Live with Max. -13ページ目

Live with Max.

世の中のあらゆることは、人間関係に行きつく。
そんな視点でいろんなことを考えながら書いています。

 最近、コンビニの駐車場で電気自動車の充電器を見た時に、ふと思ったこと。これからは電気自動車が主流の未来になっていくのだろうけど、そのうちコンビニとかデパートの駐車場だけでなく、そこらじゅうの有料駐車場にも分単位の有料充電器とか設置されるようになるのかな?ガソリンスタンドってどうなるの?

 

 それとか、コードを接続しとかなくても、指定した場所に駐車しているだけで、勝手に充電されたりとか。スマホでもあるじゃないですか、置いておくだけで充電されるスタンド。あれ、電気自動車にも応用できるんじゃないですかね。いや、僕が思いつくくらいだから、もう実用化されているのかも。

 あとは、自走充電の効率がめちゃくちゃすごくなって、そういうのが不要になってしまったり。常に走りながら十分な充電ができるみたいな。

 

 なーんてことを想像していた時にふと思った。走り続けることで充電されるって、なんかいいね。仕事では休むことを充電みたいに表現する時もあるけど、仕事を詰め込むことで自分を充電できるってこと。たとえば仕事で悩んでいるのなら仕事を頑張って解決するしかないし。

 

 デール・カーネーギーの代表作にある「道は開ける」にも、悩む習慣を断てば道は開ける、常に忙しく仕事をしていることだ、というのがある。

 

 休みなく目の前の業務に没頭したり、ビジネスや自己啓発の勉強をしたり、ネットワークを築くために色んなところへ足をのばしたり。これっていつでも「走りながら充電」ってことじゃないかな。

 

 悩んだり不安を感じるのは、一生懸命じゃないから。イライラや怒りを感じるのは、それをどう解決したり理解するかの能力がないのに、処理しようとしているから。だとしたら休むことは充電とは考えにくい。むしろ消費され、放電されていく。

 

 もちろん、『いやいや、自分はそこまでしなくたっていまのままでも大丈夫、まじで休みほしい』っていう人もいると思いますよ。頑張りすぎて疲れちゃう時は誰だってありますからね。

 

 だからどちらか一方ではなく、両立させることが大事なんじゃないかな。走り続けなければ充電できないことに対してはカーネーギーの言葉通り走る。

 一方で、疲れて体も思考も非生産的になっている時は休む。こんなことではダメだと自分にムチを打ち、突っ走ろうとするのではなく、「あ、今ちょっと無理し過ぎているな」と自分を見る。

 

 以前の僕はすべてが自分にダメ出しして、無理に走ろうとし過ぎることが多かったような気がする。今はなんか自分の状態をぼんやりと見ている。ただそれだけって感じかなぁ。

 それで今はへこたれずにやっていけているのだから、ダメということではないんだろう。そう考えるとさっきの「両立」ってのは意外といけるんじゃないかな。

 

 忙しく頑張っている時も、頑張っていない時も、何をしてても常に充電されている状態。できるような気がする。いや、できている人もいるんだろうな。

 2つは相反することのようだけど、それが合わさって1つの状態なのが自然体のようにも思えた。車も、充電スポットだけじゃなく、1週走ると充電される充電道路なんてもでてきたりしてね笑

 

 先日、友人と仕事の話になった時のこと。彼が自分の部下に対し、メールでダメ出しをしたことについて語りはじめた。

 そのメールに対し、部下が初めて自分に反発してきて、それ以来、態度が少しよそよそしくなってきてしまったという。

 

 どんなダメ出しをしたのかを聞いてみると、その部下が提出してきた資料について、非常に細かい指摘しすぎたようだ。なぜそれがダメなのかを、ひとつひとつ例を挙げながらロングメールを返したところ、彼が指摘したようなことを意図したものではないということを同じようにひとつひとつ説明する返信があったらしい。それ以来、明らかに彼に対しての態度が変わったとのこと。

 

 細かい点をいくつも指摘された側としては、だんだん素直に受け入れる気持ちも失せていきやすい。僕自身もそういう経験があるし、やってしまった失敗もいくつもある。

 相手に分かってもらおうとし過ぎるがために、1つのことに対していろんな角度から説明したり、説明の巾を広げ過ぎたりしてしまうんですね。彼がやってしまったことはよーく分かる。

 

