Fラン大学生の気になったアレコレ

Fラン大学生の気になったアレコレ

頭が悪いなりに考えてみたことを書いてます。
意見等あれば気軽にお願いします。

Amebaでブログを始めよう!

こんにちは。

 

本日、大きく報道されていたので今回取り上げてみようと思います、

朝日新聞:ヤマハ、JASRACを提訴へ 教室演奏の著作権めぐり

 

そもそも著作権って?

著作権(ちょさくけん、英語: copyright、コピーライト)は、明確な形を持たない無体財産(無形固定産)である。 主な無体財産は、書物、言語、音楽、絵画、建築、図形、映画、コンピュータプログラムなどである。 また、特性が類似する特許や商標も含めて、知的財産と呼称する場合もある。
Wikipedia
このように、「自分が作ったもの」に対して、その物の権利を「著作権」としています。これは簡単に言うと、自分の作品を誰かが真似して利益を得るのを防ぐ役割です。
 
自分が何年もかけて頑張って描いた絵や作り上げた曲。でも真似るだけなら、すぐ出来てしまいます。
 
作った人間は途方もない努力をしてきたもの。それを真似て利益を得てしまう人間がいたら、頑張って作る意味がなくなってしまいます。
 
そこで「著作権」を設けることで、真似することを禁止しました。どうしても真似したいのであれば、「お金を払って使ってね」と。
 

JASRACって?

JASRACは音楽の著作権を管理している団体です。
 
著作権を自分で管理しようとすると、自分の作品に人気があればあるほど問い合わせがきます。
「著作権料を払うから使わせて」って。
 
でも、自分が対応するには数が多すぎる…。
 
そんなとき、自分の代わりに著作権の管理をしてくれるのがJASRACです。
 
JASRACは作った人の代わりに、使用料を受け取り、作品の使用の許可を出します。そして受けとった金額から代わりに管理している管理費を抜いて、作品を作っている人にお金を渡します。
 

なんで提訴されたの?

JASRACは著作権者の音楽を使用している人からお金を受け取ります。
 
今回問題になっているのは、「音楽教室での楽曲の使用」
 
普段、お店で流れている音楽やカラオケで歌う楽曲からはもちろん使用料を取っています。しかしこれは「音楽を利用してお金を儲けている」から。
 
誰かが頑張って作ったのに、それを無料で使ってお金を儲けるということは許されていません。
 
その音楽に魅力があって人が集まって利益が出るのであれば、作った本にはそれなりの報酬が支払われるべきです。
 
しかし、今回の問題は「音楽教室」であること。
 
音楽教室は確かに音楽という分野で人を集めているかもしれません。ですが、「音楽を聴くために」集まっているわけではないのです。「音楽を練習するために」人が集まっているのです。
 
曲が人を集めるのではなく、楽器が人を集めているのです。
 
そのため、音楽教室側は「お金を儲けるために楽曲をしようしているわけではない」としていますが、JASRACは「楽曲を使用して利益が出ているのだから使用料を払うべきだ」としています。
 
他人の楽曲を使用することについて、作った本人に報酬があることは必要です。しかし、練習する場にまで著作権の使用料は必要とされるのでしょうか?
 

個人的見解

もし、「ピアノのコンクールで入場料があります。誰かの楽曲を使用しました。演奏者には出演料が支払われます。」となれば、著作権の使用料は必要だと思います。
 
誰かの楽曲を使って、利益を得ている人たちがいるのですから。もしかしたら、入場料を支払ってまでその曲が聞きたくて来た人もいるかもしれません。
 
しかし、「ピアノ教室に通っていました。今日の練習曲は○○です。」のような場合には、不要と考えるべきではないでしょうか?
 
「ピアノを練習する過程において、利用しただけ」という場合には、その楽曲自体の魅力には関係ありません。「曲<ピアノ」の関係であるので、そこに聴かせる意図はなく、それで利益を上げているとは考え難いです。
 
 
『利用された楽曲にどの程度、他人への影響力が存在するかどうか』で判断すべきだと、僕は思います。
 
楽曲は、「ライブで他者に聴かせる」「お店の雰囲気を決める」「音楽教室で練習曲として使う」…など数多く利用方法はあります。
 
音楽ライブで他者を喜ばせるために使用したのであれば、それはバンドの個性だけではなく、曲の良さが関係してきます。しかし、音楽教室においてピアノを練習することよりも、使用楽曲の良さで教室が変わらない限り、そこには影響力はないのではないでしょうか?
 
 
将来、作詞作曲をしてアーティストとして活躍する人も最初は練習から。その練習の場が著作権料によって通うハードルが高いものになってしまうのではないかと不安に感じています。
 
著作権料で生計を立てている人にも、その人なりの生活があるのでこれが良いとは言えないのですが、次世代の芽を育てるつもりで音楽教室においては著作権料を徴収しない方針であったらなと思います。

近年、Youtubeに動画を上げて、その広告収入で収入を得るYoutuberの存在が出てきました。

 

最近では、テレビへの出演やCM出演、報道されるようにもなっています。

 

Yotuberの影響力は日に日に大きくなっています。

 

今回はYoutuberから広告について考えていきたいと思います。

 

そもそもYoutuberとは?

Youtuberは先述した通り、「Youtubeに動画を上げ、その広告収入で利益を上げている人」のことを言います。最近では、収入を得ていなくてもYoutubeに動画上げる人、全般を指してYoutuberということもあるようです。
 

Youtuberの収入はいくらくらいなの?

