Fラン大学生の気になったアレコレ -2ページ目

Fラン大学生の気になったアレコレ

頭が悪いなりに考えてみたことを書いてます。
意見等あれば気軽にお願いします。

スコットランドの独立を求めた今回の選挙。
結果は独立反対の声が多く、独立には至りませんでした。

しかし今回の選挙における投票率の高さ、
また独立を求める声が住民投票として形になったことは
かなり大きなことではないでしょうか。


日本でも選挙の際、
毎回のように「投票率」が報じられることがあります。

有権者の何割が投票したかを示すものですが、
日本における、ここ近年の投票率はあまり高くはありません。

よくて50%台ではないでしょうか。
酷いときには40%台なんてこともあります。

投票率が低くて何が悪いのか、と言われれば、
「自分で棄権をしているのだから結果がどうなろうと関係ない」
僕も以前はそんな風に思っていました。

普段は権利、権利と騒がしいのにもかかわらず、
投票に関しては自ら権利を捨てるなんて言うのは都合のいい話だな…
なんて風にも思うこともあるのですが。


投票率が低いということは、
「有権者の本当の声というものが分からない」ということにつながります。

投票率が50%だとすれば、
投票していない人たちが投票していたら、結果が180度異なる、
そういう可能性を秘めています。

選挙で勝利を勝ち取ったとしても、
本当の声はそうではないのかもしれません。

…とすると、選挙の結果に少なからず疑問は生じます。

本当にそれが本当の答えなのか、
本当に望まれていた結果なのか、
それが本来ある姿なのか。

棄権しているとはいえ、
自身の考えは他者にはわからないものです。

そう考えると、今後の政策方針というものも
本当に国民の多数が望んでいるものなのかどうか
微妙なものになってしまうのです。


今回のスコットランドの住民投票では、
投票率が8割以上と聞いたような気がします。

8割の人たちの声を集めた結果が
独立に反対する人たちが多いということであれば、
それがスコットランドの人たちが望んでいるものだと考えるには
十分なものではないでしょうか。

中にはこういう人もいるでしょう。
「投票しなかった残りの2割の人が加わったら結果がどうなるかわからない」

確かに賛成票・反対票の差はそこまで大きなものではありませんでした。
投票率50%の時と言っていることは変わりません。

そうだとしても、
50%の人たちの声と80%の人たちの声では
どれだけその結果に対する信頼性の違いがあるでしょうか?

より多くの人たちの意見を反映させられている方が
信頼できる結果だと僕は思います。


アンケートなどもそうではないでしょうか?

国民全員からアンケートを取ることは
費用等の問題も含めて考えるとなかなか難しいです。

そのため、統計学上どれだけの人たちから
意見を集めたとしたら信用のできるデータを得ることができるかを
考えることになります。

アンケートの対象者が3人だったとすれば、
そのうちの1人の思想次第で大きく差が出ます。

しかし、その対象が3万人だとすれば
そのうちの1人の思想では大きく変わることはないのです。

3万人における1人の考えというのはそこまで大きなものではないからです。

これがいわゆる「1票の格差」につながっていますよね。
1人あたりの結果を左右する力の大きさの違いが出てくるものです。


これを踏まえると、
50%よりも80%の方が一人当たりの結果を左右する力が小さい。
つまり、得られた結果は、誰かの意見ではなくみんなの意見である。
そう言うことが出来ます。


選挙を「面倒だ」とか、「誰に投票しても変わらない」とか
言う人がいるという風には聞いています。

しかし、選挙によって得られた結果が
本当にそう思われているから得られているのか、
それとも投票した人たちの中でそう思われているだけなのかで
結果の存在自体が大きく異なってきます。

例え、上記のように思われたとしても
自身の声は投票によって反映させるべきなのではないでしょうか?





