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いやだから、血液型と性格には、そんな簡単に判定できるほどの強い相関がないことは既に示されているんですって。
とりあえず思いつくページ:
「血液型性格判断をやめよう」
「血液型性格判断 を疑ってみよう!」
「血液型-性格関連説について」
他にもいろいろありますし、上記のページからもいろいろリンクがはられています。
間違っていることがわかっているのに、時間と労力の無駄ですよ、ホント。
野暮と思われるかもしれませんが、本質的に遊びですまないことだと思っています。
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間違っていることがわかっているのに、時間と労力の無駄ですよ、ホント。
野暮と思われるかもしれませんが、本質的に遊びですまないことだと思っています。
薄っぺらな自然観と相対主義
見ると虚しくなるのでこの半年ほどは見ていなかったのですが…友人にそそのかされてつい見てしまった。
「社会学玄論」 (merca論宅氏)
なんというか、この人にとっての「自然」って、ものすごく薄っぺらなんでしょうね、きっと。
「多神教、相対主義の寛容」 では(短いので全文引用)
この際だから、この人の最初のほうのエントリを眺めてみた。 「社会調査法批判」 から。
…でも、先の論に従えば、「善なる社会」も「悪なる社会」も調査によって社会学者が社会調査によって構成したもの、ということになりません?
自然に対してだけでなく、社会に対する見方も、随分と薄いような気がする。
印象ですが、この人、「背伸びした学部生」という感じなんですが、どうでしょうか。私は背伸びするのは悪いことだとは思っていません。むしろ、自分の中で勝手に「これはどうせ自分にはわからない」と決め付けてしまい、理解しようとすることを放棄するほうが良くないと思っています。わからなくてもわからないなりに必死に本を読み、自分の中で咀嚼する努力を繰り返すうちに、たとえその一部ではあるかもしれないけれども、身についていくものです。
もっとも、通常は「背伸びしている自分」にそのうち気付き、公の場で堂々と主張したりはできなくなるものですが。そこに気付けないまま大きくなってしまった人も中にはいますよね。論宅さんが、そういう人でなければいいなと思っています。自戒を込めて。
「社会学玄論」 (merca論宅氏)
なんというか、この人にとっての「自然」って、ものすごく薄っぺらなんでしょうね、きっと。
「多神教、相対主義の寛容」 では(短いので全文引用)
寛容は美徳である。と書きつつ、別のエントリ「科学観への疑問」 では、
ブログのイラストは、ローマ元老院の哲人である。今こそ、寛容を是とするローマ帝国の精神が必要だ。
若いころに、一神教的教条主義と決別し、正しいものは、ある範囲内で複数あると考え出した。正しさが唯一であるという偏頗な思想が争いと傲慢を生むことを知った。科学という一神教が近代の怪物となり、文化破壊をしないか心配である。もともと科学という一神教的発想がなかったらニセ科学もないのである。多神教的相対主義の寛容の精神でもって、科学を認めるとともに、スピリチュアルも認めるのである。ともに対象となる世界=次元空間が違うだけである。争うことなかれ。すみ分けるべし。区別せよ。
(科学/非科学)という区別に拘泥し、他の区別を受け入れることができなくなると、豊かな人生を送ることはできまい。ニセ科学批判システムのコードである(科学/非科学)、(装う/装わない)という区別は、いくらでも別の区別で相対化しうるのである。
自然に忠実にあって欲しい。自然界の法則は普遍かつ不変であるという信念をなくせば、自然科学者ではなくなるのである。と述べている。この二つの文章、自然の奥深さを実感している者には同時に並べては書けないですよ。本人は意図してないんだろうけど、この二つを認めると、その論理的帰結は「自然科学は茶番」だと言うことにしかならないのではないか?いや、この人にとっては、自分も含めて、そもそもあらゆることが「茶番」なのだ。そして「みんなそのことに気付けよ」「茶番でいいじゃないか」と言いたいのであろう。
この際だから、この人の最初のほうのエントリを眺めてみた。 「社会調査法批判」 から。
社会調査法の技法(統計)に基づき、社会を測定し、様々な社会論が横行している。社会調査によるデータのない社会理論は観念論として退けられる傾向にある。こういう視点は「留意すべき点」としては有効だと思う。しかし、一番最初のエントリ、「創発の妙理」 で、
しかし、よく考えて見たまえ。社会調査法によって社会を測定するという発想そのものが、おかしい。社会という対象があらかじめ実体として存在し、それを統計的手法によって測定しているということであるが、この考えは過っている。
というのは、実際は逆だからである。実は、社会学者は、人々の意識や所得などを指標として調査し、項目間の相関関係を見い出し、事後的に社会という対象を構成するからである。社会は、社会調査を媒介として、事後構成されたもの、つくられたものなのである。社会という対象があり、それを測定し、認識するというのではないのである。社会調査法は社会を写し取るのではなく、逆に社会を構成するための方法なのである。
ラディカル・システム論って書いちゃってるんですよね。これはこれで、勿論重要な指摘ではあるわけですが。
100人の善人が集まっても、善なる社会が生まれるとは限らない。
100人の悪人が集まっても、悪なる社会が生まれるとは限らない。
100人の善人が集まっても、悪なる社会が生まれることがある。
100人の悪人が集まっても、善なる社会が生まれることがある。
歴史は語る。民主主義者の集まりが、全体主義を生み出したように・・・。
創発という妙理が社会の起源である。第ニの自然としての社会空間を創発せよ!
