」歌があります。

 筑波嶺に

  雪かも降らる

  否(いな)をかも

 かなしき 児ろが

  布乾さるかも

 冬になり雪の時季になって来ましたが、 筑波嶺の山にも雪が降りつもったのか、あの白いのは、いやそれともいとしいあの児が新しく絹を織って曝して乾かしているのだろうか。

 筑波嶺の歌が出て来ましたのでウタガキに歌われた歌だと思われる歌がありますので紹介しましょう。

 筑波嶺の

  嶺(ね)ろに霞居

   過ぎかてに

  息づく君を

   卒寝(いね)てやらさね

 筑波嶺の嶺(ね)ろ、ミネに(寝ろ=ネロ とよましています。) ミネにかかる霞が動かないように、あなたの側を通り過ぎきれないで溜息をついているお方を、一緒に寝てやって帰してやんなさいよと第三者が女に歌いかけるひやかしの歌でしょうか。

 東歌にはこんなにゆかいな歌があるのです。

 小筑波(おづくは)の

  嶺ろに月立(つくた)し

   間夜(あいだよ)は

  多(さはだ)なりのを

   また寝てむかも

小筑波の山に月がまた出て来るようになって一カ月もすぎお前と逢わない夜がつづいたが、また一緒に寝ようか。

今一首。

小筑波の

 繁き木の間よ

  立つ鳥の

 目ゆか汝をみむ

  さ寝さらなくに

 筑波の山の繁みの間を飛び立つ鳥を捕え難いように、お前を見ているだけで居なければならないのか、一緒に寝たこともあったじゃないか。

 何ともおおらかな恋の歌ですね。 

              (新匠工芸会会員、織物作家)

染めと織の万葉慕情38

  養蚕の歌(1)

   1982/12/24 吉田たすく

 絹の歌につづいて、絹を作る養蚕の歌を取り上げてみましょう。

 背の君に衣を染めてあげようとか、好きな人のために衣を織ってあげたいという歌はたくさん有りますが、自分自身でカイコを飼って絹糸を作り、衣を作ってあげようという歌は有りませんでした。

 母が養う歌でした。母が養う子の繭・・・と詞うのです。

 カイコさんの繭は、虫がマユにこもってかくれているので、其のさまを詞んで人の隠れるさまにあてた歌です。カイコの事を万葉では養ふ蚕(かふこ)、原文では「養子」(かうこ)という字で書かれています。 小さな虫をカウのでカウコというのでしょう。これが変じて、今いうカイコになったのだと思います。

 たらちねの

  母が養ふ

   蚕の繭(まゆごもり)

 隠れる妹を

  見むよしもがな

 たらちね。お母さんのちちは、大きくたれているのがたのもしかったのでしょう、母の枕詞です。

 そのお母さんが養っているカイコさんは、やがて繭に入って隠(こも)ってしまうように、こもなってしまって人に逢わないあなたに逢うてだてはないのだろうか。あいたい…隠れる形容にカイコを使った歌でした。

今一首、

これもさきの歌と同じく母が養ふ蚕で始まります。

 たらちねの

  母が養ふ蚕の

   隠(まゆごも)り

  いぶせくもあるか

   妹に逢はずして

 たらちねの母が養っているカイコさんのように、繭に隠ってしまっていいるあなた。 いぶせくもあるか、心持ちが内にこもって晴れない事です。

 妹(いも)あなたにお逢いする折がないので。このように妹に逢えない、妹が見えない、失恋の苦し い思いに悩まされて、いっそ、人間を捨てて物を想わぬカイコにでもなってしまおうという歌もあります。

 この歌のカイコは、原文では桑子(クワコ) と書かれています。 カイコが桑の葉を食べて育つので、桑の子というのです。

クワコ変じて、クワイコーカイコになったのかも知れません。当時、すでに桑の葉でカイコを娶った事がうかがわれますが、自然に生えた桑の木にカイコをつけて登っていたのか、今のように桑の木を栽培してその葉を

毎日採集して家内でカイコを養ったのか分りませんが、「たらちねの母の蚕の」と歌われたさきの歌のニュアンスからみれば、家内の養蚕の感じがします。そうすれば、当時の養蚕と現代とあまり変わっていないようですから、養蚕文化はずい分古くから発達していたように思われます。