Youtuberの収入は広告収入ですので、それは広告を見た人の人数=動画を再生された回数に比例します。
 
1再生あたり0.1円という方が多く見受けられます。
 
Youtubeでは「チャンネル登録者数」といって、簡単に言えばファンがいるかどうかも見られるようです。
 
芸能人をはじめとした有名人もそうですが、ファンがいるというのは、相応の影響力があるので、その分再生数当たりのレートも高くなる傾向にあるみたいです。
 
収入について具体的な数字で発表している人気Youtuberは、今のところいないようです。
 
ですが、Youtuberの方が人気Youtuberの収入について予想した動画が上がっていました。
 
そちらでは人気のYoutuberの年収は億越えだそうです。
 
これは人気のYoutuberならではの膨大な動画再生数に加え、企業案件(商品紹介・コラボ案件)があるからですね。
 
企業案件では一本当たり100万円を超えるとかなんとか。
 
「Youtuberって儲かるんだな」と思う方もいるかと思いますが、それ以上に注目すべきは広告効果とその影響力ではないでしょうか?
 

Youtuberの影響力

広告媒体としてのYoutuberの魅力は

①動画再生数を根拠とした影響力

②特定の年齢層にダイレクトに広告できる

③商品について、具体的な内容を紹介できる

 

これらの点でメリットが大きいのではないでしょうか。

 

①動画再生数

「動画再生数=広告が表示される回数」
 
いつも使っている検索サービスでも広告は表示されますが文字形式。
 

なかなか商品の良さを伝えづらいです。

 

しかし、動画サイトでは動画広告として表示することができ、その上Youtubeでは動画再生前に強制的に表示することができます。

 

動画が再生されれば再生されるほど、企業としては商品やサービスを告知することができ、Youtuberは広告収入が入る。

 

WINxWINの関係です。ここでの敗者は広告を見せられてる視聴者。

 

ほんの数秒ではありますが積み重なれば大きいものです。

 
しかし、視聴者としてもお金を使っているわけでない。無料の動画サイトだから仕方ない。
 
そう思って受け入れることができるわけです。
 
人気のYoutuberの再生数と、強制的な広告は大きな武器になるのです。
 

②特定の年齢層にダイレクトに広告できる

Youtuberの視聴年齢層ははっきりしています。
 
特に人気Youtuberほど、自分の動画の視聴者層を把握し、そこに向けた動画を作成しています。
 
つまり、特定のYoutuberに商品紹介をしてもらうことで、特定の視聴者に向けて広告ができるのです。
 
誰でも閲覧できるネットであるからこそ、誰に広告が届くかわかりづらいのです。
 
最近ではネットで閲覧したものから、おおよその年齢や趣味趣向は把握できるような仕組みになっていますが、それでも完全ではありません。
 
そこに比べると、人気のYoutuberに関しては視聴する人が限られています。
 
どの年齢層に人気があるかは一目瞭然。
 
10代に向けて広告がしたいなら、10代に人気のYoutuberを起用する。
 
ネットと関係なく、テレビでもそうですよね。
 
女子に人気の女優さんを化粧品のCMで起用したり…
 
ですが、テレビのCMはテレビを見ている人全員に広告します。
 
女性が視聴が多い時間や番組を狙うことはできますが、見ているのは女性だけではなく年齢層もバラバラ。無駄も多い。
 
ネットでは個人を対象として広告することができますので、より的確に広告できるのです、
 

③商品について、具体的な内容を紹介できる

テレビにしても、ネットにしてもCMというのは、短い時間で簡潔に商品の良さを伝える。
 
しかし、具体的な商品の使い方や良さについてはなかなか伝わらない。
 
商品の良さを告知しているけど、本当かどうかもわからない。
 
ですが、Youtuberが商品紹介・レビューをすることで具体的に商品の良さを伝えられる。
 
しかも、CMと違って素人に近い人間を使っているので、より消費者に近い目線でレビューが聞ける。
 
広報としては良さを売り出したいことなのですが、「広告ができる+消費者目線」という広報者と消費者の両者にメリットがあるのが特徴です。
 
今までの広告の特徴である「短時間で良さを伝える」ことの、デメリットだった部分を補う形で広告できることが最大のメリットですね。
 

まとめ

テレビからネットへと移り、広告の形が変わりましたが、テレビとネットの間の存在である動画が出てきたことによって、さらに新しい形の広告が出現しました。
 
それを今度はYoutuberという新しい社会的な存在によって広告としての価値を持たせています。
 
私たちの身近な世界ではこれが徐々に浸透しつつありますが、その裏では多くの企業がネットを用いた新しい戦略を立てています。
 
現在ではまだこのような形ではありますが、そのうちネットやYoutuberを活用した更なる広告の出し方というのも出てきそうです。
放置しっぱなしで、久しぶりに書きますね…
最近も様々な報道がされていますが気になったのは経済です。

「デフレ脱却」「物価上昇」という言葉をニュースなどで耳にしたことがある方は
多くいらっしゃるのではないでしょうか。

景気回復が目的ではありますが、
なぜそのような言葉をよく聞くのでしょうか?