 その経験をもとに、どうすべきだったかを彼にあれこれ説明していたのだが、話している途中でおかしなことに気付いた。

 僕は、彼の部下がどんな気持ちになったかを彼に想像させるために、色んな例をあげたり、彼に質問を繰り返してそれを分からせようとしていた。

 そう、これは彼に対するダメ出しを様々な角度から行っているのと同じ。僕は彼が部下にしてしまった失敗と同じ方法で彼にそれを説明しようとしていたのだ。

 

 途中でそのことに気付き、「な?なんかずっと聞かされ続けるのって、だんだん理解しようとする気持ちが薄れていくだろ?人って、無意識に自分を守ろうとするから」といって、お互いに苦笑い。

 

 過去の自分の経験から得たことを僕はよかれと思って必死に話しまくっていた。そしてそれはいつの間にか相手の何が良くないのかの多角的説明へと変化していたじゃないか。

 そして思った。僕は自分の失敗経験から学んだつもりで、口では立派なことを言いながらまったくそれを自分では実践できていないではないか。たぶん無自覚に繰り返している。そういうことを語ることで、さも自分が一段上の人間だと勘違いしてしまう。

 

 それじゃまったく意味がない。学んだことを誰かに伝えようとするのは決して悪いことではないけど、どうあるべきかだとかを多角的に論じ、断じるべき相手は、まずは自分。

 自分が実践せずに、他人にあれこれ言うのは誰にでもできる。分かったような気になり勘違いをしてしまう。僕らお互いバカモノだよねぇ、気をつけなくてはいけないなぁ。それが彼との会話の結論となった笑

 

 

 

 

 リーダーシップという言葉。僕もこの手の本を熱心に読んでいた時期があり、勉強したものですが。

 

 いま、自分自身を振り返って思うのは、本やセミナーで学ぶことに興味が大きくなりすぎ、実経験から学ぶことがおろそかになっていたなぁということ。

 学んだことが絶対になってしまい、実経験でそれにそぐわないことが起こっていたり結果すらでてないのに、それに対する適応ができていなかったってこと。要するに、満足しているのは自分だけってこと。

 

 勉強することはもちろん大切なんだけど、学んだことに感銘を受けて盲信するあまりに、現実に自分の周りで起こっていることとのズレや、結果がでていないことを受け入れて、自分は何かを間違っているのではないか?という自責の意識が薄れるんですね。ちょっと前にブログで書いた「ダウンロードしかしない人」状態。

 

 だから気をつけた方がいい。自分が「こうだ!」と思っていたことと違う意見を誰かが言った時に、条件反射で「え、なんで?違うだろ?」って思考が先にくる。

 本やセミナーで勉強する時は自分をゼロにして他者の意見・考えをしっかり吸収できるのに、なぜか実経験では自分の考えと異なるものを受け入れることに強い抵抗を感じてしまう。 

 勉強して覚えたことが一番重要で、それをもとにした自分の考え方に縛られてしまうんですね。リーダーシップという言葉、そして学びにはそういう独特の毒がある。

 

 僕は最近ようやくそのことに気づいた。それは、とある人から受けたシンプルな質問がきっかけだった。

 

 『多くの従業員はリーダーシップを求めていますよ。それは間違いないと思います。ところで内海さんが目指しているリーダーシップは、周囲の人が内海さんに求めているリーダーシップとは一致していますか?』

 

 そんなこと真剣に考えたことも、知ろうとしたことも、大切だと思ったこともなかった。それを見透かされた質問だった。

 一致していればよいという問題ではなく、そういう現実視点も勉強したことと同じように重視した方がいいよ、そういう意味だろう。姿勢や対応、冒頭で書いた実経験による適応。

 

 もし、あなたが僕と同じならぜひ一度自分が「リーダーシップ中毒」かも知れないということを考えてみるくらいはしてもいいと思う。

 リーダーシップという「学び」に犯され、実際の経験から得らること、得るべきこと、そしてその大切さを、実は自分で思ってたほど重視していないかもしれない。

 

 

 先日、とあるスポーツクラブで若くして支配人の役職についた山崎さん(仮名)と、その上司を交えて会食をする機会があり、色々と話をしていた時のこと。

 

 僕は山崎さんに現場で、リーダーとしてどのような意識、思考、振る舞いをしているのか?ということを聞いてみた。

 しかし山崎さんの口からでてきたのは、周囲のスタッフに対する不満のような言葉ばかり。そして自分のメンバーのことを平気で悪くいう。なんとも不愉快になり思わずこう言った。