…ついでにもう一点。
「一票の格差問題」に関して。

都市部と地方で一票の間に何倍もの格差があり、
裁判所も何回か「違憲」の判断をしています。

国民は皆平等である、としている中で、
票における自分の意見の反映度が違うということは、
他の人よりも強く意見を言うことが出来るということです。

ただ、「それなら有権者の多い地域に枠を増やして、
少ないところの枠を減らせばいいじゃないか」という人もいるかもしれません。

しかし、その場合では都市部で当選する議員の数が多くなるということです。
そうすると都市部の意見ばかりが通り、地方の声は届かなくなってしまいます。


また枠を減らすということは、
一人の議員が広い地域の声を聞かなければならなくなります。

これでは一部の地域の声を拾うことはできなくなってしまいます。

逆に枠の増やされた都市部では、
その一部地域の声を拾うことが出来るようになります。

声を拾ってもらえる人と、声を拾われない人がいる。
これもまた格差です。


議員の選挙区自体がバランスよく配置されなければ、
国会で通る意見や地元住民の意見に偏りが出てしまうため
かなり複雑で難しい問題です。

すぐには改善できないかもしれませんが、
その辺の配慮をした上で、早い時期に一票の格差が少しでも
小さくなるようになってほしいですね。



こういうところでは権利、権利と言っているのにもかかわらず、
投票の際には権利を捨てちゃう人もいるのは面白い話です。

しかし、投票率は選挙に行かない人の話。
一票の格差は選挙に行く人たちの話。
と、少し違うものですね。


最近の議員の不祥事の話を聞いていると
なんだか議員だけが悪いような気もしますが、
それを選んだ有権者の人たちにも責任はあるんですよ?

選挙とはただ投票するだけではなく、
ちゃんと人を「選ぶ」ということが大事です。


衆議院選・参議院選では政策とかちゃんと見てますか?
ネットですぐに資料を手にすることが出来る時代なのですから、
少し面倒であろうともちゃんと目を通すことをおすすめします。

国の将来を面倒なんて
言葉でかたずけられてしまうのは悲しいことだと
僕は思います。

特に投票権を持たない未成年の方からすれば
そんな面倒だと思ってる人たちの投票結果で、
自分たちの将来が変わってくるのだとは考えたくないでしょうしね。


民主党政権が発足した際の政策、覚えていますか?
政策の段階で無理だといわれているものを、
確証もない中で「出来る」と断言していましたよね?

そんな無責任な発言をする政党を信用できるはずもないのに
有権者の方々は投票した。

その頃選挙権など持っていなかった僕は信じられませんでしたけどね…。
あの実現できるか不透明な政策にもかかわらず民主党が…と。

結局、ほとんど政策実現できず、
消費税も増税するくらいなら自民党に入れてよかったのではないですかね。
結果論ではありますが。


その選挙の際、どれだけの人が
今後の日本に関して考えていたのでしょうか?

政策の実現可能性が低い中でなぜ投票したのでしょうか?

それを考えなければならないのではないですか?


いまでも「日本の政治はダメだ」と言っている方もいますが、
それは有権者にも責任があるのではないでしょうか?


国の今後を左右する選挙というのはそれだけの責任が伴ってきます。
だからこそ20歳以上という規定があるのではないでしょうか。
それだけの価値と責任を理解していきたいものですね。
「お客様は神様だ」という言葉、
「(お金を落としてくれる良い)お客様は神様だ」ってだけですよね。

お客さんが自分のことを神様だなんて言ってる時点でおかしいような気もしますが…


大半の店は商品に対して対価を払ってもらっているだけで
高級店とかでなければおもてなしは、
無料で提供しているの表面上のサービスなのです。

高級店とまでなれば料理とか商品に
そこまで含めてのことなんでしょうが…


チェーン店などでは企業としてお客さんに
心地よく時間を過ごしてもらうにはどうしたらよいか
ということを考えてのことだと僕は思っています。


そこで勘違いする人たちは
客の方が店よりも立場が上と勘違いしちゃうんですよね。

だからって、自分のこと神様だなんて…


店員さんもマニュアル通りなんだろうなとは思いますが
それでも僕や友達は施していただいたことに関しては
「ありがとうございます」と返すようにしています。

サークルでどこかのお店を使わせていただく場合には徹底していますね。
ただでさえうるさく、迷惑をかけているのに、
感謝の言葉一つ出てこないのはどうかと思いますから。

1年生という立場でサークル長をするということで
最初は上級生から反発されるだろうなと思っていましたが、
提案してみたら案外すんなりと了承してもらいました。


「ライブハウスの人たちに言ってるのに飲み会の時言わないのはおかしいよな」
「店に迷惑になるから店員さん来た時だけにしよう」
…などなど勝手にルール作りまで始めてしまうところがすごい。