では、桑子になりたい一首

 なかなかに

  人とあらずは

   桑子(くわ)にも

  ならましものを

   玉の緒ばかり

 (こんなに苦しい思いでいるならば)なまじっか人間でいないで、何の物思いもしないカイコにでもなったらよかったのに。玉の緒ばかりとは曲玉、管玉を通すひもの事で、ネックレスのひもです。絶え、乱れ、短いのたとえに使われるので、この歌では短い間でもよいからというのでしょう。

 歌で当時の様子を想像してみるのも楽しいものです。

        (新匠工芸会会員、織物作家)

 

染めと織の万葉慕情37
  絹の歌
   1982/12/17 吉田たすく

 

 

今日は絹の歌をとりあげてみます。 染織材料の歌で一番多いのが麻の歌で、万葉の全巻中三十五あります。これは麻が当時の人達の通常着であって沢山栽培され、織られ、着られていたからなのです。これにくらべ絹の歌はずい分少ないので、す。歌数が少ないから絹布が少ないだろうと比例的に考えるのもおかしいかもしれませんが、思いの外少ないのでした。
 絹は天皇家やその周辺の人達とか豪族達のよう.な数少ない貴族の人達の衣料でありました。文筆にしたしむそういう貴族の人達の歌に取りあげられてもよいと考えてもみるのですがとにかく少しの歌しか見あたりませんでした。

その内の一首

 西の市に
  ただひとり
   出でて目並べず
  買ひてし絹の
   商(あき)じこりかも…

 西の市は平城京右京八条二坊に開かれる市だそうで今でいうバザールなのでしょう。色々な品物が持ちこまれ物々交換の商が始まり麻布も出ていたでしょうが、それらの中で絹布を一人で見てだれにも相談もしないで買ってしまったが、あまりよい絹布でなかった、「しくじったなあ」というのです。
 ある学者はこの歌は女(ひと)の事を肩にたとえて飼った歌だといいます。
 西の方のちまたへ一人行き、よくしらべもしないで、人にも相談もせず一見惚して結婚してしまったが、今から思えば見かけだおして、まずい女だったとの意だそうです。絹という美しい布のイメージとはかけはなれた感じの歌のようです。

つぎにもう一首

赤帛(あかきぬ)の
 純裏 (ひつら)の衣
  長く欲(ほ)り
 わが思ふ君が
  見えぬころかも

 帛の字を書いてキヌと読ませています。赤絹ですから紅(くれない) 染か茜(あかね)染の赤色の絹です。
純裏 (ひつら)とはヒタウラ・ヒトウラというのです。 赤い絹のあわせの衣です。 このあわせの衣の表布と裏布とがびったりくっついてい
るように。あなたと二人はぴったり長くくっついていたいと思うんだが、私が思うあなたはさっぱりお見にならない此頃ですこと。

 次の歌は絹は絹でも上等ものでなく繭(まゆ)からじかに手でつむいだ絹の歌で絁(あしぎぬ)の歌です。

 富人の
  家の児どもの
   着る身無(みな)み
  腐し棄(くたしすつ)らむ
   絁(きぬ)綿らはも

 高貴な物持の家の児が、着物が多くて、着る身が足りないために腐らしてすててしまうアシギヌはマワタよ、ああもったいない、と貧者がなげく歌です。
この歌は山上憶良の歌で児を思う歌の中の一首です。 憶良は貧しい人の生活描写の歌がかなりあより、当時の庶民の生活がしのばれます。
         (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

 

 

染めと織の万葉慕情36

  榛の木染 (3)

   1982/12/10 吉田たすく

ハリ()の木の歌をもう一度。

 伊香保ろの

  咀(そひ)の榛原

    ねもころに

 おくをな兼ねそ

  現在(あさかし)善かば

 

伊香保ろは群馬県北群馬郡の山の事で「榛名山」といわれています。その山はハンの木の林が茂っていて、その名が有るのかもしれません。急な斜面のハリ原のハリの木がよく染まるようにこまかい事などに、今から将来のことを心配なさんな、目前の今さえ幸せですもの。と歌っています。 

 

また一首。

 

伊香保ろの

 唄(そひ)の榛原

  わが衣に

 着きよろしもよ

  一重と思へば

 

