ほたるいかの書きつけ -80ページ目

「江原啓之がフジを痛烈批判 『虚偽の提案でだまされた』」

「江原啓之がフジを痛烈批判 『虚偽の提案でだまされた』」  (J-CASTニュース)

件の番組への批判に関して、江原からは「むしろ被害者」的な反応が出ているようだ。曰く、

 しばらく江原さんは沈黙を守っていたが、「江原啓之公式サイト」で1月22日、初めて口を開いた。江原さんは、意見書を重く受け止め、慎重に行動するとしながらも、「フジテレビの番組制作のありかたを遺憾に思います」などと痛烈に批判した。江原さんの番組の大ファンだとフジから聞かされたため出演を決めたものであって、「望まれていないカウンセリング」とは知らされていなかったと江原さんは主張。さらに、

  「テレビ局から虚偽の提案を受けた」「私自身が不覚また迂闊に騙された」

 などと、あたかも被害者であるかのように訴えた。そして、

  「問題となっているテロップの『経営難』などの発言は私からありませんでした」「ボランティアに関する経済的な苦労に対しての、バランスを指摘したにすぎません」

 と弁解した。

 また江原のブログでも、実際に「深く反省する」旨述べているが、読めばわかるように言い訳がましく番組づくり(テロップの出し方や相談者に関する虚偽の情報を与えられたなど)に問題があったとつらつら書いている(ブログへのリンクは上記記事にある)。

 このあたりの「反省」する引き際のうまさがまた信奉者を引き付ける要素にもなっているのだろうが、よくよく考えると(既にあちこちで指摘されているが)江原の「霊能力」とやらとの矛盾も甚だしい。番組スタッフについてはともかく、相談者に対して、その程度の虚偽情報も虚偽と見抜けないならば、いったいなんの能力なのか。今までの「カウンセリング」とやらは、一体なにを根拠にやっていたのか。

 もちろん、実態は、番組から事前に与えられた情報をもとに、脳内で勝手にこしらえた妄想を自分の霊能力によりもたらされたものと信じ込み、適当なことを言っていたんだろうと推測される(私としては、嘘とわかりながら「カウンセリング」をしていたとはせめて思いたくない)。

 いずれにしても、こういう安易な番組づくりはもうやめるべきだし、視聴者にも、ほんの少し論理的に考えるクセをつけて欲しいと思う。ほんの少し考えるだけで(疑おうと思って疑う必要なはい。彼らが言っていることの整合性を考えるだけでも十分なのだ)、言っていることのおかしさに気づくはずなのだから。

優先順位問題再考

 某所からリンクのはられていた「日和見追随者と風のゆくへ」 (とそこのいくつかのエントリ)を見て思ったこと(なお私はこの方のブログは今回初めて拝見いたしました)。反論とかなんとか言うのではなく、そのエントリに特徴的に表れているニセ科学への批判に対する批判(嫌悪感というのが正確か)について、自分の頭を整理するために考えてみた。この類の批判は多いように見えるので。
(最後まで書いてからの追記:長い割にはまとまっていません。もう少し整理が必要ですね)

 ○×偽装問題に限らず、なにを批判するかは批判する人の問題意識によるのであって、直接的には社会的(なりなんなりの外部尺度)で選択するものではない、ということは、いわゆる「優先順位問題」としてあちこちで議論され、大体決着がついていると言ってよいだろう。マイナスイオンに問題を感じる人はマイナスイオンを批判すればよいのだし、血液型性格判断に問題を感じる人は血液型性格判断を批判すればよい。当然、雇用の問題、税の問題、社会保障の問題、憲法の問題、それぞれについて問題意識を持つ人が論じればいい話である。普通の人にとっては。