僕はそれほど頭が良い方ではないのでよく分かりませんが、
人から聞いた話をまとめてみました。


『バブル以降経済は低迷していると言いますが、
リーマンショック以前は景気は回復傾向にあったようです。

しかし、その回復の兆しもリーマンショックによってまた低迷…

日本だけではなく、全世界を巻き込んで経済的な混乱が生じました。


日本では今でも景気はあまり良くないと言っておりますが、
リーマンショックに巻き込まれた他の国は現在どうなっているのでしょうか。

某雑誌によると、大学初任給から各国の経済状況を比較し、
日本が大卒で20万円とするとアメリカやオーストラリアは40万円程度…。

年功序列型ではないため、純粋な比較はできませんが、
しかし、以前と比べて伸びているようです。

また韓国やブラジルなどとの国と比べても日本の方が低い。

他国に抜かれていっているのです。』


とのことでした。

他国でも富裕層・貧困層の二極化が進んでいるそうですが、
それは置いておくとして…。

リーマンショック以降、他国では景気を回復する兆しがあり、
初任給で比較しても以前と比べて伸びている現状があります。

日本では景気回復の兆しすら見えず、
気が付けば韓国やブラジルに抜かれていっているようです。


物価上昇するには給料が増えなければ無理でしょう。
生活するのにかかるお金が増えるのに、給料は現状のままでは
生活が厳しくなり、さらに購買意欲はなくなるばかりです。

それに同じ金額で今までの生活を維持しようとすれば、
今までと同じものをより安く手に入れようと思うはずです。


今までと同じ商品を安く手に入れたいという気持ちは、
企業に対して「安くないと売れない」というプレッシャーになり
販売金額は下落し、企業に入るお金は少なくなる。
そして従業員の給料は減り…

というデフレのスパイラルです。


政府は物価上昇から
企業の収益増→従業員の給与アップ→インフレの流れに
変えていきたいようですが…

ちょっと待って?
給料が上がる前に物価上昇?

「同じ給料で生活水準を維持しようと思ったら安い物を買ってしまうのでは…」

と思ったのですが、最悪のシナリオ。
「一番安いものすら高くなるのでは?」

安ければ売れますが、企業としても高く売れるなら高く売りたい。
特に他の企業が高く売っているなら尚更…

現在は安い方が売れるので、下手に高くすると売れなくなる。
他の企業がどう動くか、みんな見極めているようです。


しかし、そのような形から始めてしまえば、
国民は給料が上がるまでの一時期においてかなり苦しい時期が出てくるはずです。

安い物を買おうとする心理がより大きく働くのでは?
でも、一斉に値上げされたらその逃げ道すらなくなる…

かなり苦しいのかもしれません。


現在は、法人税の引き下げで内部留保が増えているそうなので
僕としてはそこを切り崩して給料の増額にあててから、
物価上昇を目指した方がいいのではないかと思いますが、
世の中そう単純ではないんでしょうね…。


まとまった気はしないのですが、
とりあえず書きたいことを書いたのでよしとしましょう。
忙しく過ごしていたら、更新するのをすっかり忘れていました。
更新もしないのにアクセスがあるなんてAmebaってどうなってるんですかね…。
多分記事目的ではなさそうですが。

さて、気が付けば衆議院選も終わって、政権は継続とのことで。
今回、選挙に何百億という費用をかけるだけの意義はあったのでしょうか。

「投票率が低い」ということを問題視する前に
「選挙費用の無駄」を削減するべきなのではないかとも思いますけどね。

投票率が低いのは国民の中で権利放棄してる人がいるだけなので、
例え低かろうと、選挙の結果は結果。

棄権してる人が文句を言うことではないのですよ。

棄権してる人に対して政治参加を呼びかけたところで何か意味があるんでしょうか?

確かに政党や候補者からすれば、
「捨てるくらいなら自分に一票入れてくれ」と思うんでしょうけど…。

だからといって、何も考えず適当に投票される方が
真面目に国のこと考えて投票してる人たちからしたら困るんじゃないですかね。

通常では考えられませんが
「この政策を取れば国として終わる」みたいな政党に
票が入る可能性が出てくるんですから。

結局は国の将来を考えてる人が、
投票に行けばそれでいいんではないでしょうか?

投票率なんて数字よりも、
「投票に行った人たちがどれだけ真剣に国の将来を考え、投票しているのか」
ということの方がよっぽど大事だと思いますけどね。



そういえば選挙といえば「供託金」ってありますよね?

選挙の妨害や売名を禁止するために、
立候補するならお金を用意しないといけないやつです。

僕は売名はどうでもいいと思うのですが、
選挙の妨害という点では確かに必要だなと思うわけです。

自分の候補者を勝たせるために、他の候補者の邪魔をしたければ、
その候補者と全く同じ政策を掲げればいいんです。

候補者が有名人であるとか、候補者の経歴だとかが絡んでこなければ、
政策が同じならどちらに入れても同じ、という状況が生まれます。

そうすると票が割れる、という事態が起きます。


例えるなら、
もともとA氏が3万票、B氏が2万票の予想だったとしましょう。

ここでA氏の邪魔をするために、
全く同じ政策を立てたC氏を立候補者として出します。

その2つの候補者で票が割れると…?
A氏、C氏の両者とも1万5000票、となります。

こうなると、本来勝てなかったはずのB氏が
勝つことができる状況が生まれてしまうのです。

本来望まれている政策を実行する人が落されてしまう事態に
陥ってしまうのは避けるべきですよね?


そういうことがないようにお金を用意させて、
要件に該当しない場合は没収という形をとっています。

言ってしまえば、立候補者の本気度を測ってるようなものです。

それだけのお金を出すのだからできれば勝ちたい、
頑張れば還ってくるかもしれない…と思えばやる気にもなり、
また遊び半分で出たりはしづらい状況になるでしょう。


しかし、憲法の観点からみると少し変です。

一定の年齢を満たせば被選挙権が認められるはずです。

どんな富裕層にも、貧乏な人も、皆すべて平等に与えられる権利です。

しかし供託金を考えると、
資力がない人は立候補することができないという事態が起きます。

つまり一定以上の資金力がない人は被選挙権がない、
若しくは制限されている状態に陥ってしまうわけです。

これでは平等が守られていないのでは…?


