ほたるいかの書きつけ -19ページ目

『Can Delight』(My Mine)

 20年来探している曲がある。イタリアの(ボーカルだけたしかイギリス人)、My Mine というバンドの、"Can Delight"という曲。80年代後期に一瞬登場した。年に一度くらい、思い出したように検索しては、やっぱないかと悲しい思いをするのだけど、さっきなにを思ったかググってみたら、なんとYouTubeにあるではないか。
 ということで、磔、じゃなくて貼り付け。

 時代的には、CDに切り替わる直前で、そのせいかCD化はされていない模様。ヤフオクで高額で取引されているようなのだが…。CD化してくれないかなあ。

 この時代、なんというかみんな前向きだったよねえ。しかも、うわついてない、地に足ついた前向きさ。80年代も終わりになると、「おいおい、足元見ようよ」となって、バブル崩壊となっていくのだけど。たまにこういうの聴くと、「自分もガンバロ」って思いますね。
 歌詞はこちら

前提と論理

 Jさんのこのエントリ の「論理的思考をして間違わないためには、判断材料が完備されている必要が有ります。」というのは実にその通りだと思うのだけれども、それに関連して(?)常々思っていることを少し(ニセ科学の話とは関係ありません)。

 日本の大新聞ってまあそう大した違いはないのだけれども、トピックによっては多少結論が違うことがある。それが各新聞のカラーになっているわけで、『朝日』がアカヒとか『産経』が自民党の機関紙とか揶揄される元にもなっているわけだ。
 で、昔から思っていたのは、『朝日』は割とマトモな前提から出発しているのに、論理らしい論理がなく情緒的に結論を持っていく印象が強いのに対し、『読売』は展開は結構論理的なんだけど、前提が間違ってるので間違った結論になる印象が強い(あくまでも私の印象に過ぎませんが)。だからまあ『朝日』が「情緒左翼」なんて言われるのも理解はできるんだけど(皇室激烈ラブの『朝日』が左翼だなんておかしな話ですけどね)。

 で、以下ちょっと思いついたネタ。

 (間違った前提)×(論理的な展開)=(間違った結論) … 読売
 (正しい前提)×(情緒的な展開)=(正しかったり間違ったりした結論) … 朝日
 (正しかったり間違ったりした前提)×(論理的だったり情緒的だったりする展開)
                     =(正しかったり間違ったりした結論) … 毎日
 (偏った前提)×(論理的な展開)=(間違った結論) … 日経
 (偏って間違った前提)×(情緒的な展開)=産経クォリティ

 何をもって、誰にとって正しい/間違っているのかはお考えください。
 まあこういうステレオタイプな見方は良くないのですが、ネタですので、あまり深く受け取らないように。(^^;;
 こんなアホなネタ書くヒマがあったら最近色々動きのある江本を追っかけないといかんのですが…あーいかんいかん。

ぽちっとな

 うー、乗せられてしまった…。
 「藤子・F・不二雄大全集 」第一期全33巻。ぽちってしまった…。
 後悔はしていない。するもんか。って単行本未収録作品が載ってたりするので、これは「買い」だろう。
 実際には復刊ドットコム で買ったのだけど。

 ぽちった後に、『朝日 』で記事が出ていた。この記事によると、第二期で完結するらしい。よかった。第五期ぐらいまであったらどうしようと不安だったのだ。

 まあ、これで1年は楽しめる、ということで。時々報告するかも。




『オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険』(鈴木光太郎)

 どこかで聞いたことのある、心理学で出てくるお話の本当を追求する本。面白かった。トピックは多岐に亘っており、表題はその冒頭のお話。「あの」アマラとカマラの話である。
 誤解のないよう最初に述べておくと、この本で取り上げる内容は、すべて「ウソ」だったと言うような単純なものではない。もちろん端からウソだった(にも関わらず未だに真実であるかのような扱いをされているものも含まれているが)ものもあるが、一部真実が含まれ、それが誇張されているもの、あるいは省みられることがほとんどないにも関わらず、実は本当のようである、というものもある。そして、それは心理学というものが、(大部分の)自然科学と違って、追試ができない場合が多いことから来る宿命を表すものでもあろう。

