優先順位問題再考
某所からリンクのはられていた「日和見追随者と風のゆくへ」
(とそこのいくつかのエントリ)を見て思ったこと(なお私はこの方のブログは今回初めて拝見いたしました)。反論とかなんとか言うのではなく、そのエントリに特徴的に表れているニセ科学への批判に対する批判(嫌悪感というのが正確か)について、自分の頭を整理するために考えてみた。この類の批判は多いように見えるので。
(最後まで書いてからの追記:長い割にはまとまっていません。もう少し整理が必要ですね)
○×偽装問題に限らず、なにを批判するかは批判する人の問題意識によるのであって、直接的には社会的(なりなんなりの外部尺度)で選択するものではない、ということは、いわゆる「優先順位問題」としてあちこちで議論され、大体決着がついていると言ってよいだろう。マイナスイオンに問題を感じる人はマイナスイオンを批判すればよいのだし、血液型性格判断に問題を感じる人は血液型性格判断を批判すればよい。当然、雇用の問題、税の問題、社会保障の問題、憲法の問題、それぞれについて問題意識を持つ人が論じればいい話である。普通の人にとっては。
それが当てはまらない場合があり、おそらく二通りに分類される。一つは、そもそも社会における重要な問題について論じるという、ある種トピックの取捨選択についてメタな問題意識のある場合である。典型的にはジャーナリズムであり、また社会の様々な仕組みを決定する政治家である。彼らは「何が重要か」という問題意識で動いているのだから、重要であるとある程度コンセンサスのある問題に斬り込んでいくだろうし、またそうでないと困る(「困る」と思われているのも社会的なコンセンサスだろう)。この場合、「その問題を取り上げておいて、なぜこの問題を取り上げないのだ」という批判は重要である。メディアが芸能人同士のどうでもいい喧嘩やスキャンダルばかり報道する裏で国民生活や日本の将来に重大な影響を及ぼす重要法案が通ってしまうようなことはいくらでもあるのであり、それらに対する批判は重要であろう。
もう一つは、職責から来る倫理的な動機である。社会的に重要で(最重要である必要はない)、かつ彼らの専門分野に密接に関わる問題がある場合、(それがダイレクトに選挙に関わるのではない限り)その分野の専門家集団として発言する義務があると思う。個々人としてではなく、その業界として。例えばニセ科学問題はその典型であるが、自分の専門分野にかかわる領域で虚偽の言明がなされ、それが社会的にもなんらかの問題を引き起こすことが多少なりとも予想される場合、科学者としてはなんらかの行動(発言を含む)をするべきである(べき、と私は考える)。勿論、全員がする必要はない。しかし、社会に対するコミュニティの責任として、なんらかのアクションはあるべきだ(学会レベルで、とかいうのではなく、そういう行動をする人を大なり小なり支える-少なくとも後から撃つようなことはしない)。どういう形で行われるかはケースバイケースだし、関わり方も一人ひとりが考えればいいことだが、コミュニティに対する要請として、倫理的なレベルで応えなければならないものだと思っている。
ニセ科学問題についてもう少し述べると、科学者にとって、自分の専門分野について虚偽の言明がなされている場合、その分野にいる(一部の)人がなんらかの行動をするのは当然だろう。それが社会的にどれだけ重要かは別問題だ。なぜなら、虚偽がはびこるのはその分野にとって大問題だからだ。そして、それはその分野の不利益であるのみならず、その分野の成果を社会に還元する(俗的な意味で役に立つ、ということだけではなくて、文化のレベルで、なども含めて)ことに重大な問題を引き起こしかねず、社会的な損失にもなるからである。
前置きが長くなった。
例えば件のブログで言及されているホメオパシーについて考えてみよう。ホメオパシーのどこがいけないか、何が間違っているか、については一つの点だけではなく、色々な切り口から見ることが出来る。例えば医療問題という側面から見ることが出来る。薬効がないのにプラシーボであると思い込むということがどういう問題を引き起こすか。軽い風邪ならば副作用もなく静かにしていればほっといても治るのであるから問題は生じないだろうが(金銭的な問題は別として)、指摘される重大な問題は、本当に医者にいかなければならない重大な病気にもかかわらず、ホメオパシーに頼り、悪化させてしまうということだろう。これは科学の問題というよりも医療の問題であり、それこそ偽装の問題と言ってもよい。薬事法的な観点からの見方もこれに近いだろう。