それでも、最高裁は合憲とのこと。

選挙において、売名行為や妨害行為を排除するには必要なことなんだそうです。


ただ、日本の供託金制度は額が高いです…。

選挙に出るためにはそれ以外にも費用がかかるにもかかわらず、
供託金でこんなにも取られるとは…、といった感じです。


そもそも、選挙費用も貧富関係なく
同額になるように使用できるものにも制限も受けたらどうなんですかね?

確かに基準を設けてるものもありますが、
やはり資金力の差はありますよね。

厳格な基準、平等な条件の下で、
行われるようにならないものなんですかね…。




…なんだか話がまとまらなくなってしまったので強制終了です。

また近いうちに更新できたらいいな、とは僕の単なる願望です。
なんとなく久々な更新な気がします。
たぶん本当に久々なんでしょうね。
キーボード触ってもワード開くくらいしかありませんでしたから。

ニュースなんて見る間もなく
色々用事があって忙しく動きっぱなしだったのですが
昨日で終わったので今日くらいゆっくりしよう、と。


で、テレビを見たら「え?」ってなってました。
ニュース知らないことだらけ。
スマホでちらっと確認する程度じゃだめですね。


そこで一番気になったのが税金関連ですね。
ビール…というか酒税関連なんですかね?

「ビールの税金上げたら税収減った。第三のビール売上良いから税上げる。」
ってどういうことなんでしょうかね。

税率上げればそれだけ売り上げにかかわってくるでしょう。
高くなれば手を出すのもためらうのは当たり前。

ビールが高いから企業努力で第三のビール類作ったというのに
そこの差を埋めるために税を上げたり下げたり。

そんなことならもとから税なんてかけなければいいのに…。

ビールと第三のビールの間の壁を縮めたら
今度は国民はどちらに手を出すんでしょうね…。

金額的な差を考えればそれでも第三のビールを買うのでしょうか?

でもビールが安くなったら手を出す人は増えるでしょうね。
その分第三のビールは売り上げが減るんじゃないでしょうか?

実際どういった結果になるかは消費者次第。
金銭的問題と味のどっちをとるかは消費者次第ですからね。

今後どのような結果になるのかは少し興味がありますね。

少しでも安くなれば少なからず売り上げは伸びるだろうと考えてますが
この予想は当たるかどうか…



そういえば、この酒税二重課税になってますよね?

ビールに酒税がかかった状態で棚に陳列されていて、
レジに行けばそこで消費税がかけられて。

税金がかけられた上にさらに税金…

どっちかの税金を上げるだけでさらに税金を得られるって、あれ?


酒、タバコ、ガソリンなど
見てみると結構二重課税されているんですよね…

でもそんなこと気にしてる人少ないんでしょうかね。

その値段なんだと思い込めば別に気にもならないんでしょう。

でもその税金がかかってない状態で値段を出してみると
かなり安くないでしょうか?

ビール 500mlが250円だとしたら110円は税金。
ビール自体は140円で買えるんですね…

タバコは430円ですが、410円の頃でその中の約65%が税金…。
消費税5%→8%ということは3%足して計算していいのかな…?
多分、タバコだけなら140円くらいですかね。

ガソリンは50円くらいはかかっていると思うので
税金抜けば100円/1Lくらいでしょうかね。

こう考えるととっても高くないですか?
これらの税廃止したら毎日が過ごしやすくなると思うんですけどね…。

僕も原付500円で満タンにできたらうれしいんですけどね。
500円だと3.2Lくらいしか入らねいんですよね…。


さて問題はここからです。
500mlで110円かかってるビールを例にすると
消費税8%、つまり8.8円分が
酒税に消費税をかけて上乗せされているんですよね。

税金に税金をかけるって…



税制度や税の使い道事自体が分かりづらいですよね、日本って。
福祉国家であるフィンランドなどでは国民自体が
税の恩恵を受けている分納得されているみたいですが、
日本だとその実感もなく知らないところで取られるばかりで。

反発されるのも当たり前だとしか思えない…


そもそも税収を超えた支出がないと成り立たない時点で
何かおかしいと思わないんですかね。

制度自体がおかしいことが多々あるんだから
そこからまず切っていく、制度の改正進めるべきじゃないのかなって。

来年度の予算を考えるのも大事だけど
まずこんなことになってる原因を潰そうよ…


民主党の事業仕分けに一時期待したんですが
ほとんど効果なし。というか本当に切るべきところ切らずに
むしろ必要なところ切ってしまったりして、
それなら何もしなかった方がよかったってくらいですね。


もう少し社会の仕組みはすっきりしたものにならないのかね…
意見を匿名で、世界中の誰にでも伝えることができる
ネットの良さを使わないというのはもったいないなと。

ただ何を言ってもよいというわけではありませんし、
ネットにはマナーも必要であるといった自覚は一応あります。

しかし、それらが邪魔をして
僕の思想や表現を阻害してしまっては
ネットの存在価値というものは無いです。

僕にとっては、かもしれませんが。


どうしてこのようなことを言うのかと
疑問を持たれるかもしれませんが、
憲法9条関連の話をしようかと思いまして…。


日本は軍を持たない、でも自衛隊は存在する。
自衛隊は軍ではないの…?
といった話をしようとは思っていません。

ただ少し似ているジャンルの話になるかもしれません。


もし日本が自衛隊すら存在しておらず、
自国の防衛を他国(A国)任せにしていたとしましょう。

その状態でA国との友好度が高ければ
恐らくそれ以外の他国から攻められたとしても
守ってもらえるでしょう。

しかし、A国任せにしていて、
A国との関係が悪化した場合、
実際に守ってもらえるのでしょうか?

そもそも、A国自身が日本に攻めてくるということは
想定しないのでしょうか?