伊香保ろの嶺の榛名山の急斜面の榛原のハリが私の衣に実によく染め着くように、あの児は裏表ない純な心を持っているからね。(あの児は純な気持ちで私にぴったり合うのだから)人の気持ちと気持ちがふれあう事を心がそまるといい、衣が染まる事にたとえて歌うのです。

そのよく染まる榛の木伊香保の唄(そひ) 急斜面に生えている歌ですが、伊香保に限らず、この近くの榛の木も、大山や蒜山のすそ野の榛の木も急斜面に生えているのです。

 

 時ならぬ

  斑の衣

   着欲しきか

 島の榛原

  時にあらねど

 

  いつもいつも斑の衣(染色の色の濃淡の一様でない染衣を着たく思っています。島(奈良明日香村の島の、ここに榛の林があったのでしょう)の榛原のハリは染める時季になっていないけれども。(私の心はあの児あらねどの体を着たく思っているけれども、あの児は私に染まる気にまだなっていないんだなあ、あゝ)ま同じく島の榛原を詠んだ歌一首。

 

思ふ子が

 衣摺らむに

  にほひこそ 

 島の榛原

  秋立たずとも

 

私の恋人のあの児が、衣を染めようとしているが、よく染まっておくれ、島の榛原のハリの木よ(秋にならないでまだ青い木だけれども)

 

この二首はたぶん九月か十月ごろに詠んだ歌のようです。さきの一首は(染まる)「時にあらねど」ですし、次の一首は「秋立たずとも」と歌っています。

榛の木で染色するには榛の木が成熟して黄葉になった時が、一番よく染まるものです。 また秋になっていない時季にハンの木で染まりたい、染まってほしいと歌い、恋のいら立ちを詠みあげているのです。

榛の木のような、茶色黒色の染まる草木は十一月から十二月初めに一年間染める分を採集しておきます。染料植物を採集するとき、万葉歌の榛原の歌など思い出して、山野草木を恋心にたとえて歌った当時の人たちを忍ぶのです。

                   (新匠工芸会会員、織物作家)

染めと織の万葉慕情35

  榛の木染 (2)

   1982/12/3 吉田たすく

ハリ(榛)染のつづきです。

「ハリを衣に摺りつけ」という歌がありますのでその一首

 

 住吉の

  遠里小野(とおさとおの)

   真榛(まはり)もち

  摺れる衣の

   盛り過ぎ行く

 

大阪市と堺市に遠里小野があるそうですが、そこの榛の木をもって摺って美しく染めあげた衣も年をへて色あせて行く事だ。我が身の衰えを嘆く歌のようです。 

 

また一首

 

 古(いにしへ)

  ありけむ人の

   求めつつ 

  衣に摺りけむ

   真野の榛原(ハリハラ)

 

昔の人々が求めては摺りつけて染めた真野(神戸市長田区と愛知県の豊橋市との二説あります)の榛原はここですよというのでしょう。

この二つの歌は共にハリを摺りつけと歌っているので、摺り染めの事であり、それが出来るのは花であろう。このハンというのはハギの花である薬のという説もあるのです。

あの可憐なハギの花ですから衣に摺り染したい気持もわかります。

万葉集巻七の譬喩歌(ひゆか)の中に玉に寄ず歌とか花に寄す、鳥に

寄す、雲に寄すなどの寄す歌にならんで木に寄す歌があります。 その木に寄す歌の第一につぎの一首がのっているのです。

白菅の真野の榛原心ゆも思はぬわれし衣に摺りつけ真野の榛の木を心から思ってもいなかったのに、自分の衣に摺り染めしたことである(自分はそうは思わなかったけれどもあの児と摺りつけ染まってしまった事だ)。この歌も摺り染と歌われているのでハギの花ではないかと思われますが、 この歌は「木に寄す」 歌の中であって「花に寄す」歌ではないのでありま

す。

 

ハンの木は先週書きましたようにその木や皮木の実が染料になりますから、花染でなく木で染める染料という事で木に寄す歌に入っていると思います。

ハンはやはり榛の木だというのです。 その木を染めるには摺り染では染まらず、本式の媒染をして染めなければなりませんが、その事をふまえて、あえて摺りつけ、と歌っているのです。

  住吉の

   岸野の榛に

     染(にほ) ふれど

  染(にほ)はぬわれや

    にほひて居らむ

 