一方、別の見方もできる。たとえば、科学の作法から見て、ホメオパシーを支える人々の主張のどこが間違っているかを指摘すること。あるいは現代的な文脈の中では「波動」や「量子力学」による説明が加えられることがあるが、その物理学的な説明の間違いを指摘すること。これらは、この社会においてまっさきに考えるべき重要なトピックであるとは限らない。しかし、その分野の専門家にとっては(そして多少なりとも論理的に突き詰めて考えられる人にとっては)明確な間違いを含んでいる。それを指摘することは、専門家としての倫理的な責務であろう。少なくとも、仮に専門のコミュニティ内部でわざわざ足を引っ張るようなことがあれば、科学者の社会的責任をまっとうしないものとして批判されるべきものであるとさえ私は思う。
つまり、科学者にとっては、それが批判されることが社会的に焦眉の急となる課題であるかどうかとは無関係に(論理的には。後述するように、個々人の動機としては関連しているだろう)、「何を批判するか」が選択される、ということだ。だから、専門家が自分の専門に関わる虚偽の言明に対して批判し注意を促すことに対し、「もっと重要なことがあるのになぜやらないんだ」と批判するのは間違っている。
では、さらに論をすすめて、同じ分野で似たような虚偽の言説が複数挙がったとしよう。たとえばA社とB社が似たような虚偽の宣伝文句を掲げていたとしよう。そこへ専門家が例えばA社の言説について批判を加えたとしよう。それについてはどう考えるべきか?無論、特定の言説への批判を通じてより一般的な対象に対する注意を喚起するという効果があり、そのこと自体が責められるのは間違っている。重要なのは、専門家がケーススタディをきっちりやってくれるかどうかであり、その後は警察なりジャーナリストなりの役目になるはずだ。だから、「なんでA社ばっかり批判するんだ」という批判は的外れだし、「A社は不運だ」というのも間違っている。
次に、専門家以外の人々による批判について考えてみる。これは自分の専門外について批判する場合の科学者等を含むだろう。
これはもう冒頭に述べたように、自分の問題意識、興味・関心に基づき批判すればよい。むしろ、気がついたものから順にやっていけばよいのだ。重要なのは、自分の言説に責任を持つ、という一点だけであり、何を取り上げるかまで他人にとやかく言われる筋合いはない。無論、責任を持つ、ということは、言った内容について批判される可能性がある、ということであり、公の場で自分の意見を開陳する以上は覚悟しなければいけないことである。
最後に、では、専門家が自分の専門に基づき批判をしつつ、その批判の射程が専門を超える場合を考えてみる。「水伝」がいい例だ。物理学・化学の専門家として、水の結晶が人間が与えた言葉によって変化するなどあり得ないし、そんなものを教育現場に持ち込んで嘘を教えては困る、というのは専門に基づいた批判となる。しかし、「水伝」の場合、その本質的な問題は自然科学レベルの虚偽というよりも、道徳というものをどう捉えるかというところにあるのは、ある程度考えた人にとっては一致するところだろう。「水伝」のように、専門を超えた部分で明らかにおかしいものが含まれている場合、しかもそれが社会生活を営む人間として看過できない問題である場合、一社会人として当然批判するべきものだろう。単に、批判のかたちが「物理的に間違っている上に道徳的にも間違っている」となるのか、「物理的な部分はともかく道徳的には間違っている」となるのかの違いであり、一社会人として、問題だと思うものを批判するという点では変わらない。そして、道徳的に問題のあるもののうちなぜ水伝を選んだか、と言えば、それは自然科学レベルで自分の専門あるいは自分の問題意識に関わる言説があり、その言説を批判する過程で、「その言説の」より本質的な部分に迫っていった結果である、ということになろう。ただし、本質とおぼしき部分の深い理解が専門的な知識を要し、ただちには結論を出せない場合、当然その一歩手前で踏みとどまり、問題を提起するか表層の批判にとどまることになるのだろう。
まとめ。
・批判対象の選定(明確に分けられるものではなく、またがる場合もありうる)
-個々人の専門分野に関するもの→職業的倫理、社会的責任
-ジャーナリスト、政治家、民主社会の構成員としての社会人、等→社会的重要性
-専門分野と直接には関わらないもの→個々人の問題意識、興味・関心
・批判の射程
-批判対象そのものが持つ論理構造(その問題の本質の所在)
-ただし、本質がどこにあるかの認識と、その人がどの部分を批判するかは個々人の問題意識による
***
えー、まとまりきりませんな。
なぜまとまらないかというと、人間というものは、多様な側面を持っている(一人の人間が、専門家であり、一般人であり、社会の構成員であり、…)からなのだと思います。そのどの側面からの批判なのか、というのを踏まえないと、批判に対する不毛な批判にしかならないと思うのです。