ただ何故そんなにすんなり提案が通ったのかと思って聞いてみたら
「バイトしてるとき言われると嬉しいだろ?」と言われて納得。

みんなサークルのためにバイトしてますもんね。

自分も飲食店でバイトしていますが、
「ありがとうございます」や「ごちそうさまでした」と
一言もらえるだけで気分がよくなりますね。


サービスとは言えど、お客さんのことを気遣ってしていること。
こちらも気遣いのある対応をしたいですね。
大学生にもなると社会人の方とお話しさせていただく機会もでてきます。

なんとなくですが、
雰囲気が自分たちとは違うなと感じることが多いです。

仕事として責任を持っている人たちの話し方や事前の資料準備を見ていると
いつか自分もこのようになれるのか不安になってしまいそうなくらいですが…。

しかし、お会いする方が全員そうであるとは限りません。


特に、僕がサークル関係でお会いする方々は
そうでない人が多いような気がします…。

軽音楽系のサークルに所属していますが、
ライブハウスの方々は別にこれといって丁寧な言葉づかいではなく、
むしろとても軽いような気がします。
個人的にはそれくらいのほうがやりやすくていいのですが。

また別で旅行会社の人と打ち合わせをした際には
資料が準備されていない、事前連絡がないなど
合宿前日までバタバタした上に、
当日になっても問題続きということもありましたね。


親には「社会人というのはこうあるべき」
「これができて立派な社会人」
…のような手本ばかりを見せられてきた僕からすると
少しどうかなと思う部分はありました。

しかし、世の中の社会人すべてがそうではない、
むしろこういうのが現状であると思う出来事だったような気がします。


サービスを提供しているなら、
これくらいして当たり前、これができていないというのはどういうことだ
と思われる方がいらっしゃるのは当然のことだと思います。

対価を受け取っている限りは、
それに見合う仕事はしなければならない。
それが原則であると僕自身も思います。

特にお話しさせていただく方の中でも
ベテランといわれる年齢の方々は
対価に見合う以上の仕事をされている方が多いです。

しかし、現場に出ている若手の方では
合宿の話のように何かと抜けている部分が見受けられることも多々あります。



「社会人はこうあるべき」という
理想と現実の間には大きな差があります。

しかし、差があろうとも
「社会人としての理想」を忘れないことが
必要であると感じています。


できる限り自分を作り上げて就職活動に挑むわけですが、
就職したとしても扱いは「若造」でしかないのです。

就職によって安心するのではなく、
その中で自分はどうしたいのか、どうなりたいのかという
理想像を追い求めていくからこそやりがいがあるのではないか
というのが今回の僕の経験から得たものです。


僕の在学している大学では
「就職」がゴールであり、その先を考えている人は
そう多くはありません。

就職するだけで精一杯ですからね…。

しかし、近年就職するのはどの大学の大学生も同じです。

その先を見据えるか、そうでないかで
大きく異なってくると思っています。


僕の祖父は
・人生常に理想を追い求めて一生頑張れ。
・一生かけて届くかはわからないけれど、それでもやってみなくちゃわからない。
・やりたいことが分からなくなったら考える時間も必要だ。でも焦るのは禁物だ。
・慎重に確実に努力して進め。

そんな感じのことを言っていましたから、
経験してその言葉の意味がよくわかったような気がします。
恐らく社会人になったらより実感するようになるのかなぁ…




大学のOBの先輩方はとりあえず就職、
理想像なんてなく、仕事がつらくてことごとく退職という感じですしね…

…何故そう思ったかといえば
旅行会社の人が就職に満足して自分を成長させようという雰囲気が一切なさそうな
大学生みたいな方だったからですよ…

そうではあるものの、仕事を辞めていないということは
あの人も理想を追い求めている途中か、それとも給料がいいのか…



違法にアップロードされた著作物をダウンロードすることが違法化されて
どれくらいの時間がたったのでしょうでしょうか?

今のところ逮捕者はいないみたいです。
以前、悪いことだと思って自首された方がいた、
といった信憑性のない話を聞いた気もしますが実際どうなんでしょうか。

逮捕者がいないなら法律作った意味ないじゃん!
と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、
法律は捕まえるためにある、というわけではないみたいです。

言ってしまえば、「抑止力」というのが第一です。
「これはしてはいけないこと」と決めて、させないようにする。
ただ言って逮捕するだけでは意味がないので、
罰金を科したり、刑務所に入れて自由を奪ったりするわけです。


自分のお金が取られたり、
自由に生活することができなくなったら嫌ですよね?