 それが当てはまらない場合があり、おそらく二通りに分類される。一つは、そもそも社会における重要な問題について論じるという、ある種トピックの取捨選択についてメタな問題意識のある場合である。典型的にはジャーナリズムであり、また社会の様々な仕組みを決定する政治家である。彼らは「何が重要か」という問題意識で動いているのだから、重要であるとある程度コンセンサスのある問題に斬り込んでいくだろうし、またそうでないと困る(「困る」と思われているのも社会的なコンセンサスだろう)。この場合、「その問題を取り上げておいて、なぜこの問題を取り上げないのだ」という批判は重要である。メディアが芸能人同士のどうでもいい喧嘩やスキャンダルばかり報道する裏で国民生活や日本の将来に重大な影響を及ぼす重要法案が通ってしまうようなことはいくらでもあるのであり、それらに対する批判は重要であろう。

 もう一つは、職責から来る倫理的な動機である。社会的に重要で(最重要である必要はない)、かつ彼らの専門分野に密接に関わる問題がある場合、(それがダイレクトに選挙に関わるのではない限り)その分野の専門家集団として発言する義務があると思う。個々人としてではなく、その業界として。例えばニセ科学問題はその典型であるが、自分の専門分野にかかわる領域で虚偽の言明がなされ、それが社会的にもなんらかの問題を引き起こすことが多少なりとも予想される場合、科学者としてはなんらかの行動(発言を含む)をするべきである(べき、と私は考える)。勿論、全員がする必要はない。しかし、社会に対するコミュニティの責任として、なんらかのアクションはあるべきだ(学会レベルで、とかいうのではなく、そういう行動をする人を大なり小なり支える-少なくとも後から撃つようなことはしない)。どういう形で行われるかはケースバイケースだし、関わり方も一人ひとりが考えればいいことだが、コミュニティに対する要請として、倫理的なレベルで応えなければならないものだと思っている。

 ニセ科学問題についてもう少し述べると、科学者にとって、自分の専門分野について虚偽の言明がなされている場合、その分野にいる(一部の)人がなんらかの行動をするのは当然だろう。それが社会的にどれだけ重要かは別問題だ。なぜなら、虚偽がはびこるのはその分野にとって大問題だからだ。そして、それはその分野の不利益であるのみならず、その分野の成果を社会に還元する(俗的な意味で役に立つ、ということだけではなくて、文化のレベルで、なども含めて)ことに重大な問題を引き起こしかねず、社会的な損失にもなるからである。


 前置きが長くなった。
 例えば件のブログで言及されているホメオパシーについて考えてみよう。ホメオパシーのどこがいけないか、何が間違っているか、については一つの点だけではなく、色々な切り口から見ることが出来る。例えば医療問題という側面から見ることが出来る。薬効がないのにプラシーボであると思い込むということがどういう問題を引き起こすか。軽い風邪ならば副作用もなく静かにしていればほっといても治るのであるから問題は生じないだろうが(金銭的な問題は別として)、指摘される重大な問題は、本当に医者にいかなければならない重大な病気にもかかわらず、ホメオパシーに頼り、悪化させてしまうということだろう。これは科学の問題というよりも医療の問題であり、それこそ偽装の問題と言ってもよい。薬事法的な観点からの見方もこれに近いだろう。
 一方、別の見方もできる。たとえば、科学の作法から見て、ホメオパシーを支える人々の主張のどこが間違っているかを指摘すること。あるいは現代的な文脈の中では「波動」や「量子力学」による説明が加えられることがあるが、その物理学的な説明の間違いを指摘すること。これらは、この社会においてまっさきに考えるべき重要なトピックであるとは限らない。しかし、その分野の専門家にとっては(そして多少なりとも論理的に突き詰めて考えられる人にとっては)明確な間違いを含んでいる。それを指摘することは、専門家としての倫理的な責務であろう。少なくとも、仮に専門のコミュニティ内部でわざわざ足を引っ張るようなことがあれば、科学者の社会的責任をまっとうしないものとして批判されるべきものであるとさえ私は思う。

 つまり、科学者にとっては、それが批判されることが社会的に焦眉の急となる課題であるかどうかとは無関係に(論理的には。後述するように、個々人の動機としては関連しているだろう)、「何を批判するか」が選択される、ということだ。だから、専門家が自分の専門に関わる虚偽の言明に対して批判し注意を促すことに対し、「もっと重要なことがあるのになぜやらないんだ」と批判するのは間違っている。