他国というのは協力してくれるかもしれませんし、
もしかしたら裏切るかもしれません。

「自分の身は自分で守るしかない」と分かっているのにも関わらず
国の防衛を他国任せにするというのはどうなのでしょうか?


「日本に軍はいらない」
その意見は僕も理解できる点がいくつかあるのですが、
「自衛隊もいらない」といわれると
さすがに理解しかねます。


もし国内で強盗事件が起こって、その強盗が拳銃を所持している。
警察官は銃を持たずに強盗を取り押さえることができるのでしょうか?

「盾を持って近づき、囲めばよい」など、答えは様々でしょう。


なら、これを軍備に置き換えてみましょう。

隣国からミサイルが飛んできます。
自国を守るには何をすればよいか。

相手国を威嚇する武器はなく、
持っているのは縦だけだとしましょう。

その状況であれば迷わず盾を用いるでしょう。

しかし、実際にミサイルを防ぐ縦というものは存在するでしょうか?

現状は「ミサイルをミサイルで撃ち落とす」ということが想定されています。


ミサイルは銃でもあり、盾でもあるのです。
一概に兵器として扱うことが正しいのでしょうか?

また他国では核兵器を持つことで、
「自分が撃てば、相手も撃ってくる」ということで
相手の行動を制限させることもしています。

先ほどの警察官の話も、実際には警察官は銃を持っています。
強盗としても、下手に自分が撃てば、射殺される恐れがある。

こういった抑止力としての存在価値がありますよね?


日本において「戦争」というものは
悲惨で、もう二度とは繰り返したくない過去です。

しかし、そのイメージから
兵器を持つことにまで負のイメージが付きまとっています。

普段は置いておくだけで、
持っているということをアピールするだけで
相手の行動を制限させ、自国の安全を守ることだってできる。

そういう側面についても考えなければなりません。
(実際使うかどうかは別問題です)


ただ単にイメージだけではなく、
現実的問題を踏まえて考えるべき問題なのではないでしょうか?

兵器がない世界に越したことはありませんが、
実際にそのようなことが実現できる見込みは今のところありません。

綺麗事ではなく、現実問題として向き合い、
より多くの視点から多面的に捉える必要のある問題である、
そう僕は思っています。


言葉は強いようで、
実際には兵器を用いた力による弾圧の前では無力です。

反対する意見を持つ人の口を封じていけばよいだけなのですから。

力には力で対抗しなければいけない、
これが実状ではないでしょうか?
今の世の中、何かを決める際に「多数決」を用いることが多いですよね。

「多くの人たちがそう考えているのだからそうすべきである」

確かに多くの人がいればその意見は様々です。
全ての人が納得いくようにすることはなかなか難しいです。

教室でも、会議室でも、国会でも、国連でも
最後、採決をとる際には多数決です。
(国連の安保理決議に関しは少し異なってきますが…)


さて、最近の話題についても触れてみましょう。

日本が行っている調査捕鯨。
「クジラを捕まえるなんて、食べるなんて酷い」
他国ではそう考えられているのではないでしょうか。

何らかの生物を捕獲し食べている人類にとって
クジラだからダメ、牛や豚は食べていい。
(宗教によってはそういう言い方はしないでしょうけど…)

その境界はどこにあるのでしょうか?


そもそも、日本の食文化には
クジラを食べる文化というのは存在していました。

しかし、他国ではどうでしょうか?
恐らくクジラを食べる文化を持っている国はそうないでしょう。

僕らが食べているタコやイカ、ウニなどを食べない国もあるのです。


そういった国からすれば、
「クジラなんて食べなくていい。
むしろ数が減ってきているのだから保護しよう」と言っても
何ら支障はありません。

彼らの生活には何の変化がないのですから。
むしろ、数が減少している生物を保護するといった観点では
「良いことをしている」と思われている方もいるでしょう。

生態系の保存という観点から「保護」を行ってはいますが、
それが本当に良いことなのかすら僕にはわかりません。

ですが、多くの人たちはそれを良い事と捉え、
積極的な保護の方向へと進んでいます。

これも地球全体での多数決の結果なのでしょう。


しかし、「多数決が全て」といえるかといえば
そうではないような気がします。

小さなまとまりと大きなまとまりでは
意見が異なる場合が存在するのです。

最近、集団的自衛権が問題となり、
その際「日本はいずれ群を持つことになるのではないか」
との話も出ていました。

日本国内の意見をまとめたとすれば
「日本は再軍備するべきじゃない」と
軍を持つことに反対する人が多いのではないでしょうか?


しかし、世界的に見て
国家として軍を持たない国は極少数です。

多くの国は自国を守る術として軍を持ち
他国からの脅威に備えています。

この点では、世界の国々の意見を集めれば
「国家は軍を持ってもよい」という考えが多数となります。


国家というのは国民のためにあるのですから
国民の意見が優先されます。

しかしながら、多数決といっても
どの範囲で見るかによって多数派は異なるものです。

一概に、「そういう意見が多い」とは言い切れるものではありません。

あとはどの意見が優先的に採択されるか、
それだけの問題ではないでしょうか。


多数派というのは範囲によって、
また時代によって大きく異なっていく。

そう考えたとき、
世の中に本当に正しいものというのはかなり少ない、
むしろ誰かの価値観によって決められた「恐らく正しいもの」しか
ないのかもしれません。

「正しい」と断言できないからこそ
未だに意見を言い合い、より良い方向を探しているんですかね…
Fラン大学のバカではありますが、
一応教職課程をとっています。

授業内で模擬授業を行うこともあるのですが
その中で少し気になったことが1つ。


「なんでその結論になるの?」と。

確かにやっている内容が間違っているわけではありません。

しかし、教科書の内容をそのまま言っているだけでは
聞いている側からすれば理解などできないでしょう。

聞いている側が大学生だからこそ理解できている、
そんな気がします。


でも、それでは教科書をただ見ているのと
何ら変わりありません。

それだと教師は要らないですよね…?