 さて、目次を引っ張り出すと、以下のようになる。
  1. オオカミ少女はいなかった-アマラとカマラの物語
  2. まぼろしのサブリミナル-マスメディアが作り出した神話
  3. 3色の虹?-言語・文化相対仮説をめぐる問題
  4. バートのデータ捏造事件-そしてふたごをめぐるミステリー
  5. なぜ母親は赤ちゃんを左胸で抱くか-ソークの説をめぐる問題
  6. 実験者が結果を作り出す?-クレヴァー・ハンスとニム・チンプスキー
  7. プラナリアの学習実験-記憶物質とマコーネルをめぐる事件
  8. ワトソンとアルバート坊や-恐怖条件づけとワトソンの育児書
  9. 心理学の歴史は短いか-心理学のウサン臭さを消すために
これだけでも興味をそそられるだろう。とは言え、恥ずかしながら告白すると、私が知っているトピックは半分もなかった。ニセ科学批判界隈で有名なのは、6 のクレヴァー・ハンス(賢いハンス)あたりだろうか。

 ここから、少しだけ中身を紹介する。
 表題にもなっているアマラとカマラだが、これは有名だろう。私も学生時代に一般教養の心理学で聞いたものだ。巷間伝わっている話は、インドでオオカミに育てられた子どもたちが発見され、牧師に引き取られてアマラとカマラと名付けられ、小さいアマラはすぐ亡くなったものの、カマラは17歳まで生きた、しかしなかなか二本足で立って歩いたり、「人間らしく」食事をすることができなかった-というものだろう。ここから、人間が成長するにあたって教育の果たす役割がいかに大事か、とか、タブラ・ラサ(白紙)的人間観を補強するものとして話が展開されていく。
 しかし、よくよく調べてみると、どうもそうではないらしいのだ。半世紀も前から、実際のどころどうだったのか、調査が行われていたらしい。この本でも、その足跡が紹介される。さらに、原書に掲載されている写真が何枚も出され、伝えられる話の中身と写真が示すものの違いが浮き彫りにされる。
 また、『狼に育てられた子』(ゲゼル)という邦題も脚色が入っている。現代は『WOLF CHILD AND HUMAN CHILD』で、狼に「育てられた」という表現にはなっていない(もっとも、アメリカでも、絵本として売られているものの表紙は、狼の巣穴に女子2人が狼と一緒にいる絵になっているので、日本でだけ誤解されているというわけではもちろんない)。
 詳細は読んでいただくとして、専門家の推測するところによると、アマラとカマラはおそらく重い自閉症児で、それがために遺棄され、たまたま通りがかった村人に救われ牧師のところに連れてこられたのではないか、ということであるが、もちろんそれも今となっては不明である。ただ、ひと昔前に我々が習ったようなストーリーでないことは確かなようだ。

 個人的には3のトピックも面白かった。以前、「『虹は七色か六色か』板倉聖宣 」というエントリを書いたことがあるが、我々は他民族のことについてはついつい文化相対主義的に理解してしまうことがある。しかし、我々自身も物質であり、ヒトという生き物であるからして、「文化」に安易に還元できないものも多々あるのだ。
 で、ここでは色を表す語彙が民族によって違うことから、民族によって色の見え方が違うという説が検証される。結論を先に言うと、そんなことはない、だ。人間だけではない。様々な色を見せて、それを分類させる作業を行わせると、人間はおろか、チンパンジーでも大体同じように色をカテゴライズするらしい。つまり、見え方が同じであっても、それをどう表現するかの段階で文化が関わってくるのであり、表現されたものでもってどう見えるかを逆に辿るとおかしな結論になる、ということである。
 同様な実験が、錯視についても行われたそうであるが、どう実験されたか、錯視を文章で表すのは私の手に余るので省略する。が、とても面白かったことだけは言っておきたい。