…でも、先の論に従えば、「善なる社会」も「悪なる社会」も調査によって社会学者が社会調査によって構成したもの、ということになりません?
自然に対してだけでなく、社会に対する見方も、随分と薄いような気がする。
印象ですが、この人、「背伸びした学部生」という感じなんですが、どうでしょうか。私は背伸びするのは悪いことだとは思っていません。むしろ、自分の中で勝手に「これはどうせ自分にはわからない」と決め付けてしまい、理解しようとすることを放棄するほうが良くないと思っています。わからなくてもわからないなりに必死に本を読み、自分の中で咀嚼する努力を繰り返すうちに、たとえその一部ではあるかもしれないけれども、身についていくものです。
もっとも、通常は「背伸びしている自分」にそのうち気付き、公の場で堂々と主張したりはできなくなるものですが。そこに気付けないまま大きくなってしまった人も中にはいますよね。論宅さんが、そういう人でなければいいなと思っています。自戒を込めて。
血液型性格判断前史(修正あり)
(2009.6.17 原來復の論文のレファレンスが正しくなかったので修正しました。安斎さんの本が間違っていたのだけど。その論文の中身についてはこちらのエントリ
を御参照下さい)
前回のエントリの続きで、この本からのメモです。
(注)血液型と性格には、みてすぐわかるような強い相関はないということが、万単位のサンプルによる大規模な調査によってすでに明らかになっています。
※「前史」というのは厳密には正しい言い方ではないのでしょうが、このエントリでは、「能見正比古以前」という程度の意味で使っています。
ABO式血液型(のうちA・B・O、Oは当時はCと呼ばれた)が発見されたのが1900年のオーストリア。1902年に第4の型が発見。それは1910年になってドイツのデュンゲルンによりABという名前が与えられ、A・B・O・ABの4種が揃うことになる。
デュンゲルンは西欧人にはAが多く、アジア人にはBが多いこと、チンパンジーにはAが観察されるものの、他の動物はすべてBであることに気づいた。ここから、当時のドイツの優生学を背景にして、B型の人間は進化論的に遅れた存在、A型は進んだ存在であるという主張が出てきた。
このデュンゲルンのもとに留学したのが原来復(はら・きまた)である。帰国後の1916年、「血液ノ類属的構造ニツイテ」を『医事新報』965号『醫事新聞』第954号(pp.937-941、1916年7月25日)に発表(原来復、小林栄)。内容はひどいものだったらしく、たとえばA型とB型の小学生の兄弟を取り上げ、それぞれの性格の違いについて語り、そこから一般論に飛躍するようなものだったようだ。
次は陸軍である。1926年、陸軍軍医の平野林、矢島登美太は、「人血球凝集反応ニ就テ」を『軍医団雑誌』に発表(原来復との関係はこの本には何も書かれていない)。血液型から兵隊としての資質を判定したかったということのようだ。結論は、デュンゲルンら西欧でのものとは逆に、Bが優秀である、ということであった。しかし、中身を見て見ると、統計的には有意とはとても言えないものらしい。
翌1927年、陸軍一等軍医の中村慶蔵は豊橋の歩兵第18連隊の兵士1037人について調査(結論には言及されていない)。1930年には林真学軍医が『軍医団雑誌』に「血液型ト軍隊成績ニ就テ」、角田真一、永山太郎両軍医は同誌に「血液型ト個人資質トノ関係並ニ第九師団管下ニ於ケル血液型ノ地方的分布ノ概況」を発表。さらに軍医の竹内文次、井上日英、鈴木清、松谷博冶らが論文を発表(タイトルは挙げられていない)。井上は血液型ごとの特質を生かした部隊を編成しようと試みた。が、1931年、柳条湖事件により中止されたとのこと。
さて、ここでようやく、現代の血液型性格判断ブームに直接つながる教育学者・古川竹二が登場する。この本には年号は書いていないが、1927年の『心理学研究』に「血液型による気質の研究」が掲載。その後の古川の論文についてはあちこちで書かれているので省略するが、一つ重要なのは、1931年に『実業之日本』に「驚くべき新発見-血液型で職業と結婚の適否が分かる」という論説を発表したことだろう。このような俗的な観点が既にこの時期にあったということである。なお、この論説では、古川のレイシズム的部分が表れているらしい(本書では「台湾原住民」の血液型と性格についての古川の言説が一言だけ取り上げられている)。
もう一つ面白いのは、調査対象となった児童の親から批判が出たことであろう。1928年の東京朝日新聞に、「児童の気質調べに奇怪な血液検査-小石川窪小学校の保護者から厳重な抗議申し込み」という記事が掲載された。批判の理由については本書を見ていただきたいが、一般庶民からの批判もあったということである。