教科書を見ているのと変わらないのでは
「生徒は教科書さえ読んでいればいい」


それじゃ、先生ってなんのためにいるんですかね…

生徒の分からないところを
理解できるようにしてあげるのが役目ですよね?

それを教師自身の授業が理解できない形であっては
いけないと思うのですが…


しかし、ゆとり教育時代の教科書は
教科書の内容だけを見て理解するというには
少しレベルが高いように思います。

そもそも、ゆとり教育世代の教科書は内容が薄いです…

数学でも細かい説明などなしに、
公式とそれを用いた例題が1門程度乗っているくらいです。

それを「教科書だけで内容を理解しろ」と言うのは
なかなか難しいものがあるのではないかと思います。


「予習して来い」と先生たちは言いますが
何の知識もなしにその公式を当てはめただけで
その問題が解けるということはほぼないです。


また、例題の中にも
以前に学習済みの内容も含まれてきます。

「以前に学習しているのだから出て当たり前」

そう思われても仕方ないのですが、
教科書に「それを用いた」という説明はありませんでした。

多くの生徒は「なんで?」と思うのではないでしょうか?
何の説明もなしに、式の形が変わっているのですから。

…実際、そう思ったのは僕自身でした。
何の説明なしに式の形が変わっていて、
何かしらの公式でそう変形されたのだとは分かっていても、
何を使ったのかわからない。

例題も物によっては、
2段階くらい式の変形がされているのにも関わらず
結論の答えしか書いてなかったりするので、
どうしたらその形にたどり着くか把握するのは難しいですね。


つまり、ここでは以前学習した内容が理解され、
また別の問題の中に登場したとしても
それを応用して使用していくことが求められています。

問題のレベル自体が高いわけではないのですが、
生徒側に求められているレベルが少し大きいのではないでしょうか?


そのような内容のため、
ゆとり教育は実施される前から
できる人とできない人の二極化が起こるであろう、
ということは言われていました。

ゆとり教育とは名ばかりのエリート教育だと。


そのような世代が模擬授業を行うにあたり出てきたものが
「なぜそうなるのか」という部分の欠落した授業です。

僕ら自身は個人的な理解の仕方、
一貫した説明は教科書に載ってはいなかった、
そういう点でこのようなことが起こるのは必然的ではないかと。


僕らの世代は、恐らく習ってきたものを教えるだけでは
他者(生徒)に対して十分な理解をさせることはできないでしょう。


授業を行うにあたり、
現職の先生たちも授業準備として相当な知識や情報を蓄え
授業を組み立てているとは思います。

しかし、ゆとり世代の人たちが授業を行うには
知識だけではなく、授業の形・内容について
もっと考えていかなければならないのではないでしょうか?

自分たちが中学や高校で受けていた授業を模倣するというよりは
より理解できるよう内容1つ1つを考え、
どのような説明によって理解させるかをさらに考えなければならない。

言ってしまえば、新しい授業のやり方を
見つけなければいけないのではないか、と。



ゆとり教育世代は「なぜ?」「どうして?」という部分を
教科書ではなく、教師の説明や自身による努力によって
何とかしてきた人たちが多い世代だと思っています。

一貫した説明なく、個人だけが理解できる形で
理解してきたものを他者に言葉で伝えるというのは
教科書の内容を伝えるよりもはるかに難しいものです。

しかし、教師の立場としてはそれを避けることはできず、
特に独自の解釈の多い自分たちの世代では
より難しいものになるのではないかとは思いますが、
それこそが求められているものだと感じています。


恐らく教師に求められているのは「結論」ではなく
「結論に至る過程をいかに理解しやすい形にできるか」
ということではないでしょうか?

答えだけであれば参考書の後ろに乗っていますしね。


受けてきた教育によって人って結構変わるものですね…。




ついでに。
模擬教育をしてみて、また受けてみてのことを。

「知識があるものの、時間的な都合や内容の問題点を踏まえて省く」という人
「内容についての知識がないから授業で扱わない」という人では
授業内容に大きな差がありますね…。

後者の方は授業内容が教科書と何ら変わりない
言ってしまえば中身のない授業です。

また他者から質問があっても答えが出るまでに時間がかかる。

恐らく指導要領通りの授業、
言ってしまえば表面だけの授業を行うためだけにしていることが
聞いているこちらからしても丸わかりです。


一方、前者の人は
少しの空いた時間でもそれに関連する話を入れてくる。

何気ない話ではありますが、
そういった話が生徒の興味を引くこともあるのではないでしょうか?
…僕自身、そういう無駄話のある社会科の授業好きでしたから。

そういう人は質問をすると、
答えを返してくるだけでは足りずに、
より深い話をし始めたりするものです。


教師という職業は「教科書」を基準に動いていますが、
その情報量は教科書の何倍という量がやはり必要ですね。

現場の先生たち、特に若手の先生は
授業前の準備にかなり時間をかけているのではないでしょうか?

一つの授業を組み立てるために
かなりの時間をかけて情報を集めているのにもかかわず、
「つまらない授業」と言われては困るので、
授業の仕方などにも工夫していると思います。

それらを踏まえると、1時間に満たないとはいえ
一回の授業って物凄く大変です。

その大変さを高校時代にもっと知ることができたらなぁ…
と日々、思うばかりです。
さっき書いていた記事が消えてしまい少し落ち込んでますが、
そんなことで折れてられないので別の話題で。

書きたかったものはまた気分が向いたら書こうと思います。


憲法9条や集団的自衛権の問題が出ると、
たまに話に出てくるのが「憲法改正」


…そもそも憲法って?