警察もただ嫌なことをしてるわけじゃないんです。

今回の法律も違法な著作物のダウンロードを抑制するためにしている
というのが目的だと思われます。


確かに違法にアップロードされているものをダウンロードするとなれば
本来金銭によって購入するものを無料で手に入れるのですから
売っている側からすれば売り上げが落ちるなど被害を受けるわけです。

これは他人の本来受けるべき利益を損なっているので
権利侵害となるわけです。


…しかし、なぜダウンロード側を逮捕するのか?
アップロード者を逮捕しなければ解決しないのではないでしょうか?

アップロード者がデータをアップすれば
そのデータは何千、何万人がダウンロードするわけです。

つまりダウンロード者を捕まえているだけでは逮捕者が増える一方です。


これでは意味がないのでは…?

しかし、違法ダウンロード者を逮捕する法律ができれば
ダウンロードする側も躊躇するわけです。

もしかしたら捕まって罰金を払うことになるかもしれませんから。

「それなら購入しよう」と思う人が出てきます。
そうすると以前は違法ダウンロードしている人たちも購入するようになり、
売っている側からすれば利益を受けることができます。

捕まえるのが目的ではなく、違法ダウンロードに抑止をかけることで
問題を改善しているということになります。


全ての法律が人を捕まえるために作られているわけではないのです。

誰かの権利が侵害されることを防ぐ目的があるのです。

警察もただ人を捕まえたくて捕まえているわけではないのです。
誰かを守るために、正しいことをしている人が損をしないように
そういうために逮捕しているはずです。

そういう警察には不祥事がないようにしていただきたいですね…
子供たちの憧れでありつづけていただきたいものです。
個人的に男女平等社会は良いことであるとは思っていますが、
それが行き過ぎた女尊男卑になることは避けるべきではないか
というのが僕の考えです。

人種差別問題に関しては、
割とわかりやすく見た目や、そうない場合でも国籍といった違いだけで
他の人と同じように言論や行動・選択の自由を保証し
同様の生活ができるようにすれば解決できる問題ではあります。

しかし、男女差というのは一括りに同じようにすればいい、
そういった問題ではないと思っています。

体力差はもちろんのこと、
体の津構造上の違いもあるため、
ただ単に同様の待遇にしてはならない、ということは理解しています。

しかし、「女性は弱い」というのは偏見ではないでしょうか?

歴史を振り返れば、確かに女性の行動が制限されいていた時代というのは
日本に限らず多くの国に、形は違うものの存在していました。

特に争いの絶えない時代では、戦場に赴くのは基本男性であり、
生活を支えているのも男性が多かったのではないでしょうか。


現代では男性に限らず、女性も社会で活躍しています。
争いのために戦地へ赴き、生活を支えるのは男性である
…ということは日本では無くなりつつあります。

力では勝てない、それは身体的特徴の違いとして存在するのかもしれません。
しかし、現代で力において解決するという方法はまずありません。
基本は話し合いで、そのために裁判所というものが存在しているわけです。


こう考えたとき、僕が思うのは
「女性の立場・存在というのは弱いものだ」という主張は
現代において本当なのか、ということです。

「女を殴るなんて酷い」というのは確かにそうです。
話し合いで解決できない男が悪い。
これはそう言い切れます。

しかし、それ以外の点で
あからさまに男女差別だといえるものは少ないと思っています。


女性管理職の割合が男性より少ない、
そのためデータを集めると女性のほうが年収が少ない、
といったデータは出てきますが、
実際に給与に差がつけられている企業はあるんですかね?

ある場合でも解雇が怖くて言い出せない、
訴訟もできないといった、いわゆるブラック企業がどれくらい存在しているのか
というのも気になりますが、それは別の話ということで。


何も思いつかなかったのですが、
身近な話題として「セクハラ」がありますよね。

最近も都議会でセクハラヤジが問題となっていました。

…でも、あの問題、
メディアの報道では女性都議に対して「早く結婚しろ」と言ったことが
問題とされていますが、セクハラなのでしょうか。

現代では晩婚化していたり、
歳の差婚などが取り上げられるなど、結婚の形は様々です。

しかし今より少し前では(現代でも言われることがありますが)
「女性は結婚して子供を産み家庭を持つのが理想」という考えがありました。

その視点からいえば。今回の発言は
「子供を埋めるうちに早く結婚したほうがいい」という捉え方をされるかと思います。

ですが、上記のように現代の結婚の形を考えると
必ずしも女性の方に当てはまることではなく、
セクハラとは言い難いものではないでしょうか?

