薄っぺらな自然観と相対主義 | ほたるいかの書きつけ

薄っぺらな自然観と相対主義

見ると虚しくなるのでこの半年ほどは見ていなかったのですが…友人にそそのかされてつい見てしまった。

 「社会学玄論」 (merca論宅氏)

なんというか、この人にとっての「自然」って、ものすごく薄っぺらなんでしょうね、きっと。
 
「多神教、相対主義の寛容」 では(短いので全文引用)
  寛容は美徳である。
 ブログのイラストは、ローマ元老院の哲人である。今こそ、寛容を是とするローマ帝国の精神が必要だ。
 若いころに、一神教的教条主義と決別し、正しいものは、ある範囲内で複数あると考え出した。正しさが唯一であるという偏頗な思想が争いと傲慢を生むことを知った。科学という一神教が近代の怪物となり、文化破壊をしないか心配である。もともと科学という一神教的発想がなかったらニセ科学もないのである。多神教的相対主義の寛容の精神でもって、科学を認めるとともに、スピリチュアルも認めるのである。ともに対象となる世界=次元空間が違うだけである。争うことなかれ。すみ分けるべし。区別せよ。
 (科学/非科学)という区別に拘泥し、他の区別を受け入れることができなくなると、豊かな人生を送ることはできまい。ニセ科学批判システムのコードである(科学/非科学)、(装う/装わない)という区別は、いくらでも別の区別で相対化しうるのである。
と書きつつ、別のエントリ「科学観への疑問」 では、
自然に忠実にあって欲しい。自然界の法則は普遍かつ不変であるという信念をなくせば、自然科学者ではなくなるのである。
と述べている。この二つの文章、自然の奥深さを実感している者には同時に並べては書けないですよ。本人は意図してないんだろうけど、この二つを認めると、その論理的帰結は「自然科学は茶番」だと言うことにしかならないのではないか?いや、この人にとっては、自分も含めて、そもそもあらゆることが「茶番」なのだ。そして「みんなそのことに気付けよ」「茶番でいいじゃないか」と言いたいのであろう。

 この際だから、この人の最初のほうのエントリを眺めてみた。  「社会調査法批判」 から。
 社会調査法の技法(統計)に基づき、社会を測定し、様々な社会論が横行している。社会調査によるデータのない社会理論は観念論として退けられる傾向にある。
 しかし、よく考えて見たまえ。社会調査法によって社会を測定するという発想そのものが、おかしい。社会という対象があらかじめ実体として存在し、それを統計的手法によって測定しているということであるが、この考えは過っている。
 というのは、実際は逆だからである。実は、社会学者は、人々の意識や所得などを指標として調査し、項目間の相関関係を見い出し、事後的に社会という対象を構成するからである。社会は、社会調査を媒介として、事後構成されたもの、つくられたものなのである。社会という対象があり、それを測定し、認識するというのではないのである。社会調査法は社会を写し取るのではなく、逆に社会を構成するための方法なのである。
こういう視点は「留意すべき点」としては有効だと思う。しかし、一番最初のエントリ、「創発の妙理」 で、
  ラディカル・システム論

 100人の善人が集まっても、善なる社会が生まれるとは限らない。
 100人の悪人が集まっても、悪なる社会が生まれるとは限らない。
 100人の善人が集まっても、悪なる社会が生まれることがある。
 100人の悪人が集まっても、善なる社会が生まれることがある。
 
 歴史は語る。民主主義者の集まりが、全体主義を生み出したように・・・。
 創発という妙理が社会の起源である。第ニの自然としての社会空間を創発せよ!
って書いちゃってるんですよね。これはこれで、勿論重要な指摘ではあるわけですが。

…でも、先の論に従えば、「善なる社会」も「悪なる社会」も調査によって社会学者が社会調査によって構成したもの、ということになりません?

 自然に対してだけでなく、社会に対する見方も、随分と薄いような気がする。
 印象ですが、この人、「背伸びした学部生」という感じなんですが、どうでしょうか。私は背伸びするのは悪いことだとは思っていません。むしろ、自分の中で勝手に「これはどうせ自分にはわからない」と決め付けてしまい、理解しようとすることを放棄するほうが良くないと思っています。わからなくてもわからないなりに必死に本を読み、自分の中で咀嚼する努力を繰り返すうちに、たとえその一部ではあるかもしれないけれども、身についていくものです。
 もっとも、通常は「背伸びしている自分」にそのうち気付き、公の場で堂々と主張したりはできなくなるものですが。そこに気付けないまま大きくなってしまった人も中にはいますよね。論宅さんが、そういう人でなければいいなと思っています。自戒を込めて。