いづれにしても、もう少し深めて整理する必要がありそうです。自分にとって。
(最後まで書いてからの追記:長い割にはまとまっていません。もう少し整理が必要ですね)
○×偽装問題に限らず、なにを批判するかは批判する人の問題意識によるのであって、直接的には社会的(なりなんなりの外部尺度)で選択するものではない、ということは、いわゆる「優先順位問題」としてあちこちで議論され、大体決着がついていると言ってよいだろう。マイナスイオンに問題を感じる人はマイナスイオンを批判すればよいのだし、血液型性格判断に問題を感じる人は血液型性格判断を批判すればよい。当然、雇用の問題、税の問題、社会保障の問題、憲法の問題、それぞれについて問題意識を持つ人が論じればいい話である。普通の人にとっては。
それが当てはまらない場合があり、おそらく二通りに分類される。一つは、そもそも社会における重要な問題について論じるという、ある種トピックの取捨選択についてメタな問題意識のある場合である。典型的にはジャーナリズムであり、また社会の様々な仕組みを決定する政治家である。彼らは「何が重要か」という問題意識で動いているのだから、重要であるとある程度コンセンサスのある問題に斬り込んでいくだろうし、またそうでないと困る(「困る」と思われているのも社会的なコンセンサスだろう)。この場合、「その問題を取り上げておいて、なぜこの問題を取り上げないのだ」という批判は重要である。メディアが芸能人同士のどうでもいい喧嘩やスキャンダルばかり報道する裏で国民生活や日本の将来に重大な影響を及ぼす重要法案が通ってしまうようなことはいくらでもあるのであり、それらに対する批判は重要であろう。
もう一つは、職責から来る倫理的な動機である。社会的に重要で(最重要である必要はない)、かつ彼らの専門分野に密接に関わる問題がある場合、(それがダイレクトに選挙に関わるのではない限り)その分野の専門家集団として発言する義務があると思う。個々人としてではなく、その業界として。例えばニセ科学問題はその典型であるが、自分の専門分野にかかわる領域で虚偽の言明がなされ、それが社会的にもなんらかの問題を引き起こすことが多少なりとも予想される場合、科学者としてはなんらかの行動(発言を含む)をするべきである(べき、と私は考える)。勿論、全員がする必要はない。しかし、社会に対するコミュニティの責任として、なんらかのアクションはあるべきだ(学会レベルで、とかいうのではなく、そういう行動をする人を大なり小なり支える-少なくとも後から撃つようなことはしない)。どういう形で行われるかはケースバイケースだし、関わり方も一人ひとりが考えればいいことだが、コミュニティに対する要請として、倫理的なレベルで応えなければならないものだと思っている。
ニセ科学問題についてもう少し述べると、科学者にとって、自分の専門分野について虚偽の言明がなされている場合、その分野にいる(一部の)人がなんらかの行動をするのは当然だろう。それが社会的にどれだけ重要かは別問題だ。なぜなら、虚偽がはびこるのはその分野にとって大問題だからだ。そして、それはその分野の不利益であるのみならず、その分野の成果を社会に還元する(俗的な意味で役に立つ、ということだけではなくて、文化のレベルで、なども含めて)ことに重大な問題を引き起こしかねず、社会的な損失にもなるからである。
前置きが長くなった。
例えば件のブログで言及されているホメオパシーについて考えてみよう。ホメオパシーのどこがいけないか、何が間違っているか、については一つの点だけではなく、色々な切り口から見ることが出来る。例えば医療問題という側面から見ることが出来る。薬効がないのにプラシーボであると思い込むということがどういう問題を引き起こすか。軽い風邪ならば副作用もなく静かにしていればほっといても治るのであるから問題は生じないだろうが(金銭的な問題は別として)、指摘される重大な問題は、本当に医者にいかなければならない重大な病気にもかかわらず、ホメオパシーに頼り、悪化させてしまうということだろう。これは科学の問題というよりも医療の問題であり、それこそ偽装の問題と言ってもよい。薬事法的な観点からの見方もこれに近いだろう。
一方、別の見方もできる。たとえば、科学の作法から見て、ホメオパシーを支える人々の主張のどこが間違っているかを指摘すること。あるいは現代的な文脈の中では「波動」や「量子力学」による説明が加えられることがあるが、その物理学的な説明の間違いを指摘すること。これらは、この社会においてまっさきに考えるべき重要なトピックであるとは限らない。しかし、その分野の専門家にとっては(そして多少なりとも論理的に突き詰めて考えられる人にとっては)明確な間違いを含んでいる。それを指摘することは、専門家としての倫理的な責務であろう。少なくとも、仮に専門のコミュニティ内部でわざわざ足を引っ張るようなことがあれば、科学者の社会的責任をまっとうしないものとして批判されるべきものであるとさえ私は思う。