「子供を産む」というのは女性にしかできないことでしょう。
しかし、「結婚する」という点については男性もできる。

そう考えると、セクシャルではなくプライベートな話題であると
考えることもできるのではないでしょうか?

どちらにしてもヤジとはいえ無視することはできません。
国会でも地方の議会でもそうですが、大人がヤジを飛ばすというのはどうなんでしょうかね…

機会は与えられているのであれば、きちんと話を聞いたうえで
自分の主張をできる機会にすればいい、むしろそうするべきだろう
と思う僕が間違っているんでしょうかね。


少し話がそれました。
現代の多様化した形をメディアは伝えておきながら
昔からの変わらない価値観でしか考えないのだろうか。
それが今回の問題に対する僕の考えです。

もしかしたら、多様化している形を伝えているが
国民は許容していないだけかもしれない、のかもしれません。

新しい価値観が生まれるということは
一つの問題に対しても、より多くの見方ができるようになる
ということを言いたかっただけです。

あたかもそれが普通であるかのように
前提条件を飛ばして、問題だと報道していますが
実際はどうなのでしょうか。

僕個人は単にセクハラであるという考えはしたくありません。
物事を見る観点が狭すぎる、と感じるのは僕だけでしょうか?
最近朝日新聞の記事がいくつか問題になっているのですが、
これをどう考えるかは人によって様々でしょう。

しかし、大学生からすると大きい問題ではないかと僕は考えています。

大学の講義内で先生が気になった記事などを持ち込み
時間を割いて語ることが多々あり、
また小レポートなどでも、その情報元・引用元として
新聞の記事を使用することがあります。

どちらにしても新聞を利用するのは
「テレビやネットよりも新聞のほうが信用性が高い」
という一部の方々の考えによるものです。

「新聞の記事を使っておけば間違いない」という考えが強く、
そのため、学生に信用のおける情報源として使用させています。


しかし今回の問題によって、その信頼性も崩壊してしまいました。

一部の新聞社におけるものだ、と思うかもしれませんが
これはどこの新聞社においてあってもおかしくないものです。


これについて「そんなことはない」と言い切れる人は恐らくいないでしょう。

メディアが得られる情報と一般人が得られる情報というものは
あまりにも大きく異なっています。

多くの人はメディアから得た情報から知るだけであり、
事実を得るために現地に行って調べることをしている人は
ほとんどいない、と思っています。

つまり、一般人である我々では
記事の内容における正誤を見分けることができないのです。

記事に誤った部分があったとしても
それを見抜くことも、間違いを知ることもできません。

それだけの情報が与えられる機会事態が存在しないのです。


一般人におけるメディアの存在は大きく、
またメディアの責任は重いものです。

今回の件で信頼性が低下するのは仕方がないでしょう。
情報源として利用していたものが、その信頼性を欠くような事態になったのです。


「事実が報道されているのか」という疑いを持って
各メディアから得た情報を見なければならないということは
良いことなのでしょうか?

良いことではありませんよね?

確かにそういう目を持つことは、生きていく上で重要なことです。
しかし、日々情報を得るにあたって、そればかりを気にしなくてはいけないというのは
かなりつらいものがあります。

事実を確かめながら情報を得ていくには時間が必要ですが、
日々仕事をしている方々が毎朝新聞を読みながら、考えるには時間が足りないでしょう。


となると、短時間で事実を把握するには、
やはり情報元の信頼性というものは欠かせないものとなります。

事実確認をしなくてもそれだけ信用できるものであれば、
素直に受け入れ、情報や知識として蓄えられ、
またそれを短時間で自分のものにすることができる。

その利点が新聞やその他メディアの価値ではないでしょうか?