これ、大人の方でも勘違いされている方が多いらしいです。

憲法は本来、政府などの権力を制限するものです。
その制限をかける人は国民です。

え?と思われた方は恐らく間違えて覚えています。

国家や政府は国民の行動や思想、身体・精神における自由を制限することが出来ます。
例えで言えば刑法です。

人を殺してしまったら捕まりますよね?

殺したら捕まるということは「人は殺してはいけない」
これは行動を制限しています。

「殺したら捕まる」
こっちは身体の自由を制限していますよね?

このように国家は国民の自由を奪うことが出来ます。
それだけ力が大きいということですね。


もし国家のトップが独裁者みたいな人で
国民の自由を次々と奪っていってしまったら…

覚えのない罪で捕まってしまったら…

…などなど。
そんなことがあったら不安で寝れなくなってしまいます。


そこで登場するのが憲法です。

憲法は「国家(政府)に対する約束事」
つまり「これだけはしないでくれ!」といった要望になります。

憲法9条で日本は戦争の放棄をしています。
つまり政府に対し、「戦争はしないで」と国民が言っているということです。


しかし、最近話題になる「憲法改正」、国民からの声があまり聞かないのですが、
9条による制限を排除するために政治家たちが主張しているように感じます。

国民が政府に対し、制限をしているのにも関わらず、
権力側である政治家が邪魔だからと言って変えてしまっていいのでしょうか?


日本では明治憲法時も現行憲法でも国民が定めたことはありません。

だからこそ憲法に関して、意識が薄いのかもしれません。



でも、自民党の憲法改正案を見てみると
「改正」というには変更が大きく、
「新憲法の制定」に近い形となります。

新憲法の制定は、
普通であれば革命など、国家が崩壊し、
新たな国家が作られるようなことがなければ、まずないです。

現状の憲法の制限は確かに権力側からすれば
かなり身動きのとりづらいものかもしれませんが、
現状の憲法によって保障されている
現在の生活に不満を抱いている人は少ないのではないでしょうか。

むしろ、新憲法の制定により
国内の混乱が起きるのではないかと不安だらけです。


憲法を改正するのであれば、
権力側ではなく、国民から議論の声が出てくるといいなと思っています。

「これはしていいこと」「これはしてはいけないもの」
皆さんはどのようにその行動の善悪を決めているんでしょうか?

倫理や道徳という感情のものは日常に多く存在しますが、
最近では仕組みすらよく分かられていないにもかかわらず
使用されているものが数多く存在します。


そうです、パソコンやスマートフォンです。

「これを使えば○○できる!」と仕組みもよく知らないで
とりあえずできるから使う、というものが多いです。





少し話は逸れますが、
法や規則は「そう決められているから守らなければいけない」と
考えている人が結構いるようです。

「飲酒運転してはいけないのは?」と聞かれれば
「事故の危険性がある」と多くの人が答えると思います。

「自宅近くの道はなぜ40kmの規制がされているのか?」と聞かれたら
それも「事故の危険性があるから」と答えるかもしれません。

しかし、その答えに含まれる意味というのは異なってきます。
飲酒運転では正常な判断ができず、また認知が遅れるなどの危険性があります。

40㎞の規制では道幅の狭さや、歩行者の飛び出しなど
それ以上の速度で通行した場合に認知が不可能な場所が存在したり、
通行可能区域以外にぶつかった場合の危険性が高くなるなど
飲酒運転とは少し異なっています。

高速道路が一般道よりも早い80㎞で通行できるということは
一般道における事故の危険性を排除している側面があるのではないでしょうか。

恐らく歩行者が存在しない、
道に交差点は存在しない、
一方通行であるため対向車と接触する可能性がない、
…などなど決められているルールには、それなりの理由があります。


危険性を排除するといっても、そこに含まれる意味は様々です。

そこまでのことが理解できて初めて
物事への批判ができるのではないでしょうか?




さて話を戻します。

例えとして、スマートフォンのアプリを出しましたが
仕組みが分からなければなんだっていいんです。

ここではPCのあるソフトウェアを例にします。


以前違法ダウンロードに関して記事を書きました。

その違法ダウンロードに関してよく使われているのが
ファイル共有用ソフトの「Torrent」です。

他者からファイルをダウンロードしたり、
また他者にファイルをアップロードしたりする役割を持っています。



とりあえず仕組みだけ簡単に説明しておきます。

1つのファイルをA・B・Cと分けたとき、
XさんはファイルAを、YさんはファイルB、ZさんはファイルCを持っていたとします。

これはA・B・Cで一つなので、音楽ファイルだとしたら
Aしか持っていなければ曲の1/3しか聞くことが出来ないと思ってください。

となると、Xさんは一曲全部聞きたいので
BとCのファイルを誰かからもらわなければなりません。

そこでTorrentを使って、
XさんはBとCのファイルを探すことにしました。

Yさんは残りのAとCのファイルを捜し、
ZさんはAとBのファイルを探しています。

XさんはYさんがBを持ち、ZさんがCを持っているため
YさんからBを、ZさんからCをダウンロードします。

その時、2人がAのファイルを探していることを知り、
BとCをもらうために、Aのファイルをアップロードします。

お礼の印みたいなものですね。

Torrentを使ったことでXさんの手元にはA・B・Cのファイルが揃いました。
これで音楽を一曲聞くことが出来ます。


…これ違法ですか?