さて、今回の収穫の一つは、当時古川を賞賛していた学者の一人が古畑種基である、ということである。本書を読むまで気づかなかったのだが、戦後の「古畑鑑定」(血液型鑑定)で各種弾圧に一役買った古畑と同一人物であった。もっとも、賞賛していたのは金沢医科大時代で、東京帝大法医学教室の教授となってからは、批判にまわったそうである。なぜ変わったのかはわからないが、そのあたりの変わり身の早さというか空気の読み方というか、そういうものが「出世」につながったのかもしれない。
おそらく血液型性格判断を見る視点として、
***
なお、軍部での研究については、大村政男「旧軍部における血液型と性格の研究」(『現代のエスプリ』 vol.324 (1994), pp.77)に詳述されている。私自身が読み込めていないので、ちゃんと理解できていないが…。これによれば、軍部での血液型研究は、輸血法の研究とともに浸透したようである。原来復との関係は明らかではない。
同誌で大村氏らの座談会「血液型と性格」が掲載されているが、大村氏によれば、原らの研究が古川に伝わったかは定かではない、と言う。むしろ、古畑門下の正木信夫が古川の学説を批判する際に、原・小林論文が引用されるのだそうである。そういうわけで、デュンゲルン-原のラインはそこで途切れたようである。おそらく、原らの研究は忘れられ、その一方で軍医が輸血法の研究の副産物として性格・気質との関係に着目し、進化論や優生学を背景に、古川が研究を開始した、というあたりではなかろうか。
***
『現代のエスプリ』のこの号、在庫切れになっていて古本でしか入手できなかったのですが、増刷するか書籍として出版するかして欲しいですね。多様な視点から考察されていて、貴重な資料だと思います(とは言えまだちゃんと読めてないんですけれども^^;;)。
前回のエントリの続きで、この本からのメモです。
(注)血液型と性格には、みてすぐわかるような強い相関はないということが、万単位のサンプルによる大規模な調査によってすでに明らかになっています。
- だまし博士のだまされない知恵/安斎 育郎
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※「前史」というのは厳密には正しい言い方ではないのでしょうが、このエントリでは、「能見正比古以前」という程度の意味で使っています。
ABO式血液型(のうちA・B・O、Oは当時はCと呼ばれた)が発見されたのが1900年のオーストリア。1902年に第4の型が発見。それは1910年になってドイツのデュンゲルンによりABという名前が与えられ、A・B・O・ABの4種が揃うことになる。
デュンゲルンは西欧人にはAが多く、アジア人にはBが多いこと、チンパンジーにはAが観察されるものの、他の動物はすべてBであることに気づいた。ここから、当時のドイツの優生学を背景にして、B型の人間は進化論的に遅れた存在、A型は進んだ存在であるという主張が出てきた。
このデュンゲルンのもとに留学したのが原来復(はら・きまた)である。帰国後の1916年、「血液ノ類属的構造ニツイテ」を『医事新報』965号『醫事新聞』第954号(pp.937-941、1916年7月25日)に発表(原来復、小林栄)。内容はひどいものだったらしく、たとえばA型とB型の小学生の兄弟を取り上げ、それぞれの性格の違いについて語り、そこから一般論に飛躍するようなものだったようだ。
次は陸軍である。1926年、陸軍軍医の平野林、矢島登美太は、「人血球凝集反応ニ就テ」を『軍医団雑誌』に発表(原来復との関係はこの本には何も書かれていない)。血液型から兵隊としての資質を判定したかったということのようだ。結論は、デュンゲルンら西欧でのものとは逆に、Bが優秀である、ということであった。しかし、中身を見て見ると、統計的には有意とはとても言えないものらしい。
翌1927年、陸軍一等軍医の中村慶蔵は豊橋の歩兵第18連隊の兵士1037人について調査(結論には言及されていない)。1930年には林真学軍医が『軍医団雑誌』に「血液型ト軍隊成績ニ就テ」、角田真一、永山太郎両軍医は同誌に「血液型ト個人資質トノ関係並ニ第九師団管下ニ於ケル血液型ノ地方的分布ノ概況」を発表。さらに軍医の竹内文次、井上日英、鈴木清、松谷博冶らが論文を発表(タイトルは挙げられていない)。井上は血液型ごとの特質を生かした部隊を編成しようと試みた。が、1931年、柳条湖事件により中止されたとのこと。