 竹取の翁の歌(竹取物語ではありません。万葉集の巻十六にのる長歌)の反歌のあとにつづく乙女らにこたえる歌の一首ですが、住吉の小野の榛で染めようとするが、なかなか染まらない私である。(心がなびかない)とのにあの児たちは友だち同様に依り従うことだろうかとの意だそうです。

まだまだ沢山の榛の染の歌があります。心を染めるたとえにこの榛染の歌が沢山あるという事は、当時榛の木で盛んに染められていた事がわかります。

                         (新匠工芸会会員、織物作家)

 

映画『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』が全国の映画館にて年末から公開されていて昨日観てきました。

 1980~90年代 私は完璧な仕事人間で、テレビも見たことがなく、音楽もあまり聴いていませんでしたが、その頃印象に残っている女性歌手はマドンナとホイットニーヒューストンでした。

 マドンナは軽いノリで車を運転している時などは良いのですが、媚びたつくりが鼻について好きになれませんでした。

その点 ホイットニーヒューストンはR &Bの世界ですが、直球勝負。 好きな歌手でした。

 今回は『ボヘミアン・ラプソディ』の脚本家がホイットニー・ヒューストンの、名曲誕生の瞬間や「歌いたい曲を、自分らしく歌う」ことに命を燃やした栄光の半生を、数々のNo.1ヒットソングとともに臨場感たっぷりに描ききった映画です。

 ホイットニーヒューストン役のイギリスの女優ナオミ・アッキーは、笑い方や些細な仕草、息遣いや喉の動きなど「ホイットニ ーすべての動きを分解し、身につけた」と語っていますが、ナオミ・アッキーの一部の歌声と動作もまるでホイットニーを彷彿とさせる感じで素晴らしかった。

1992年に実物のホイットニーがケビンコスナーと共演した映画「ボディガード」を見ていますが、その遠い思い出も甦り、更に心が盛り上がる。

 類い稀な感性

  広すぎる音域

    響き渡る声量

ピアニッシシモからスフォルツァンド

 ホイットニーの素晴らしさが蘇りました。

そして

もう一度 あのケビンコスナーとの共演のボディガードが観たくなりました。

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1963年US・ニュージャージー州生まれ。幼いころから教会で歌い始め、母親である歌手のシシー・ヒューストンのステージで歌っているところを、スカウトされ 1985年、デビュー・アルバム『Whiney Houston(邦題:そよ風の贈りもの)』は大ヒットとを記録し、1987年に発表した2枚目のスタジオ・アルバム『ホイットニーII〜すてきSomebody』は、ビルボード200チャートに初登場1位を記録する(女性歌手では初)。1992年、ケビンコスナーのオファーで初主演した映画『ボディガード』の主題歌「I Will Always Love You(邦題:オールウェイズ・ラヴ・ユー)」は全米シングル・チャートで14週連続No.1を記録し、映画のサウンドトラックは1994年のグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞するなど、高い評価を受け、アルバムからのリカット・シングル「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は自身最大のヒットとなった。

ホイットニーは世界で最も売れている歌手の1人で累計セールスはアルバムが1億4,000万枚以上、シングルは5,000万枚以上で、アメリカ合衆国のRIAAより「アメリカ合衆国で(女性アーティスト史上)4番目に売れている歌手」と評価されている。また、音楽雑誌「ローリング・ストーン」によりその声を「強力で鋭いポップ・ゴスペル」といわれ、

 シングルは「Saving All My Love For You(邦題:すべてをあなたに)」から以降7曲連続で全米シングル・チャート1位を獲得しビートルズの記録を破り、R&Bの枠を超えて、多くのファンを魅了し、その唯一無二の圧倒的な歌声は“THE VOICE”と称えられている。アルバムやシングルなどは、これまでにトータル・セールス2億枚を売り上げ、6部門のグラミー賞を受賞など400を超える受賞歴はギネス世界記録に認定、音楽史に残る大偉業を成し遂げた。来日公演のため7回来日。2012年2月11日、不慮の事故で死亡した。享年48歳。