もちろん、著作権のあるファイルをやり取りしていれば違法となります。

しかし、これがDさんが自分で作詞作曲し、
自由にやり取りしていいファイルだったとしたら、
これは違法ではありません。

ソフトウェアによってはダウンロードではなく
Torrentでのやりとりによって入手することが推奨されているものも
存在するらしいです。



しかし、「Torrentは違法ダウンロードのソフトだ」と誰かが言えば
使ったことがない人は「Torrent=違法ダウンロードに使うソフト」と
勘違いしてしまうでしょう。

先ほど僕も「Torrentは違法ダウンロードに使用されることが多い」と言いました。
そこで「違法なソフトだ」と思った方もいるのではないでしょうか?


確かにその利便性から違法ダウンロードに使用されていることは多々あります。
しかし、正規の使い道も存在しており一概に悪いとは言えないものです。

情報が欠けていることで、
その本来のあり方も知らず、ただ悪いものであると
批判するのはどうなのだろうと、僕は思うのです。



今度は身近なものにしてみましょう。

例として挙げるものは「LINE」です。
スマートフォンを持っている方なら
使ったことがある人は多いのではないでしょうか?

誰とでもすぐ連絡がとれて便利な物です。
みなさんもその利便性から使用しているのだと思います。

しかし、「誰とでも」連絡が取れるというのはいいことばかりではありません。

ここ近年、LINEによる被害が数多く報告されています。
特に未成年者に目立ち、児童や生徒が巻き込まれる事例も多いです。

その危険性を知りながらも、便利だから使っていますよね?


でもLINEを知らない、使ったことがない人たちに聞いてみると
「怖い」「危ない」などの声が多いそうです。

以前、ネットがそこまで普及していなかった頃も、
世界中のだれとでもコミュニケーションが取れるという利便性に反し、
自己の特定やコンピュータウィルスによる機器の故障、個人情報の流出など
多くの問題から同じように言われていたと思います。

現在でも危険性はあるものの、
その利便性や安全な使い方を知ることで
使用人口は以前よりもはるかに多くなっています。


犯罪に利用されることは確かに脅威ではあります。
しかし正規の使用法によって、安全に使用している限りは
そこまでの危険性ということはないでしょう。

LINEであっても、知らない人と連絡を取り合わない限りは
犯罪に巻き込まれるリスクはそこまで大きくはないと思っています。




物の本質を理解せずに使用することは危険です。
しかし、現在のパソコンやスマートフォンのソフトウェアに関して
その仕組みをいちいち知らなくてはいけないとなると、
利用に関して大きな支障が出てくるでしょう。


ここ最近は安全な使い方、
知るべきところを知っていれば問題はない
というのが大きな考えのようです。



だからこそ、他者の言葉に流されやすくなっています。
本質を理解していないのですから、他者の言葉を鵜呑みにしてしまう、
というのはどうしようもないのかもしれません。


しかし、本当の側面を知らずに勝手に
「危険だ」「使ってはいけない」と決めつけることは良くありません。

LINEは危険である、Torrentは違法ソフトである、
そう言われて決めつけるのはどうでしょうか?

実際に使いもしない人が噂で聞いただけの確証のない話かもしれません。
それを鵜呑みにしますか?

こういうのに騙される時は、
大抵使ったことがない、経験が多いものに関して強く影響します。


恐らく、「LINEはそんなことはない」と言いきれても
Torrentに関しては「どうだろう?」と思う人がいるかと思います。


そういう人が多いからこそ
聞いたことを鵜呑みにするのではなく
「真実かどうか」を見極め、場合によっては
調べることを忘れては欲しくないと思っています。



メディアで報道される内容も
自分の知らないことだからこそ「そうなんだ」と思い
鵜呑みにしてしまいがちですが、
誤った情報というのは数多くあります。

特に都合のいい部分だけ切り取っていることが多く、
重要な補足部分がカットされていることが多いです。

「○○な場合では、××する可能性もある。(○○な場合なら起こる)」ということが
「××する可能性がある。(条件に関係なく、そうなる可能性がある)」となっていることも
少なくはありません。


置き換えてみれば、
「Torrentはファイル共有において便利なソフトではあるが、違法ダウンロードに使われる危険性がある。」→「Torrentは違法ダウンロードに使われる危険性がある」

「LINEは誰とでもすぐに連絡が取れ利便性が高いが、犯罪に使われることもある」→「LINEは犯罪に使われることもある」

…などなど、それ自体のメリットを消して、
意図的に危険性の強調をすることが可能なわけです。

これが噂になると、「危険である」という部分がさらに強調されていく。
そうなるようにメディアは印象として強く残るように報道しているのですから。


以前、橋下市長の会見時に記者に対して怒ったことが報道されていました。
テレビでは橋本さんが悪く言われていましたが、
YouTubeに挙げられていた会見の一部始終を見てみると、
橋本さんが起こった理由が記者の勉強不足が原因であり、
質問自体が悪かったのにもかかわらず
しつこく同じようなことを聞いていたということがあったような気がします。

テレビや新聞などのメディアは
自分たちに都合のいいように報道しようと思えば
いくらでもできる立場であるに、等しいです。



ソフトウェアに限らず、
メディアが批判していることでも、自身よく分からないことは
一旦調べてみてはいかがでしょうか?

メディアからの情報を鵜呑みにしているだけでは
よくわからない、情報が偏っている場合があります。

その偏った情報で、
物事の知識・情報もない状態で批判するということは
他者に操られているも同然です。



…このブログの記事すらも本当かどうかは分かりませんよ?
僕が意図的に強調しているだけかもしれません。

そもそも、記事に「~らしい」や「~だった気がする」という言葉がある時点で
信用に値するものではないのですが…

頭の片隅にでも置いて、何か考える時の判断材料にするのも一つです。
これが正しいか、それとも誤りなのか、決めるのは自分自身です。