さて、ここでようやく、現代の血液型性格判断ブームに直接つながる教育学者・古川竹二が登場する。この本には年号は書いていないが、1927年の『心理学研究』に「血液型による気質の研究」が掲載。その後の古川の論文についてはあちこちで書かれているので省略するが、一つ重要なのは、1931年に『実業之日本』に「驚くべき新発見-血液型で職業と結婚の適否が分かる」という論説を発表したことだろう。このような俗的な観点が既にこの時期にあったということである。なお、この論説では、古川のレイシズム的部分が表れているらしい(本書では「台湾原住民」の血液型と性格についての古川の言説が一言だけ取り上げられている)。
もう一つ面白いのは、調査対象となった児童の親から批判が出たことであろう。1928年の東京朝日新聞に、「児童の気質調べに奇怪な血液検査-小石川窪小学校の保護者から厳重な抗議申し込み」という記事が掲載された。批判の理由については本書を見ていただきたいが、一般庶民からの批判もあったということである。
さて、今回の収穫の一つは、当時古川を賞賛していた学者の一人が古畑種基である、ということである。本書を読むまで気づかなかったのだが、戦後の「古畑鑑定」(血液型鑑定)で各種弾圧に一役買った古畑と同一人物であった。もっとも、賞賛していたのは金沢医科大時代で、東京帝大法医学教室の教授となってからは、批判にまわったそうである。なぜ変わったのかはわからないが、そのあたりの変わり身の早さというか空気の読み方というか、そういうものが「出世」につながったのかもしれない。
おそらく血液型性格判断を見る視点として、
- 能見親子らによる明確なニセ科学としての血液型性格判断
- →現代の流行との直接的つながり、血液型による差別
- →現代の流行との直接的つながり、血液型による差別
- 優生学との関わり
- →レイシズムを補強する役割
- →レイシズムを補強する役割
- 軍事研究との関わり
- →発想として軍事優先、平和を破壊する風潮を助ける役割
- →発想として軍事優先、平和を破壊する風潮を助ける役割
***
なお、軍部での研究については、大村政男「旧軍部における血液型と性格の研究」(『現代のエスプリ』 vol.324 (1994), pp.77)に詳述されている。私自身が読み込めていないので、ちゃんと理解できていないが…。これによれば、軍部での血液型研究は、輸血法の研究とともに浸透したようである。原来復との関係は明らかではない。
同誌で大村氏らの座談会「血液型と性格」が掲載されているが、大村氏によれば、原らの研究が古川に伝わったかは定かではない、と言う。むしろ、古畑門下の正木信夫が古川の学説を批判する際に、原・小林論文が引用されるのだそうである。そういうわけで、デュンゲルン-原のラインはそこで途切れたようである。おそらく、原らの研究は忘れられ、その一方で軍医が輸血法の研究の副産物として性格・気質との関係に着目し、進化論や優生学を背景に、古川が研究を開始した、というあたりではなかろうか。
***
『現代のエスプリ』のこの号、在庫切れになっていて古本でしか入手できなかったのですが、増刷するか書籍として出版するかして欲しいですね。多様な視点から考察されていて、貴重な資料だと思います(とは言えまだちゃんと読めてないんですけれども^^;;)。
白装束と歴史修正主義
まだ読み途中なのだが、幾つか「えっ」と思ったことがあったので、ご紹介。
I. 「エセ科学」の系譜
II. 霊能・占いの系譜
III. 詐欺の系譜
IV. 楽しみとしての騙しの系譜
となっている。元々は、「上方芸能」誌に掲載された文章をまとめたもので、血液型性格判断(次回エントリで取り上げたい)は1993年、このあと取り上げる白装束団については2003年とやや古い。しかし、内容的には充実している。
第1章では、マイナスイオン、白装束団、そして血液型性格判断が取り上げられている(2章で江原啓之にも触れている)。そのうち、白装束集団と歴史修正主義グループとの関わりが述べられているので、メモがわりに書いておきたい(ただし、「俵義文氏らの情報を総合すると」となってはいるが)。
白装束集団はパナウェーブ研究所という団体に属しているが、「スカラー電磁波による攻撃」を受けたと主張しているようにあからさまなトンデモである。このエントリを書くために初めてパナウェーブ研究所の web site をのぞいてみたが、まあ頭がクラクラするようなことが満載である。電磁場のベクトルポテンシャルが「スカラー波」だそうですよ。しかも「この(重力)ポテンシャルこそがスカラー波である」なんて書いてある。電磁場がいつのまに重力場に?