 

 「気持ちはわかりますけど、周囲の人の愚痴をもらす時は、それは必ず本人の耳に入ると思って話した方がいいですよ。」

 

 と軽く山崎さんへ言うと、自分の言動のマズさに気づいたのか、

 

 「内海さんは、なんかすごい人格者ですよね。周囲からもすごい尊敬されているんじゃないですか。」と返してくる。

 

 そう言われるのは嬉しくないわけではないけど、僕はそんな人間じゃない。愚痴ることもあるし、自分のことをずるいと思うことだったちょいちょいあるし、至らないところだらけだ。全く知らない他人のことを悪く言う話に付き合わされるのが不愉快だから、やんわりと釘を刺しただけだ。

 

 人の言動に対し、それが起こったという事実や主観を話すだけならまだ許容範囲ですが、人のことを悪く言ってる人を見ていると、その人の方が悪い人に見えてくる時があるんですよね。まさに山崎さんに対してそういう感情を抱いてしまったのです。

 

 「山崎さんは残念だけどダメだな。あれじゃ良いリーダーにはなれない。」僕はそんなことを帰りの電車でずっと考えていた。

 まるで嫌な出来事に遭遇し、頭から離れないかのようになっている自分に気づいた。じつはそういうことがよくある。別にほうっておいてもいいようなことなのに、何度も「なんであんなこと言うんだろうなぁ」と気にし続けることが。

 

 そこで思いだしたのが、ユング心理学の「シャドウの投影」という言葉。ひょっとしてそういうことなんだろうか・・・?

 

 人間は自分自身にとっての認めたくない「悪」や「弱さ」といった影(シャドウ)の部分があって、それを普段は表に出すまいと自分で抑圧し、忘れようとする。「自分はそんな人間じゃない」と思いたいから。

 だけど他者と関わって生きていく中で、自分が抑圧し、切り捨てようとしてきたものを普通に表に出している人と出会うこともある。その時に自分が抑え込んでいるもう一人の自分を相手の中に投影することで、感情が刺激されてしまう。これがシャドウの投影。

 

 僕が抑圧し、認めたくない過去の自分は何か?それは20代の頃。当時勤務していた会社では、クソ生意気で厄介な社員だった。自分が気に入らないことは、すぐに口に出す気難しい性格。直属の上司や先輩はさぞ僕の扱いに手を焼いていたことだろう。同年代の仲間と、他部署の上司のこともボロクソに悪く言っていたものです。

 しかし30歳を過ぎて転職し、自分がメンバーをまとめる立場を経験するようになって、自分がどんだけ面倒で組織の足を引っ張るような存在だったかが分かったんですね。

 

 そして自分のダメ社員っぷりをその後何年も後悔し続けることになった。自分がメンバーとの人間関係で悩む度に、当時の先輩や上司へ何も恩返しをせずに会社を辞めてしまったことの罪悪感も毎回同時に抱き続けていた。

 

だから当時の自分がしていた

 

・気に入らないことや嫌なことがあれば、すぐ平気で言動に出す

・本人のいないところで相手のことを悪くいう

 

 これらをしてはいけない。それが、僕が常に抱く主義になっていた。もちろん完璧にこなせていたわけではない。つい、相手のことを悪く言ってしまうようなことだってありましたよ。

 でも、それは自分の中で抑圧すべきものと決まっているので、「これは、いけなことだ!」とすぐに気づき、引きずることなく対処できるんですね。それができるようになっただけ、僕は自分が少しは成長したかなと思っていた。 

 

ここまでの話は、以前から自分でも理解していたこと。でもそれから10年ちかくがたった今、新たに気づいたこと。

 

 僕はその主義に反する人を見ると、気になって気になってしょうがなくなる。そういう人こそがもう一人の僕自身、僕の影の部分だったんだ。

 冒頭の山崎さんの話を聞いていて、不愉快になっていったのがまさに「シャドウの投影」。自分の中にある認めたくない自分を刺激してくる相手に嫌悪感を抱く。

 だから他社の人のなのに我慢できず釘を差すようなことを言ったり、帰りの電車の中でもしつこく彼を認めない理由をあれこれと考え続けていたんだろう。頭では理解できるが、気持ち的には何とも複雑だ。自分がしていることの説明が完璧にできてしまうじゃないか。

 