自分ではできない事実確認を
代わりに取材し、記事にしているからこそ買ってまで読むのです。


それが事実でなくなってしまえば価値などありません。


ここ近年のメディアの現状とかけ離れた報道に関しては
僕としては納得のいくものではありませんでしたが、
朝日新聞の記事問題を考えると、
真実を報道する、という原点について
メディアは考え直さなければいけないのではないでしょうか。




プラスで…

新聞の記事における問題として
最近の事例に関していえば、
集団自衛権に関するアンケートを各新聞社が行っていましたが
朝日と読売で結果が正反対であったことがあります。

無作為に選び出して、アンケートを行ったとすれば
誤差はあるものの、似たような結果になるはずです。

それが結果が正反対になるというのは
作為的に人または結果を選び出しているのではないか、
という疑問につながります。


今回の件に限らず、
記事の内容については未だに信用できない
というのが僕の持論です。

それにもかかわらず、
新聞は信頼のおける情報元である、
といった主張を続ける先生方はどう考えているのでしょうか?

最近のニュースを見ていると、
ほんとにどうでもいいことが多いな…
と思ってしまうのは僕だけでしょうか?

以前であれば気にもしなかったことを
今の世の中では気にしている、むしろ気にしすぎている、
と感じてしまうのです。

僕の目にするものの多くは「権利」を盾に主張しているものが多いようですが。

権利を主張する場合には
個人、それも自分自身に影響を及ぼすものでなければならないように
限定されてくると思うのですが…

環境問題や生物に関する主張なども多く、
その主張の仕方も過激なものが多く見受けられます。

そういったものは、
個人の権利としてではなく、国の問題として
世界規模で国家間により話し合われ、
それについての対策を検討し実行に移す必要があります。

個人の力ではどうしようもないですからね…。

同じ思想を持った個人が集まり、集団として訴えかけるとしても
国家の定める法の中での行動が限界です。

法として定められなければ、根本的解決に至らないことを考えれば、
集団化しても個人と変わらず無力です。



少し話がそれました。

そんなどうでもいいな、と思う話題について
「表記問題」というものが存在しているらしいです。

例えば、「子供」「障害者」などですね。
最近では「子ども」「障がい者」などに替えて表記してあることも多いです。

その理由は「供」や「害」によくないイメージがある、と。

・生贄、いわゆる供物として子供が~
・害という字が害悪等の悪いイメージを与える

…などといった反対理由があるそうです。


そういう人たちほど、そのような勝手なイメージを持っているのではないか、
と思うばかりです。

恐らく大半の人たちは、そういったイメージを持つことなく
子供や障害者を単なる単語として見ていると思うのですが…

そのような理由で表記を変えていたら、
全ての単語に勝手なイメージさえつけてしまえば
表記を変更できるということになってしまいます。


合理的な理由もなく、勝手なイメージによって
表記を変えなければいけない、ということにはなってほしくありません。

そもそも、そのような理由が通るのであれば
今でなくとも、以前にそのような話が出て、変更されているはずです。


ここ近年、漢字の書けない大人が出ているという話も出ている中、
さらにひらがな表記が増えるというのは避けたいところでもあります。

読めるけどかけない漢字ならまだしも、
読めない漢字も増えてきていて、
新聞やニュースなどでわざと漢字をひらがなにして
表記していることも多くなっています。

常用漢字外だとしても表記はすべき。
これが僕の考えです。
分からなければ調べればいい話ですから。

「隠蔽」という言葉を「隠ぺい」などと表記されると
読みづらくて仕方ないうえに、
単語や漢字そのものが持っている意味が薄れてしまう
そんな気がします。

これも合理的理由などではないのですが、
漢字が使えるなら、極力漢字表記していただきたいですね。

漢字を知っているのと知らないのでは大きく異なってきます。
普段から目にする漢字が書けなくとも、
せめて読める形で存在し続けてほしいと思っています。
投票率が50%を切るということがそう珍しくないこの頃、
有権者の方は政治に興味を持っていないのでしょうか?

恐らくそうではないでしょう。

集団的自衛権の問題も、消費税増税の問題も
みなさん興味を持って各自意見を持っていますよね。

政治に興味がないわけではないのに投票率が低いというのは
何かしら別の原因があるのだと思います。


個人的には「誰が議員になろうと変わりがない」と
考えている人が多いのではないかと思っています。

僕が見てきたここ十数年では、
首相が変わったから、議員が変わったから、何かが変わったということはあまりありませんでした。

大きな変化というのはそんなに起きることがないのです。
消費税増税や集団的自衛権の問題も、
今まで何度も話があったものが実際に形となってっ出てきただけではないでしょうか。