船井幸雄の「人間の魂が八次元まで行けるのは、魂の波動が電磁波ではなく重力波だからといえるでしょう。重力波はレベルの高い波動で、電磁波の十億倍のスピードで走ります。つまり光の速さの十億倍ですから、宇宙の果てまでわずか二秒で行くことができると考えていいものです。」(「波動で上手に生きる」)に匹敵するムチャクチャですわな(ちなみにこの文章、間違ってないところがないというある意味凄い文章ですね。普通はこんなの書けない)。
…ちょっと脱線した。このパナウェーブ研究所と密接な関係があるとされるのが「未来政経研究所」。国際勝共連合の機関紙「思想新聞」に、高橋正二(世田谷郷土大学学長)なる人物の講演内容が掲載されていて、「有事法制をつくれ」などとならんでスカラー電磁波対策に触れられているらしい(ちなみに高橋正二氏、陸士48期で三笠宮と同期だそうです)。
「未来政経研究所」は歴史修正主義グループと密接な関連を持つ。例えば、「日本歴史修正協議会」(鈴木彰英氏や深田匠氏を会長とする。田中正明の弟子筋で組織)が開催した田中正明や藤岡信勝らを講師陣とするセミナーの後援団体に、産経新聞や自由主義史観研究会と一緒に並んでいる。他にも「新しい歴史教科書をつくる会」との関係も指摘されている。
彼らがどこまで意図したかはともかく、パナウェーブ研究所のようなニセ科学団体がメディアを席捲し、有事法制のような日本と世界の未来にとって重要なことが脇にやられ、結果として右傾化が進むという構造が明瞭にある。ニセ科学とメディアの関係の別の側面として、注意しておくべきポイントではないかと思う。
***
なお、パナウェーブ研究所と歴史修正主義グループとの関係については、ネット上では色々指摘されているようです。安斎氏のもともとの記事は、上にも書いたように2003年ですので、(どれくらい加筆されたのかわかりませんが)割と以前からこのような指摘はされていたのだと思います。とはいえ、重要だと思うので(というか自分のメモということですが)ここに記す次第です。
パナウェーブ自体は、思想的にはあまり大きい影響は与えていないと思うが、船井グループや江本グループの主張には随分と右翼的なものが含まれていると思う。そういったことも取り上げて行きたいと思っています。
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I. 「エセ科学」の系譜
II. 霊能・占いの系譜
III. 詐欺の系譜
IV. 楽しみとしての騙しの系譜
となっている。元々は、「上方芸能」誌に掲載された文章をまとめたもので、血液型性格判断(次回エントリで取り上げたい)は1993年、このあと取り上げる白装束団については2003年とやや古い。しかし、内容的には充実している。
第1章では、マイナスイオン、白装束団、そして血液型性格判断が取り上げられている(2章で江原啓之にも触れている)。そのうち、白装束集団と歴史修正主義グループとの関わりが述べられているので、メモがわりに書いておきたい(ただし、「俵義文氏らの情報を総合すると」となってはいるが)。
白装束集団はパナウェーブ研究所という団体に属しているが、「スカラー電磁波による攻撃」を受けたと主張しているようにあからさまなトンデモである。このエントリを書くために初めてパナウェーブ研究所の web site をのぞいてみたが、まあ頭がクラクラするようなことが満載である。電磁場のベクトルポテンシャルが「スカラー波」だそうですよ。しかも「この(重力)ポテンシャルこそがスカラー波である」なんて書いてある。電磁場がいつのまに重力場に?