つまり、科学者にとっては、それが批判されることが社会的に焦眉の急となる課題であるかどうかとは無関係に(論理的には。後述するように、個々人の動機としては関連しているだろう)、「何を批判するか」が選択される、ということだ。だから、専門家が自分の専門に関わる虚偽の言明に対して批判し注意を促すことに対し、「もっと重要なことがあるのになぜやらないんだ」と批判するのは間違っている。
では、さらに論をすすめて、同じ分野で似たような虚偽の言説が複数挙がったとしよう。たとえばA社とB社が似たような虚偽の宣伝文句を掲げていたとしよう。そこへ専門家が例えばA社の言説について批判を加えたとしよう。それについてはどう考えるべきか?無論、特定の言説への批判を通じてより一般的な対象に対する注意を喚起するという効果があり、そのこと自体が責められるのは間違っている。重要なのは、専門家がケーススタディをきっちりやってくれるかどうかであり、その後は警察なりジャーナリストなりの役目になるはずだ。だから、「なんでA社ばっかり批判するんだ」という批判は的外れだし、「A社は不運だ」というのも間違っている。
次に、専門家以外の人々による批判について考えてみる。これは自分の専門外について批判する場合の科学者等を含むだろう。
これはもう冒頭に述べたように、自分の問題意識、興味・関心に基づき批判すればよい。むしろ、気がついたものから順にやっていけばよいのだ。重要なのは、自分の言説に責任を持つ、という一点だけであり、何を取り上げるかまで他人にとやかく言われる筋合いはない。無論、責任を持つ、ということは、言った内容について批判される可能性がある、ということであり、公の場で自分の意見を開陳する以上は覚悟しなければいけないことである。
最後に、では、専門家が自分の専門に基づき批判をしつつ、その批判の射程が専門を超える場合を考えてみる。「水伝」がいい例だ。物理学・化学の専門家として、水の結晶が人間が与えた言葉によって変化するなどあり得ないし、そんなものを教育現場に持ち込んで嘘を教えては困る、というのは専門に基づいた批判となる。しかし、「水伝」の場合、その本質的な問題は自然科学レベルの虚偽というよりも、道徳というものをどう捉えるかというところにあるのは、ある程度考えた人にとっては一致するところだろう。「水伝」のように、専門を超えた部分で明らかにおかしいものが含まれている場合、しかもそれが社会生活を営む人間として看過できない問題である場合、一社会人として当然批判するべきものだろう。単に、批判のかたちが「物理的に間違っている上に道徳的にも間違っている」となるのか、「物理的な部分はともかく道徳的には間違っている」となるのかの違いであり、一社会人として、問題だと思うものを批判するという点では変わらない。そして、道徳的に問題のあるもののうちなぜ水伝を選んだか、と言えば、それは自然科学レベルで自分の専門あるいは自分の問題意識に関わる言説があり、その言説を批判する過程で、「その言説の」より本質的な部分に迫っていった結果である、ということになろう。ただし、本質とおぼしき部分の深い理解が専門的な知識を要し、ただちには結論を出せない場合、当然その一歩手前で踏みとどまり、問題を提起するか表層の批判にとどまることになるのだろう。
まとめ。
・批判対象の選定(明確に分けられるものではなく、またがる場合もありうる)
-個々人の専門分野に関するもの→職業的倫理、社会的責任
-ジャーナリスト、政治家、民主社会の構成員としての社会人、等→社会的重要性
-専門分野と直接には関わらないもの→個々人の問題意識、興味・関心
・批判の射程
-批判対象そのものが持つ論理構造(その問題の本質の所在)
-ただし、本質がどこにあるかの認識と、その人がどの部分を批判するかは個々人の問題意識による
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えー、まとまりきりませんな。
なぜまとまらないかというと、人間というものは、多様な側面を持っている(一人の人間が、専門家であり、一般人であり、社会の構成員であり、…)からなのだと思います。そのどの側面からの批判なのか、というのを踏まえないと、批判に対する不毛な批判にしかならないと思うのです。
いづれにしても、もう少し深めて整理する必要がありそうです。自分にとって。