本作はそんな彼女の、ジャンルも人種も超えた<グレイテストソング>誕生の瞬間や、「歌いたい曲を、自分らしく歌う」ことに命を燃やした栄光の半生を、数々のNo.1ヒットソングとともに臨場感たっぷりに描ききる。「スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け」のナオミ・アッキーが主演を務め、ホイットニーを見いだした伝説の音楽プロデューサー、クライブ・デイビスを「プラダを着た悪魔」のスタンリー・トゥッチが演じる。

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1992年の映画『ボディガード』のシーンを背景にホイットニーの歌をお楽しみください

https://www.youtube.com/watch?v=3JWTaaS7LdU

https://www.youtube.com/watch?v=FxYw0XPEoKE

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2023/2/11、12には愛知見芸術劇場大ホールで

  ホログラムコンサートまで模様されるそうです。

 2022年12月に民藝の勉強で大阪・京都と回りましたが、その一環で、飛騨高山の日下部民芸館へも行ってきました。

 

 初めて訪問したのは、先回書きました様に、ブルーノ・タウトの『日本美の再発見』に導かれ18歳の一人旅です。

金沢から様々なアクシデントに見舞われ苦難の末到着した飛騨高山で、300年以上の営みを紡いできた名家「日下部家」の民芸館に伺い、その素晴らしい建物に感動し、その後今までに五度ほど訪問しています。

 飛騨といえば山奥のイメージが強いですが、飛騨は元禄時代に幕府の天領になり、豊かな材木や鉱産物を扱う商家が発展し、高山祭の華麗な屋台でも知られるように、。金に糸目をつけずに文化を造った豪商たちの町衆文化が栄えていました。この飛騨において日下部家は幕府の代官所(高山陣屋)の御用商人を代々務め、両替商を営むような豪商でした。

現在の建物は1875年(明治8年)の大火で焼失した後に再建されたものですが、江戸時代の建築様式で建てられていて、飛騨高山を代表する豪商の古い屋敷(民家)として1966(昭和41)年に明治建築の民家としては日本で初めて重要文化財に指定され、これと同時に「日下部民芸館」として開館しました。


 

 全国に民芸館や民芸に関する美術館等は20以上存在しますが、ここは民芸館としては小さな方の美術館です。しかしながら、到着してみるとここが一番だと思える位の素晴らしい感動があります。

 正面から見た外観は、商家とは思えないほど豪壮でとても重厚な印象。屋根は低くゆるやかで軒が深く、雪の重みに楽々と耐えるように配慮しているのでしょうか。

 

 玄関を入ると広い土間。見上げると長い年月の囲炉裏の煤(すす)で漆黒に染まった梁と束柱の豪快な木組が印象的な吹抜け空間。その重厚な柱。大きな囲炉裏に自在鉤、素晴らしい商家です。


 

襖の意匠にも上流階級にふさわしい上質さが表現されています。囲炉裏の間にはぬくもりが今でも残っているように感じます。

 とても広い空間で、大勢の来客や使用人で賑わっていた当時の様子まで伝わってくるような感じです。

 

上に上がり母屋を拝見

母家を奥に抜けると中庭のような屋根のない土間がありその奥の土蔵は民芸品の展示施設になっています。

 

写真の説明はありません。

 

 

 日下部民芸館は建物の素晴らしさばかりが強調され、特に初めて訪問した者にとっては、入った瞬間の素晴らしさに感動して他の室内や別棟で陳列してある民芸品などが霞んでしまうという可哀想な効果も生んでいますが、11代目当主が、柳宗悦の提唱する『民藝運動』に共感し、自邸を一部改装して『民藝館』として昭和41年に開館し河井寛次郎や濱田庄司などの作品や様々な民芸品を含め、日下部家が代々使っていた様々な生活用具(民芸品)も陳列されています。

 















































 土蔵以外にも館内の各所で日下部家が使っていた様々な生活用具が展示されています。それぞれが良いデザインのものばかり、代々がセンスの良い方だったのでしょうね。

 全国に重要文化財の古民家は沢山あり、古さや作品をただ雑然と見せているだけという感じのところも多いのですが、ここは展示品と建物の見やすさは抜群です。清掃も行き届いていて、オーナーがとても大切にされていることが伝わり気持ちの良い所です。

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岐阜県高山市大新町1-52

0577-32-0072

高山駅[東口]から徒歩約16分営業時間:

3月~11月 8:30~17:00

12月~2月 8:30~16:30

定休日:火曜日(祝日の場合は翌日)