船井幸雄の「人間の魂が八次元まで行けるのは、魂の波動が電磁波ではなく重力波だからといえるでしょう。重力波はレベルの高い波動で、電磁波の十億倍のスピードで走ります。つまり光の速さの十億倍ですから、宇宙の果てまでわずか二秒で行くことができると考えていいものです。」(「波動で上手に生きる」)に匹敵するムチャクチャですわな(ちなみにこの文章、間違ってないところがないというある意味凄い文章ですね。普通はこんなの書けない)。
…ちょっと脱線した。このパナウェーブ研究所と密接な関係があるとされるのが「未来政経研究所」。国際勝共連合の機関紙「思想新聞」に、高橋正二(世田谷郷土大学学長)なる人物の講演内容が掲載されていて、「有事法制をつくれ」などとならんでスカラー電磁波対策に触れられているらしい(ちなみに高橋正二氏、陸士48期で三笠宮と同期だそうです)。
「未来政経研究所」は歴史修正主義グループと密接な関連を持つ。例えば、「日本歴史修正協議会」(鈴木彰英氏や深田匠氏を会長とする。田中正明の弟子筋で組織)が開催した田中正明や藤岡信勝らを講師陣とするセミナーの後援団体に、産経新聞や自由主義史観研究会と一緒に並んでいる。他にも「新しい歴史教科書をつくる会」との関係も指摘されている。
彼らがどこまで意図したかはともかく、パナウェーブ研究所のようなニセ科学団体がメディアを席捲し、有事法制のような日本と世界の未来にとって重要なことが脇にやられ、結果として右傾化が進むという構造が明瞭にある。ニセ科学とメディアの関係の別の側面として、注意しておくべきポイントではないかと思う。
***
なお、パナウェーブ研究所と歴史修正主義グループとの関係については、ネット上では色々指摘されているようです。安斎氏のもともとの記事は、上にも書いたように2003年ですので、(どれくらい加筆されたのかわかりませんが)割と以前からこのような指摘はされていたのだと思います。とはいえ、重要だと思うので(というか自分のメモということですが)ここに記す次第です。
パナウェーブ自体は、思想的にはあまり大きい影響は与えていないと思うが、船井グループや江本グループの主張には随分と右翼的なものが含まれていると思う。そういったことも取り上げて行きたいと思っています。
批判されるべきものは何か
「スピリチュアル」に感化された人々の発言で気になるのが、例えば江原なら江原の発言の、耳当たりの良い部分だけ切り出し、発言全体が意味するものを考えようとしないところである。「言ってることが正しいかどうかはわからないけど、良いことを言ってると思う」というような捉え方である。こういうことが、気になる人には気になり、その一方でまったく気にならずに「素直に」江原を好きになれる人々がいる(江原に限らないが)。なぜだろう?
同様なことが、ひところ問題になった(そして今でもなり続けている)「水からの伝言」(以下「水伝」)にも言える(概略はこちら(大阪大学・菊池誠氏) 、より詳細に興味のある方はこちら(学習院大学・田崎晴明氏) )。ありがとう、などの「良い言葉」をかけると、水は綺麗な結晶を作り、ばかやろう、などの「悪い言葉」をかけると、水は汚い結晶を作る、あるいは結晶自体を作らない、というもので、「だから良い言葉を使いましょう」という結論を導くのに使われている。学校現場でも、道徳の授業などで教材として使われる場合もあると聞く。科学的には無論そんなことはあり得ない。水の結晶(つまり雪・霜)の形状については、温度と過飽和度で決まるということが中谷宇吉郎らの先駆的な研究により示されている(湯川・朝永に匹敵する、日本の物理学が誇る成果であると思う)。信奉者の多くは、どうも「水伝」の結論に魅かれ、前提となる「実験」を無批判に信じているように見える。「それは間違っていますよ」と指摘しても、「そうは言ってもいい話だから…」のようにかわされる場合も多いようである。これも自然科学に携わるものからすれば、こんな間違ったことを学校で教えられては困る、となるのだが、その苛立ちが信奉者にはなかなか伝わらない(もちろん、「本当のことを知ってショック」という人も大勢いるが)。このすれ違いはなんなのか?
