批判されるべきものは何か | ほたるいかの書きつけ

批判されるべきものは何か

「スピリチュアル」に感化された人々の発言で気になるのが、例えば江原なら江原の発言の、耳当たりの良い部分だけ切り出し、発言全体が意味するものを考えようとしないところである。「言ってることが正しいかどうかはわからないけど、良いことを言ってると思う」というような捉え方である。こういうことが、気になる人には気になり、その一方でまったく気にならずに「素直に」江原を好きになれる人々がいる(江原に限らないが)。なぜだろう?

同様なことが、ひところ問題になった(そして今でもなり続けている)「水からの伝言」(以下「水伝」)にも言える(概略はこちら(大阪大学・菊池誠氏) 、より詳細に興味のある方はこちら(学習院大学・田崎晴明氏) )。ありがとう、などの「良い言葉」をかけると、水は綺麗な結晶を作り、ばかやろう、などの「悪い言葉」をかけると、水は汚い結晶を作る、あるいは結晶自体を作らない、というもので、「だから良い言葉を使いましょう」という結論を導くのに使われている。学校現場でも、道徳の授業などで教材として使われる場合もあると聞く。科学的には無論そんなことはあり得ない。水の結晶(つまり雪・霜)の形状については、温度と過飽和度で決まるということが中谷宇吉郎らの先駆的な研究により示されている(湯川・朝永に匹敵する、日本の物理学が誇る成果であると思う)。信奉者の多くは、どうも「水伝」の結論に魅かれ、前提となる「実験」を無批判に信じているように見える。「それは間違っていますよ」と指摘しても、「そうは言ってもいい話だから…」のようにかわされる場合も多いようである。これも自然科学に携わるものからすれば、こんな間違ったことを学校で教えられては困る、となるのだが、その苛立ちが信奉者にはなかなか伝わらない(もちろん、「本当のことを知ってショック」という人も大勢いるが)。このすれ違いはなんなのか?

・「ニセ科学」として批判されるものの特徴

ニセ科学をどう定義するか、という議論が一部で始まっている(ここ とかここ とかここ など。エントリを指定せずすいません…)。「定義」という言葉の使い方も色々あるので、ここでは「どう特徴づけるか」という意味で捉える。批判されているものは、要するに既に確立した言説を陰に陽に否定するものであろう。例えば「水伝」の場合、既に確立した中谷らの結果を否定することになっている。水伝を推進している人々はあまり考えてないのかもしれないが、ちょっと考えれば、どうやっても中谷の結果と水伝は相容れない(温度と過飽和度で結晶形が決まるという中谷ダイアグラムは、偶然の産物である、と言っているのに等しいのだから)。科学の専門家はこの論理が見えてしまうので、敏感に反応する。そんなものが学校現場で教えられちゃかなわん、ということになる。

無論専門家でなくとも、少し考えれば(考えなくても)水伝のおかしさはわかる。良く言われるように、水が言葉に反応するわけがないし、仮にそうだったとしても、だったら見かけの形、つまり外見で物事を判断せよ、という道徳を受け入れろと言うに等しいわけで、それはやはり現代において受け入れるわけには行かないものである。これらも「常識」に反しているので、専門家でなくとも、「水伝」が主張することを他に当てはめるとどうなるか、という想像力がほんの少しあれば、そのおかしさに気づくはずである。

・温泉とニセ科学

たしか以前 apj さんのところで「温泉はニセ科学か?」という議論があったと思う(すみません興味ある方は探してください)。温泉について問題にならないのは、結局、温泉の「効能」などが仮に無意味(特段の効能がない)だったとしても、そのことが他に波及しないからだと考えられる。つまり、他の分野(温泉以外の、ということです)にとっては、温泉がニセ科学だろうがどうだろうが、影響はないのである。だったらば、次に問題になるのが「被害の程度」になるのだろう。ここで初めて薬事法的な発想が入ってくる。つまり、薬の効能にしたって、第一義的に大事なのはプラシーボではない効力がちゃんとあるか、副作用はないか、ということであって、その科学的言説ではない(それは無論大事ではあるけれども)。波動が云々などと言い出さない限り、「その薬については」科学的にどうこうという議論になるのであり、それが他の事象には影響を及ぼすことはない。

まとめると、
(1) (陽に主張していなくても)その主張が既存の確立した言説を否定することになっていないかどうか
(2) その主張が虚偽であった場合、実社会にどれだけの影響を及ぼすか
という異なる二つの論点から分析する必要がある、ということなのだろう。勿論、この二つの論点は完全に独立というわけではないだろうけれども。

(1)に引っかかり、かつ科学を装っていると受け止められる可能性があるものを「ニセ科学」と呼ぶ場合が多いのだろう。オカルトなどは(1)には引っかかるが科学を装っていないもの、となるだろうか。もっとも「科学を超える」などの言説は、科学を装っていないように見えながら、実は将来科学が発展すれば科学的にわかることだと暗に主張しているようものだから、科学を装っていないとは言い切れない部分もあり、ややこしい。

若干ケーススタディめいたことをすれば、宇宙人の乗り物としてのUFOの飛来などは(1)には引っかかり、科学めいた言説をふりまわすので「ニセ科学」として科学者からは明確に否定されるけれども、(2)の点からは特に被害ということもないので社会的な批判にさらされることもない(ただし、例えば催眠術で虚偽の記憶を植えつけられるようなことが拡がれば、話はまた変わるだろう)。江原や細木も信奉者(の一部)の受け止めとは関係なく(1)に引っかかり、しかし科学を装っているわけではないのでオカルト的であり、さらに(2)の点も懸念され(これは先のエントリで取り上げた小池靖氏の本でも触れられている)、批判が出始めている。

いずれ取り上げたいと思うが、ニセ科学は自然科学にとどまらず、人文・社会科学でも当然起こりうる。「南京大虐殺はなかった」などは、ホロコースト否定論との絡みで(それだけではないけれども)追究してみたいテーマである。これは歴史学を装いつつ確立した歴史学の成果に反し(否定し)、かつ社会的な被害が予想される。ただしこの場合の「被害」とは、日本社会の行く末が、ということである。

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今後はこのような感じで進めていこうと思っています。
第一義的な目的は自分の思考の整理、です。