 しかたなくシャドウの投影について、ちょっと調べて分かったこと。それは、まず抑圧をやめることだという。

 相手の何が気に入らないのかを突きつめて考え、実はそれが自分の中にもあることを受け入れる必要があるという意味。

 今の僕のように客観的に自分の影に気づけたとしても、それを映し出す他者に対し嫌悪を感じるということは、気持ちの面では受け入れることができていないということだろう。

 

 山崎さんの話を聞いた時に、僕はそれじゃダメだと彼を否定した。そうではなく、「あぁ、自分の中には今でも彼と同じ一面があるんだな」と受入れ、むしろ彼のような人に近づき、自分の影を目いっぱい感じてみればいいんだろう。

 

 認めたくない自分の影に対するコンプレックスで、僕は今までずいぶんと窮屈な生き方をしてきたのかも知れない。

 誰かにその影を投影してしまった時に、反応的な感情に自分を支配させず、「それは自分の中にあるものなんだよ」、そう教えてくれているのだと考えるようになれれば、もっと穏やかな気持で生きていけるだろうな。

「難しい」とか言っているうちは進まなくていいからね。現実的な努力を保留にする口実にしかならないし。
******************************************
 
 これは、1年ちょっと前にブログに書いた言葉。「難しい」と口には出さない、そう自分に約束した時のこと。周囲からそういうことを言われても「難しいですかねぇ?」と問い返すような言い方にとどめる意識をしてきたつもり。
 
 でも先日、思わず言っちゃったんですね。「難しいと思います」 あ~ぁ言っちゃったよ。あまりにも自然に口から出てしまったので、もしかしたら自覚していないだけで、もっと頻繁に言ってたかもな笑
 
でもね、
 
「難しいよね」
「だよね、ちょっと厳しいよね」
 
 こんな会話をしていたら、難問が発生した時にお互いに免罪符を出し合っているみたいな感じじゃん。思考停止、あとは話すことないでしょ。
 
 もともとは、仕事をする環境が変わってトレーニングの時間がとりずらくなり、すること自体が「難しい」と言ったり思っていた期間が2年くらいあって、そんな自分に嫌気が差して封印しようと思ったのがはじまりだった。
 
 そして、トレーニングも諦めないし、仕事でも自分から「難しい」の言葉で終わらせるのを避けるようにしてきて、実感してきたこがある。
 
 難しいって言いたいんだけど、言えないからすごい考え込むんですよね。ただ黙りこんでしまっているように見えてしまうかもだけど。「難しい」以外にどう返していいか分からなくて、行きつく答えは
 
・自分が間違っているかも知れない
・単に自分のレベルが低いからそう思うだけだ
 
ってこと。
 
 そんな時にでてくる言葉は
 
「まぁ確かに難しいことではあるけれども...」
「簡単ではないですけど...」
 
 というように、「だけど」をセットにすることぐらいの、ちょっとだけ前向きな一歩は踏み出せるようになったかな。「難しい」という理由は、リスクの回避なのか、単なる負荷の軽減なのか?そのくらいは考えるようになった。
 で、もしかしたらやってみても結果は50点以下かもな、って思ってもやっぱやってみたいんですよね。結果を経験したいって欲がうずくんですよね。
 
 そんな時には、失敗するかもしれないし50点くらいの完成度かもしれないけど、「やってみるか!」という前提の「難しいよね」は言ってもいいかなぁ。そんなふうにルールを変えようと思った。
 難しいことをやり遂げるのを避けるための「難しいよね」は決して口にはしたくないのです。そこは変わらない。challenging
 
 先日、ホームのジムでトレーニングをしていたら、あるお客様から減量に関する質問をいただいた。そのお客様は体つきやトレーニングで扱う重量なども一般の人から見たらハイレベル。とても熱心な人。
 まずは現在の食事内容を聞いてみると、しっかり勉強していらっしゃることが良く分かった。 カラダでも結果を出し、情報収集とその精査もできているのに、なぜあえて僕にまで質問をしてくるのだろうか?そんなことを思ったが、ふと自分の過去を思い出した。まったく同じことをしていたなと。


 しっかりとした情報を得て勉強もしていて、結果もそれなりにでているのに、それでも本当にこれでいいのだろうか?と苦悩するんですよね。

 毎日にように最高のトレーニング方法や食事方法が自分の中で生まれてくる。でも、まずはじっくりと腰を据えて1つのことを長期間やり続けなくてはカラダの変化は確かめようがないから。
 アップデートがあればどんどんインストールしたい欲を抑え現バージョンを使い倒し、極めることに専念すべきだとわかっちゃいるけど、周囲へ質問したり調べなおしたりの繰り返し。でも、そのおかげで正しい情報を見極める術が鍛えられたは思うけど。