・「ニセ科学」として批判されるものの特徴
ニセ科学をどう定義するか、という議論が一部で始まっている(ここ とかここ とかここ など。エントリを指定せずすいません…)。「定義」という言葉の使い方も色々あるので、ここでは「どう特徴づけるか」という意味で捉える。批判されているものは、要するに既に確立した言説を陰に陽に否定するものであろう。例えば「水伝」の場合、既に確立した中谷らの結果を否定することになっている。水伝を推進している人々はあまり考えてないのかもしれないが、ちょっと考えれば、どうやっても中谷の結果と水伝は相容れない(温度と過飽和度で結晶形が決まるという中谷ダイアグラムは、偶然の産物である、と言っているのに等しいのだから)。科学の専門家はこの論理が見えてしまうので、敏感に反応する。そんなものが学校現場で教えられちゃかなわん、ということになる。
無論専門家でなくとも、少し考えれば(考えなくても)水伝のおかしさはわかる。良く言われるように、水が言葉に反応するわけがないし、仮にそうだったとしても、だったら見かけの形、つまり外見で物事を判断せよ、という道徳を受け入れろと言うに等しいわけで、それはやはり現代において受け入れるわけには行かないものである。これらも「常識」に反しているので、専門家でなくとも、「水伝」が主張することを他に当てはめるとどうなるか、という想像力がほんの少しあれば、そのおかしさに気づくはずである。
・温泉とニセ科学
たしか以前 apj さんのところで「温泉はニセ科学か?」という議論があったと思う(すみません興味ある方は探してください)。温泉について問題にならないのは、結局、温泉の「効能」などが仮に無意味(特段の効能がない)だったとしても、そのことが他に波及しないからだと考えられる。つまり、他の分野(温泉以外の、ということです)にとっては、温泉がニセ科学だろうがどうだろうが、影響はないのである。だったらば、次に問題になるのが「被害の程度」になるのだろう。ここで初めて薬事法的な発想が入ってくる。つまり、薬の効能にしたって、第一義的に大事なのはプラシーボではない効力がちゃんとあるか、副作用はないか、ということであって、その科学的言説ではない(それは無論大事ではあるけれども)。波動が云々などと言い出さない限り、「その薬については」科学的にどうこうという議論になるのであり、それが他の事象には影響を及ぼすことはない。
まとめると、
(1) (陽に主張していなくても)その主張が既存の確立した言説を否定することになっていないかどうか
(2) その主張が虚偽であった場合、実社会にどれだけの影響を及ぼすか
という異なる二つの論点から分析する必要がある、ということなのだろう。勿論、この二つの論点は完全に独立というわけではないだろうけれども。
(1)に引っかかり、かつ科学を装っていると受け止められる可能性があるものを「ニセ科学」と呼ぶ場合が多いのだろう。オカルトなどは(1)には引っかかるが科学を装っていないもの、となるだろうか。もっとも「科学を超える」などの言説は、科学を装っていないように見えながら、実は将来科学が発展すれば科学的にわかることだと暗に主張しているようものだから、科学を装っていないとは言い切れない部分もあり、ややこしい。
若干ケーススタディめいたことをすれば、宇宙人の乗り物としてのUFOの飛来などは(1)には引っかかり、科学めいた言説をふりまわすので「ニセ科学」として科学者からは明確に否定されるけれども、(2)の点からは特に被害ということもないので社会的な批判にさらされることもない(ただし、例えば催眠術で虚偽の記憶を植えつけられるようなことが拡がれば、話はまた変わるだろう)。江原や細木も信奉者(の一部)の受け止めとは関係なく(1)に引っかかり、しかし科学を装っているわけではないのでオカルト的であり、さらに(2)の点も懸念され(これは先のエントリで取り上げた小池靖氏の本でも触れられている)、批判が出始めている。
いずれ取り上げたいと思うが、ニセ科学は自然科学にとどまらず、人文・社会科学でも当然起こりうる。「南京大虐殺はなかった」などは、ホロコースト否定論との絡みで(それだけではないけれども)追究してみたいテーマである。これは歴史学を装いつつ確立した歴史学の成果に反し(否定し)、かつ社会的な被害が予想される。ただしこの場合の「被害」とは、日本社会の行く末が、ということである。
***
今後はこのような感じで進めていこうと思っています。
第一義的な目的は自分の思考の整理、です。
同様なことが、ひところ問題になった(そして今でもなり続けている)「水からの伝言」(以下「水伝」)にも言える(概略はこちら(大阪大学・菊池誠氏) 、より詳細に興味のある方はこちら(学習院大学・田崎晴明氏) )。ありがとう、などの「良い言葉」をかけると、水は綺麗な結晶を作り、ばかやろう、などの「悪い言葉」をかけると、水は汚い結晶を作る、あるいは結晶自体を作らない、というもので、「だから良い言葉を使いましょう」という結論を導くのに使われている。学校現場でも、道徳の授業などで教材として使われる場合もあると聞く。科学的には無論そんなことはあり得ない。水の結晶(つまり雪・霜)の形状については、温度と過飽和度で決まるということが中谷宇吉郎らの先駆的な研究により示されている(湯川・朝永に匹敵する、日本の物理学が誇る成果であると思う)。信奉者の多くは、どうも「水伝」の結論に魅かれ、前提となる「実験」を無批判に信じているように見える。「それは間違っていますよ」と指摘しても、「そうは言ってもいい話だから…」のようにかわされる場合も多いようである。これも自然科学に携わるものからすれば、こんな間違ったことを学校で教えられては困る、となるのだが、その苛立ちが信奉者にはなかなか伝わらない(もちろん、「本当のことを知ってショック」という人も大勢いるが)。このすれ違いはなんなのか?