 最終章で、筆者は次のように述べる(太字強調は引用者による)。
 心理学には、この本で紹介した以外にも神話がいくつもある。たとえば、モーツァルトを聞くと頭の回転がよくなる、ロールシャハテストでその人の性格が診断できる、男らしさ・女らしさは生まれついてのものではなく、文化によって決まる、などなど。もとはいい加減な(場合によっては誤った)話がどのように生じ、どのように神話の位置を占めるようになり、どのように受け継がれてゆくのか。これを説明する役目を担っているのも、これまた心理学である。
(中略)
医者の不養生のようなもので、迷信や誤信についてもっともよくわかっているはずの心理学者が、どうやら迷信や誤信にもっとも弱いようだ。
そして、
 どうすれば、こうした神話の呪縛から逃れ、ウサン臭さを払拭できるだろうか。答えはひとつ。論理的にものを考える以外にない。心理学が科学として認めてもらうには、とるべき道はそれしかない。そして原典にあたること。噂に頼らぬこと。疑うこと。そうすれば、心理学のなかの似非科学の部分ははるかに少なくできるに違いない。
もちろん心理学者だけがどんなに頑張っても実際にはダメだろう。というのは、世の中にはアヤシゲな「○○カウンセラー」のようなものが蔓延ってしまっているからだ。だから、心理学の専門家の方々にお願いしたいのは、アカデミズムの内側での相互批判に留まらず、心理学の形だけを利用して、ムチャクチャなことをやっている人々(それは単に江原のような連中だけでなく、場合によっては政府の一部まで矛先にせざるを得ないかもしれない)をきっちり批判してほしい、ということだ。プロの発言が、社会的に自浄作用を発揮するための根拠になる。
 このような本が出ること自体が心理学界への信頼を高める(ちなみにこの本は2008年9月の出版である)。活発な批判がなされることを期待する。

オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険/鈴木 光太郎
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『犬』(友川かずき)

 先日CDを借りに行った際に、ふと見かけたので思わず借りてしまったのが友川かずきの『ゴールデン☆ベスト』。やっぱりいいなあ、と思いつつ、でも最高傑作は、私の中では『犬 -秋田コンサートライブ』なのだな、どうしても。って聴いたことあるのはそれと『渋谷アピア・ドキュメントライブ』だけなのだけれど。そういうわけで、今回借りた『ゴールデン☆ベスト』は、初めて聴いたスタジオ盤、ということでもあるのだけれど、やっぱライブの方がいい。

 大学浪人時代、FMを良く聴いていた。予備校に行かなかったこともあって、一日家にこもっていたので、なおさら聴いていた。高校を卒業する頃は、完全にキッズ(笑)で、メタルばっかし聴いていたのだが、昼間のFMでフォークを流す帯番組があって、そこでフォークの世界もいいなあ、と思うようになったのであった。

 その一方、当時はローカルFM局があちこちに誕生していて、甲府のあたりにできた「FM富士」という局が、うちからはノイズ入りまくりだけど夜になると電波の状態が結構良くなって、よく聴いていた。なんと言っても、「ザ・ロック」だ。月金で毎晩9時から3時間弱、曜日変わりの担当でたっぷり音楽を聴かせてくれる番組で、そのDJが、月曜は和田誠、木曜は伊藤政則、金曜は大貫憲章というスゴいメンバーだったのだ(火曜水曜はどーでもいいので忘れた)。

 彼らのいいところは、まあ流行りものばっかりにならないのは当然として、フォークだとかGSだとか、昔の名曲も時々かけてくれたところだ。「五つの赤い風船」をかけてくれたのは伊藤政則。そして、確か大貫憲章の時だったと思うが、ある時、友川かずきの「生きてるって言ってみろ」がかかったのである。

 これはもう私の脳天を突きさすような衝撃(って陳腐だな)であった。こうなんというかザクザクと切り刻んでくる感じ。一刀両断、というのではなくて、ナタか手斧で肩のあたりからエイヤッと15cmほどザクッと切り込みを入れられるような。スパッとではなく、ザクッと。しかも全身に。

 当時、70年ごろのフォークのレコードがCDで復刻されるブームがあって(URCレコードとか)、『犬』もその一枚だったはず。もう凄かったね。あああ一体自分は何をやってるんだ、こんなことでいいのか?と思わざるを得ない迫力。

 『ゴールデン☆ベスト』のライナーノーツで小川真一氏が書いているように、「友川かずきの歌声を初めて出逢った瞬間、聞いてはいけないもの、見てはいけないものに出くわした気がしてしまった。それでも彼の声は、目をそむけるな、真っ正面を向けと迫ってくる。」まさにそんな感じであった。

 YouTubeを探したら、何曲かあったので貼ってみる。ついでにもう一曲、「死にぞこないの唄」も貼っておこう。

 …生きぞこないよりはいいもんな。

 ちなみにその時一緒に借りたのが、『アニメタルのベスト』とSLAYERの『Christ Illusion』。一体このヒトなんだろう、と店員さんは思ったかもしれんが、どれも魂が叫んでるんだよ!!






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