 今の世の中、ネットを検索すれば簡単に膨大な情報が手に入りますよね。僕がカラダに関する勉強に夢中になっていた20代の頃よりはるかに膨大。

 でもね、これが現代の弊害の1つかなぁって思う。ネットで情報を得るってことが当たり前すぎて、そこにでていることの真偽に対する追及が弱くなっているんじゃないかなって感じることがちょいちょいある。

■自分の中にダウンロードしかしない人

 自分の中にダウンロードしたら精査をせずにSNSとかでそのままアウトプット、みたいな情報もどんどん増えていっていると思う。

 その情報が正しいのかどうかをさらに追及したり見極めるのって、ネットのせいで余計に難しくなってきてる部分もあるのかもしれない。

 でもですね、ネットだからこそ良いところもあって、ずっと調べ続けていると、信頼できる情報源や発信者にたどり着くこともある。今まで半信半疑ながらも勉強し続け蓄積してきたことがスッと繋がり納得できる瞬間。ダウンロードオンリーではそこにはたどり着けない。

 冒頭のお客様はきっとそこにたどり着く人なんだろうな。会話を終えてからそんなことを考えていた。でも極めようと思えば思うほど新たな疑問は沸いていくるから終わりはないんだけどね。そういえば最近そんなことを意識していたことってあったかなぁと、今ふと思った。

 ってことはダウンロードしかしていない自分がいるのかも。新しい疑問が尽きないことを感じられないなら、進歩している気持ちになっているだけで、実はその場に居続けているだけなのかも...汗
 
 

 とあるフィットネス専門情報誌で取り上げられていた『フィットネス参加率を高めるための7つのヒント』という見出しが目に入り読み込んだ。その中の1つに「エンタテイメント化」が挙げられていた。

 

『エビデンスなどを揃え、論理的に考えたアプローチをするだけでは、人は行動を起こしません。情緒介入型のアプローチも必要です。』

 

という出だしの文章。

 

 以前に社内の会議で似たようなことを自分が話していたことを思い出した。自分がどうなりたいかだけでなく、『自分+誰か』や『健康+何か』、『情報支援だけではなく、感情への介入』だということを。

 

 論理も大事ですよ。何をどうするとか、大事なのはコレだとか、必要なことは~とか。でもそれに共感して行動を起こしたり、継続できる人は、きわめて少数。

 だけど、フィットネスって心と体の健康を通して人々や社会へ貢献という崇高な意義があるから、ついついその価値観を一般の人の入口にもっていきたがる。だから日本のフィットネス人口参加率は何十年も3~4%なのかも。僕自身も実はそうです。こんな素晴らしい仕事はないなと思っていますんで。

 

 でも本当は、フィットネスを通して心と体の健康というのは入口ではなくて出口(ゴール)そのものか、それに近いんですよね。

 だったらもっと色んな入口を創ることがフィットネス業界の役割の1つであって、その中にはフィットネスが副次的サービスとしてくっついている、そういう発想がもっとあってもいいんじゃないだろうか。

 

 その発想の1つが冒頭にでてきたエンターテイメント化。健康、ダイエット、生活習慣病予防などというキーワードでは動かない、フィットネスの準備ができていない人達の方が圧倒的に多いんだから、そこに向けてどんな入口を用意すれば良いのかをわたしたちが考えましょうよ、という提言なんだと思う。

 

 でも業界人であるほど、そういう変化をいつでも誰でも好むとは限らない。それがフィットネス参加率を増やす方法であるとしてでもです。

 

 どんな分野でも1つの意見がでれば、必ず逆の意見がでてくるのが日常茶飯事だけど、日本のフィットネスに対し大きな影響力を持つ人が、業界誌でそのような発言をしてくれていることはすごく勇気づけられたなぁ。自分ももっと知恵を絞っていきたなぁと改めて強く考えさせられました。

 

 

 

 先日、妻と自宅近くのとあるスーパーへ買い物へ行った時のこと。店内を歩いていると、4~5歳くらいの男の子を叱っている父親が目に入った。

 

「~できないんだったら、もうやめなよ!」

 