・「ニセ科学」として批判されるものの特徴
ニセ科学をどう定義するか、という議論が一部で始まっている(ここ とかここ とかここ など。エントリを指定せずすいません…)。「定義」という言葉の使い方も色々あるので、ここでは「どう特徴づけるか」という意味で捉える。批判されているものは、要するに既に確立した言説を陰に陽に否定するものであろう。例えば「水伝」の場合、既に確立した中谷らの結果を否定することになっている。水伝を推進している人々はあまり考えてないのかもしれないが、ちょっと考えれば、どうやっても中谷の結果と水伝は相容れない(温度と過飽和度で結晶形が決まるという中谷ダイアグラムは、偶然の産物である、と言っているのに等しいのだから)。科学の専門家はこの論理が見えてしまうので、敏感に反応する。そんなものが学校現場で教えられちゃかなわん、ということになる。
無論専門家でなくとも、少し考えれば(考えなくても)水伝のおかしさはわかる。良く言われるように、水が言葉に反応するわけがないし、仮にそうだったとしても、だったら見かけの形、つまり外見で物事を判断せよ、という道徳を受け入れろと言うに等しいわけで、それはやはり現代において受け入れるわけには行かないものである。これらも「常識」に反しているので、専門家でなくとも、「水伝」が主張することを他に当てはめるとどうなるか、という想像力がほんの少しあれば、そのおかしさに気づくはずである。
・温泉とニセ科学
たしか以前 apj さんのところで「温泉はニセ科学か?」という議論があったと思う(すみません興味ある方は探してください)。温泉について問題にならないのは、結局、温泉の「効能」などが仮に無意味(特段の効能がない)だったとしても、そのことが他に波及しないからだと考えられる。つまり、他の分野(温泉以外の、ということです)にとっては、温泉がニセ科学だろうがどうだろうが、影響はないのである。だったらば、次に問題になるのが「被害の程度」になるのだろう。ここで初めて薬事法的な発想が入ってくる。つまり、薬の効能にしたって、第一義的に大事なのはプラシーボではない効力がちゃんとあるか、副作用はないか、ということであって、その科学的言説ではない(それは無論大事ではあるけれども)。波動が云々などと言い出さない限り、「その薬については」科学的にどうこうという議論になるのであり、それが他の事象には影響を及ぼすことはない。
まとめると、
(1) (陽に主張していなくても)その主張が既存の確立した言説を否定することになっていないかどうか
(2) その主張が虚偽であった場合、実社会にどれだけの影響を及ぼすか
という異なる二つの論点から分析する必要がある、ということなのだろう。勿論、この二つの論点は完全に独立というわけではないだろうけれども。
(1)に引っかかり、かつ科学を装っていると受け止められる可能性があるものを「ニセ科学」と呼ぶ場合が多いのだろう。オカルトなどは(1)には引っかかるが科学を装っていないもの、となるだろうか。もっとも「科学を超える」などの言説は、科学を装っていないように見えながら、実は将来科学が発展すれば科学的にわかることだと暗に主張しているようものだから、科学を装っていないとは言い切れない部分もあり、ややこしい。
若干ケーススタディめいたことをすれば、宇宙人の乗り物としてのUFOの飛来などは(1)には引っかかり、科学めいた言説をふりまわすので「ニセ科学」として科学者からは明確に否定されるけれども、(2)の点からは特に被害ということもないので社会的な批判にさらされることもない(ただし、例えば催眠術で虚偽の記憶を植えつけられるようなことが拡がれば、話はまた変わるだろう)。江原や細木も信奉者(の一部)の受け止めとは関係なく(1)に引っかかり、しかし科学を装っているわけではないのでオカルト的であり、さらに(2)の点も懸念され(これは先のエントリで取り上げた小池靖氏の本でも触れられている)、批判が出始めている。
いずれ取り上げたいと思うが、ニセ科学は自然科学にとどまらず、人文・社会科学でも当然起こりうる。「南京大虐殺はなかった」などは、ホロコースト否定論との絡みで(それだけではないけれども)追究してみたいテーマである。これは歴史学を装いつつ確立した歴史学の成果に反し(否定し)、かつ社会的な被害が予想される。ただしこの場合の「被害」とは、日本社会の行く末が、ということである。
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今後はこのような感じで進めていこうと思っています。
第一義的な目的は自分の思考の整理、です。