そのような考えの僕でも
政権交代によって民主党政権ができたときは驚きました。

確かにあの総選挙時のマニフェストは国民の興味を引く内容でしたし、
あれが実現できれば、国民の生活は大きく変わるものだったと思います。

しかし、その実現可能性はかなり低いものでした。
一部は財源確保の確実性がほぼゼロ。

それにも関わらず、民主党が票を伸ばしたことが驚きだったのです。

有権者の人たちは本当にマニフェストを読んだのか、
その内容について疑問を持ち考えたのか、
それらを考えてなお、国を任せられる党・議員に投票したのか、
…僕としてはそんなこと誰もしていなかったのではないかと思うくらいの結果でした。

実際、民主党政権はマニフェストの内容をあまり実現できず、
上げないといっていた消費税率を上げる、という形になってしまいました。


ここで考えるべきは、
「本当に誰が議員になろうと変わらないのか」
「どの党に政権を取らせても大丈夫なのか」
ということです。

有権者一人一人が各々考え、導き出した結果を
投票という形でしっかと意思表示をすべきではないのでしょうか。

今問題となっている集団的自衛権に関しても
選挙の時、有権者が投票した結果に基づくものであると考えなければならないと思います。
少子高齢化問題がいつ頃始まったのか、
というと二つを分けて考えなければいけないみたいです。

ニュースなどでは少子高齢化社会という風にまとめて言っていますが、
実際には少子化+高齢化の2つの問題があって、それらを合わせているものです。

少子化の傾向は1980年代にはあったそうなので、
話の始まりはもう30年以上前のことになります。

「最近の人は結婚が遅い」やら「子供の数が少ない」やら
よく耳にしますが、それはここ最近に限ったことではないのです。

恐らくそのようなことを言う方は
ニュースによく取り上げられるようになってから
この問題が起きたのだと勘違いしているのかもしれません。

しかし実際には物事が起き、重症化したからこそ
ニュースに取り上げられるようになった、という方が正しいのかもしれません、


高齢化問題に関しては、衛生面の向上が挙げられますが
それ以上に医療技術の向上が大きく影響していると考えられます。

高齢者の割合が多いというのは子供の数が減ったという点の影響もありますが、
過去にあったベビーブームというものも大きく影響しているのではないでしょうか。



どちらにしても高齢者の割合が大きくなった原因として、
少子化の問題は切り離せない問題ではあります。

しかし、少子化だけが悪いということはできません。
高齢者の割合を減らすために子供の数が単に増えてしまえば、
その子供たちが高齢者となった時にはより多くの子供が必要なわけです。

しかし人口が増加し続けるというのは
また別の問題を引き起こすのではないでしょうか?

その点を踏まえると、下の世代が増え続けることを前提としている年金制度は
大きな無理が存在していると僕は考えています。

実際、社会保障費の肥大化が財政を圧迫していることは事実です。
税収を増やすにしても、少子化を止め、
働き手を増やすという単純な問題ではないのではないでしょうか?

ワーキングプアの問題が存在している以上、
働き手が増えたからと言って税収が増えるというよりは
働き手が増えることによって
さらにワーキングプアが増えるのではないかと考えるばかりです。


またワーキングプアが増えれば、
子育てをするだけの余裕のある世帯というものは
少なくなってしまうのではないでしょうか?

個人的には高齢者への補助等も必要ではあるものの、
子育て支援をするべきだと考えています。

子育てにかかる費用が減れば、
子供を産みやすい、育てやすい環境にはなると思います。

保育所や幼稚園などといった施設の拡充もしていくべきです。

学校の統廃合によって校舎が別の用途で使われるということも聞きますが、
できれば学校としてしようしていくことが望ましいのではないでしょうか。


そういった施設の維持にかかる費用というものを無視して
ただ単に言っているだけなので、実際にはそうでないほうがいいかもしれません。
これは僕の妄想です。

しかし、未来への投資だと考えれば
子供たちにお金をかけることはそれほど悪いことではないのではないか
と考えてしまうのです。

地元を離れて数年。
こちらへ出てきて電車というものは便利だな、と思うようになりました。

僕の地元は田舎なところで、
電車なんて一時間に1本あるかないか…
バスも同じような状況でした。

そもそも電車って名乗っていいんですかね…?
名称は気動車、が正しいのではないでしょうか。
あの…あれです、電気じゃなくディーゼルエンジンで走るやつです。
年配の方は今でも「汽車」と呼んでますね。