 父親がそんな感じのことを大きめの声で言っていた。それに対し、口をとがらせながら目線を合わせようとしない男の子。

 

 こんなに人がたくさんいる場所で、なんかかわいそうだな、くらいに思って通りすぎたのだが、3分後くらいにまた店内の別な場所でその親子を目にする。まだお父さんが男の子に詰め寄っている。おいおいなこんなところで。。。

 

 「いいたことがあるなら、いいってごらん?なんで黙っている?分からないでしょ、ちゃんといってごらんっ!」

 

 詰め寄るような強い口調の父親と、何も言えず黙り込む男の子。もちろん父親もそれなりの理由があってのことだろうから、それを良くないことだと決めつけるわけにはいかない。

 

 ただ、男の子の表情をみてなんとなく感じた。べつに反省しているわけではなく、

 

「なぜそんなに怒るの?」

 

ただそのことに悲しさを感じているような。

 

「思っていることを言ってもどうせ怒られる。僕はいつも怒られてばっかり。」

 

とでもいいたそうな表情に見えた。

 

 なぜそこまで怒っていたのか理由は分からないので、その父親に対しどうこう言うつもりではないですよ。以下はただ男の子の顔を見ながら僕が勝手に思ったことです。

 

 子供は自分が楽しいと思ったことや、良いと思ってしたことでも、それを大人に認めてもらえないことがよくあるよね。その場に不適切なことであったり、あるいは大人の都合に合わないという理由だけの時もある。それはそれで学ばなきゃいけないこともあるだろうけど、子供であるがゆえについついやり過ぎてしまう。

 

 ただ、これは大人になってもあることだなぁ。自分が良いと思ったことや楽しいと思ったことでも、認めてもらえなかったり、言動を後悔する結果になったり。それについて誰かに何かを言われてもがまんしたり。同じ経験は続いているんじゃないかな。

 

 でもさぁ。子供の心って大人なんか比較にならないほどその時々で揺れ動いているものだと思う、そこは大違い。だから大人が思っている通りに子供が考えたり行動するなんて求めていいのか難しいね、願ったり期待したりするところまではいいけど。

 

 今の僕は小さな子供の親ではないんだけど、大人こそがただ素直な気持ちで子供の中にある思いにもっと気づけたらいいのに。何か言いたいのをグッとこらえるように口をとがらせ、悲しそうな顔をしていた男の子の様子を思いだしながら、そんなことを考えた。

 

 

{4A4151C6-FD1F-482A-8C7E-9B0AEA0AF4FF}

 

僕が一番おいしいと思うお寿司屋さん(まるごと市場)の名物。トロの裏巻き。

でも、やっぱりしめサバが№1。

 

席に座ると同時に「しめさば4枚」が定番。他では味わえない一品。

 

 あけましておめでとうございます。更新頻度ガタ落ちながらも、僕の駄文におつきあいくださり、ありがとうございました。ことしもどうぞよろしくお願い致します。

 

 ここ数年、1年が長いなぁ。4~5年くらい前までは「今年もあっという間だね」なんて毎年いってたような気がするけど。。。

 

 色んな新しい体験、挑戦もあったせいもあるかもだけど、でもね、今年は考え込む時間が長くて行動量がダメダメだったなぁ。という感じ。

 

「今日、どれだけやったか?」

 

が、ということに拘っていあかったなぁと悔やまれる。

 

 目標に対してやるべこと(量)や、そのために必要な努力、その努力をもってしても起こるだろう失敗や挫折、こういったことを過少かつ漠然としか評価していなかったからだろうと振り返す。

 

 要するに自分が持っている力を出し切っていないんじゃないかってこと。

 

『時間なんてないんだ』

 

ということを一番に考えられるように変わらなきゃ。このことに本気で気づくのに時間がかかり過ぎてしまった。

 

 トレーニングに例えると、口や考え方はご立派だけど体は万年変わらずなのに、おんなじトレーニングや食事ばかりしているような感じ。

 やっていること自体に満足して、低い生産性のまま目標も高くしようとしない理由を見つけている状態かな。自分の持っている能力をだしきってまっとうしないと。

 

 追い込まないと超回復しないですからね笑

 

 そういうわけで、追い込まざるを得ない状況へ自らを放り投げて行動量と生産性をたかめていこう。そしたらね、毎日全力で前進できるのが楽しくてしょうがない、そういうモードに入っていくんじゃないかな。そんな年にしようと思ったのでした。