 では、さらに論をすすめて、同じ分野で似たような虚偽の言説が複数挙がったとしよう。たとえばA社とB社が似たような虚偽の宣伝文句を掲げていたとしよう。そこへ専門家が例えばA社の言説について批判を加えたとしよう。それについてはどう考えるべきか?無論、特定の言説への批判を通じてより一般的な対象に対する注意を喚起するという効果があり、そのこと自体が責められるのは間違っている。重要なのは、専門家がケーススタディをきっちりやってくれるかどうかであり、その後は警察なりジャーナリストなりの役目になるはずだ。だから、「なんでA社ばっかり批判するんだ」という批判は的外れだし、「A社は不運だ」というのも間違っている。


 次に、専門家以外の人々による批判について考えてみる。これは自分の専門外について批判する場合の科学者等を含むだろう。
 これはもう冒頭に述べたように、自分の問題意識、興味・関心に基づき批判すればよい。むしろ、気がついたものから順にやっていけばよいのだ。重要なのは、自分の言説に責任を持つ、という一点だけであり、何を取り上げるかまで他人にとやかく言われる筋合いはない。無論、責任を持つ、ということは、言った内容について批判される可能性がある、ということであり、公の場で自分の意見を開陳する以上は覚悟しなければいけないことである。

 最後に、では、専門家が自分の専門に基づき批判をしつつ、その批判の射程が専門を超える場合を考えてみる。「水伝」がいい例だ。物理学・化学の専門家として、水の結晶が人間が与えた言葉によって変化するなどあり得ないし、そんなものを教育現場に持ち込んで嘘を教えては困る、というのは専門に基づいた批判となる。しかし、「水伝」の場合、その本質的な問題は自然科学レベルの虚偽というよりも、道徳というものをどう捉えるかというところにあるのは、ある程度考えた人にとっては一致するところだろう。「水伝」のように、専門を超えた部分で明らかにおかしいものが含まれている場合、しかもそれが社会生活を営む人間として看過できない問題である場合、一社会人として当然批判するべきものだろう。単に、批判のかたちが「物理的に間違っている上に道徳的にも間違っている」となるのか、「物理的な部分はともかく道徳的には間違っている」となるのかの違いであり、一社会人として、問題だと思うものを批判するという点では変わらない。そして、道徳的に問題のあるもののうちなぜ水伝を選んだか、と言えば、それは自然科学レベルで自分の専門あるいは自分の問題意識に関わる言説があり、その言説を批判する過程で、「その言説の」より本質的な部分に迫っていった結果である、ということになろう。ただし、本質とおぼしき部分の深い理解が専門的な知識を要し、ただちには結論を出せない場合、当然その一歩手前で踏みとどまり、問題を提起するか表層の批判にとどまることになるのだろう。

まとめ。
・批判対象の選定(明確に分けられるものではなく、またがる場合もありうる)
 -個々人の専門分野に関するもの→職業的倫理、社会的責任
 -ジャーナリスト、政治家、民主社会の構成員としての社会人、等→社会的重要性
 -専門分野と直接には関わらないもの→個々人の問題意識、興味・関心
・批判の射程
 -批判対象そのものが持つ論理構造(その問題の本質の所在)
 -ただし、本質がどこにあるかの認識と、その人がどの部分を批判するかは個々人の問題意識による

***

 えー、まとまりきりませんな。
 なぜまとまらないかというと、人間というものは、多様な側面を持っている(一人の人間が、専門家であり、一般人であり、社会の構成員であり、…)からなのだと思います。そのどの側面からの批判なのか、というのを踏まえないと、批判に対する不毛な批判にしかならないと思うのです。
 いづれにしても、もう少し深めて整理する必要がありそうです。自分にとって。

ホッキョクグマ・フロッケ



ドイツの動物園の、あの「クヌート」に続くホッキョクグマの子ども「フロッケ(Flocke)」の動画です。なんというかもう、抵抗できませんね。(^^;;;;