そんな状況なもので、
基本的には一家に最低一台車がありました。
友達の家では親の車が2台と、祖父母の車が1台、それに農作業用の軽トラが1台…
みたいなこともよくあるものです。


…田舎自慢で少し話がそれましたね。
そんなわけで僕の地元では電車に「女性専用車両」なんてものは存在しませんでした。
むしろ痴漢ができるほど混んだりすることなどありませんから…。

しかし、こっちへ来てからというもの、
朝の通勤ラッシュになんて巻き込まれようものなら
他人が近くにいようが気にしていられない。
乗りたければ耐えろ、とギュウギュウに押し込まれ目的地へ…。

あの状況では他人の手が触れたとしても、誰の手か判別することは不可能です。


となると、それを狙って犯罪行為を起こそうとする人が出てきます。
またその行為を押し付けられ、無実の罪で泣く人もいるわけです。

そういうものに対して有効的だとされるのが「女性専用車両」です。
痴漢被害・痴漢冤罪に対して効果があると、僕も思っています。
しかし、一部で問題になっていることもありますよね?

「女性専用車両」と呼ばれてはいますが、
実際のところは「女性優先車両」に過ぎないのです。


…なぜ男性を排除できないのか?
それは憲法に規定されているからです。

憲法14条には両性の平等についての規定があります。
憲法は政府など権力者による権力の濫用を防ぐものですので、
政府は憲法に反する法を定めることはできないのです。
つまり性別で差別をしてはいけない、性別で差別するような法は作れないのです。



では仮に、「女性専用車両に男性は乗ってはいけない」という法を作ったとします。
しかし、先ほど言った通り憲法の14条に反しているのではないでしょうか?

同じ運賃を払っているのにもかかわらず、
満員電車に乗らなければならない人(男性)と、
まだ比較的空いている女性専用車両に乗っている人(女性)の間では
サービスに差が生じてしまいます。

「空いている車両に移ればいい」と考えられる方もいらっしゃると思いますが、
上記のような法が作られてしまえば、男性側にはその車両を選ぶ選択権はなくなってしまいます。

同じ料金でありながら、選択できるものに差が生じている状態は差別です。
(もしそこに明確かつ合理的なる理由が存在しているとすればそれは区別ですが…)

裁判所が憲法に違反している=違憲であると判断すれば、その法律は無効となってしまいます。



「痴漢」というものが合理的理由であるかどうかは僕にはわかりません。
しかし、完全に「女性専用車両」となっていない現状を見るとそうではないようです。

恐らく「痴漢」として男性を排除することは
「疑わしきは罰せず」という思想に反しているからでは、と考えています。

疑わしきは罰せず=裁判で有罪の判決が出るまでは犯人扱いしてはいけない、というものです。
例え、どんなに見た目が悪くても実際に犯罪行為を犯し、
逮捕され、裁判所で有罪の判決を受けるまでは犯人ではないのです。

その観点からすると、「女性専用車両」から男性を排除する理由として
「痴漢」を挙げたとしても、それは罪を犯していないにもかかわらず、
犯罪を犯すであろう疑いをかけられるという不当な言われをされるものです。



また別の視点から考えると、
性同一性障害を抱えている方への配慮が必要となるということです。

見た目は男性だが、中身は女性である。

こういう方にも「女性専用車両だから乗ってはいけない」と言えるでしょうか?
すべての男性を排除する原則における例外、と考えれば済む話でしょうか?


さらに別の視点では、男性の中にも男性を嫌う人がいます。
その人に満員電車の中へ入れということができるのでしょうか?


現在でも法として成立せず、
乗客の協力のもとに成り立っているものです。

「女性専用車両だから男は乗るな。」
この言葉だけ聞くと男女平等ではなく女尊男卑のようにも感じてしまいます。

言い替えてしまえば「この車両は白人専用だから黒人は乗るな」と言っていた
人種差別と変わりがないのです。

現状どのように運営され、
またどのような人たちに配慮しなければならないのか、
使用する人なら知り、考えておかなければいけない問題かもしれません。


「女性専用車両」には確かなメリットが存在しますが、
その使用に関しては明確な規定があるわけではありません。
各々が考え、より快適に利用できるようにしなければならないのではないでしょうか。