映画「アース」にも出てきますが、温暖化がすすめばホッキョクグマは生きていけなくなります。なんとかしないといけません。もちろん、「かわいいから」じゃなくて、種の多様性保持、という観点から。個人的な動機は「かわいいから」でもいいと思いまし、温暖化問題へ興味を持つためのきっかけとしても格好だと思いますが、そこで止まらず、その先まで見られると良いですね。

Flockeはドイツ語で「雪片」という意味だそうです。英語の flake と関係あるのかな?
それはともかく、雪と言えば「水の結晶」なわけで、「水伝」批判をするときの話のマクラにいいですね。
雪の結晶のごとくスクスクと成長してほしいですね。

教育系学部の不人気

『朝日』より。

「経済系学部が人気 就職重視へ 08年度大学入試」

2008年01月19日11時00分

 08年度入試は経済・経営・商学系の学部が人気を集めそうだ。理系では理学系や工学系の人気が安定している。

 河合塾の調べでは、…(中略)

 逆に、前年に続いて人気を大きく落としそうなのは教育学(教員養成課程)系。教員免許更新制の導入など、取り巻く環境が厳しくなるとの予測が受験動向にも影響を与えているようだ。

(後略)

教師をいじめちゃ駄目ですよ。

教育問題は誰でも個人的体験に基づいて何かしら言えるし(個別体験の勝手な一般化)、注目してるし叩きやすいしメディアは色々書き、政治家はテキトーな政策で現場をかき乱してシッチャカメッチャカにする。おまけに免許更新性まで導入してしまう。もともと教師は忙しいのですよ。土日は部活で潰れ、問題のある児童生徒の対応に追われ、最近は親御さんの対応にも追われ、よっぽどの情熱がなきゃやっていけない仕事でしょう。それなのに、その士気を奪うようなことばかりやってちゃ、そりゃ教育系の学部は人気落ちますわな。

するとどうなるか。質の高い学生が教育学部から減り、やがて質の高い教師が減る。ますます現場が混乱する。悪循環ですよ。

改善するためには、もっと教師を増やし、一人ひとりの教師が子どもと向き合う時間や教材開発、能力向上のために考える時間を確保することではないでしょうか。

叩けばいいってもんじゃない。

「『スピリチュアル』コーナーで倫理違反」

「「スピリチュアル」コーナーで倫理違反=フジ「27時間テレビ」-BPO検証委」 (時事)
「江原氏出演のフジ系バラエティーに意見 放送倫理検証委」 (『朝日』)

先月あたり一部週刊誌でも話題になっていましたが、BPO(放送倫理・番組向上機構)が、江原が出演し、リンゴを送る活動をしていた美容院経営者を「カウンセリング」した番組について、「出演者への配慮を決定的に欠いている。番組の取材や構成、演出は、制作上の倫理に反する」と意見を出したそうです。

「週間文春」 の最新号でも、「江原啓之『インチキ霊視』壇れい『死んだ父親』が生きていた」という記事が出ていますね。江原本人が本気で霊視をしたつもりになっているのか芝居をしているのかはわかりませんが、どちらにしても、どこかで仕入れた情報からお話を作り上げている(繰り返しますが、本人が意識して作っているか、それとも妄想を本気で信じているのかは問いません)ように見えますね。

いづれにしても、重要なのは、誰にも確かめようのない言説で、他人の人生を左右することをメディアはしてはいけないのだ、ということだと思います。


ついでに上記『文春』には他にも面白い記事が幾つか載ってます。
   「イタリアで「年間バカニュース」に選ばれたUFO大好き山根隆治」
   「
「9・11」陰謀説をブチあげた民主 藤田幸久に「あの人ダイジョブ?」
   「ブラジル人「オカルト予言者」を礼讃した下村博文」
さもありなん、というかなんというか。
結局、自民党も民主党も同じ穴のムジナなんですよね。元々どっちも自民党だったんだから、ありもしない対立構造を無理やり作り出そうとしてトンデモに走る。「二大政党制」の虚構がこんなところにも現れた、と感じます。

二大政党制が良い、というのもある種の「トンデモ」だと私は思っているのですが、これについてはいずれ論じたいと思っています。