『オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険』(鈴木光太郎) | ほたるいかの書きつけ

『オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険』(鈴木光太郎)

 どこかで聞いたことのある、心理学で出てくるお話の本当を追求する本。面白かった。トピックは多岐に亘っており、表題はその冒頭のお話。「あの」アマラとカマラの話である。
 誤解のないよう最初に述べておくと、この本で取り上げる内容は、すべて「ウソ」だったと言うような単純なものではない。もちろん端からウソだった(にも関わらず未だに真実であるかのような扱いをされているものも含まれているが)ものもあるが、一部真実が含まれ、それが誇張されているもの、あるいは省みられることがほとんどないにも関わらず、実は本当のようである、というものもある。そして、それは心理学というものが、(大部分の)自然科学と違って、追試ができない場合が多いことから来る宿命を表すものでもあろう。

 さて、目次を引っ張り出すと、以下のようになる。
  1. オオカミ少女はいなかった-アマラとカマラの物語
  2. まぼろしのサブリミナル-マスメディアが作り出した神話
  3. 3色の虹?-言語・文化相対仮説をめぐる問題
  4. バートのデータ捏造事件-そしてふたごをめぐるミステリー
  5. なぜ母親は赤ちゃんを左胸で抱くか-ソークの説をめぐる問題
  6. 実験者が結果を作り出す?-クレヴァー・ハンスとニム・チンプスキー
  7. プラナリアの学習実験-記憶物質とマコーネルをめぐる事件
  8. ワトソンとアルバート坊や-恐怖条件づけとワトソンの育児書
  9. 心理学の歴史は短いか-心理学のウサン臭さを消すために
これだけでも興味をそそられるだろう。とは言え、恥ずかしながら告白すると、私が知っているトピックは半分もなかった。ニセ科学批判界隈で有名なのは、6 のクレヴァー・ハンス(賢いハンス)あたりだろうか。

 ここから、少しだけ中身を紹介する。
 表題にもなっているアマラとカマラだが、これは有名だろう。私も学生時代に一般教養の心理学で聞いたものだ。巷間伝わっている話は、インドでオオカミに育てられた子どもたちが発見され、牧師に引き取られてアマラとカマラと名付けられ、小さいアマラはすぐ亡くなったものの、カマラは17歳まで生きた、しかしなかなか二本足で立って歩いたり、「人間らしく」食事をすることができなかった-というものだろう。ここから、人間が成長するにあたって教育の果たす役割がいかに大事か、とか、タブラ・ラサ(白紙)的人間観を補強するものとして話が展開されていく。
 しかし、よくよく調べてみると、どうもそうではないらしいのだ。半世紀も前から、実際のどころどうだったのか、調査が行われていたらしい。この本でも、その足跡が紹介される。さらに、原書に掲載されている写真が何枚も出され、伝えられる話の中身と写真が示すものの違いが浮き彫りにされる。
 また、『狼に育てられた子』(ゲゼル)という邦題も脚色が入っている。現代は『WOLF CHILD AND HUMAN CHILD』で、狼に「育てられた」という表現にはなっていない(もっとも、アメリカでも、絵本として売られているものの表紙は、狼の巣穴に女子2人が狼と一緒にいる絵になっているので、日本でだけ誤解されているというわけではもちろんない)。
 詳細は読んでいただくとして、専門家の推測するところによると、アマラとカマラはおそらく重い自閉症児で、それがために遺棄され、たまたま通りがかった村人に救われ牧師のところに連れてこられたのではないか、ということであるが、もちろんそれも今となっては不明である。ただ、ひと昔前に我々が習ったようなストーリーでないことは確かなようだ。

 個人的には3のトピックも面白かった。以前、「『虹は七色か六色か』板倉聖宣 」というエントリを書いたことがあるが、我々は他民族のことについてはついつい文化相対主義的に理解してしまうことがある。しかし、我々自身も物質であり、ヒトという生き物であるからして、「文化」に安易に還元できないものも多々あるのだ。
 で、ここでは色を表す語彙が民族によって違うことから、民族によって色の見え方が違うという説が検証される。結論を先に言うと、そんなことはない、だ。人間だけではない。様々な色を見せて、それを分類させる作業を行わせると、人間はおろか、チンパンジーでも大体同じように色をカテゴライズするらしい。つまり、見え方が同じであっても、それをどう表現するかの段階で文化が関わってくるのであり、表現されたものでもってどう見えるかを逆に辿るとおかしな結論になる、ということである。
 同様な実験が、錯視についても行われたそうであるが、どう実験されたか、錯視を文章で表すのは私の手に余るので省略する。が、とても面白かったことだけは言っておきたい。

 最終章で、筆者は次のように述べる(太字強調は引用者による)。
 心理学には、この本で紹介した以外にも神話がいくつもある。たとえば、モーツァルトを聞くと頭の回転がよくなる、ロールシャハテストでその人の性格が診断できる、男らしさ・女らしさは生まれついてのものではなく、文化によって決まる、などなど。もとはいい加減な(場合によっては誤った)話がどのように生じ、どのように神話の位置を占めるようになり、どのように受け継がれてゆくのか。これを説明する役目を担っているのも、これまた心理学である。
(中略)
医者の不養生のようなもので、迷信や誤信についてもっともよくわかっているはずの心理学者が、どうやら迷信や誤信にもっとも弱いようだ。
そして、
 どうすれば、こうした神話の呪縛から逃れ、ウサン臭さを払拭できるだろうか。答えはひとつ。論理的にものを考える以外にない。心理学が科学として認めてもらうには、とるべき道はそれしかない。そして原典にあたること。噂に頼らぬこと。疑うこと。そうすれば、心理学のなかの似非科学の部分ははるかに少なくできるに違いない。
もちろん心理学者だけがどんなに頑張っても実際にはダメだろう。というのは、世の中にはアヤシゲな「○○カウンセラー」のようなものが蔓延ってしまっているからだ。だから、心理学の専門家の方々にお願いしたいのは、アカデミズムの内側での相互批判に留まらず、心理学の形だけを利用して、ムチャクチャなことをやっている人々(それは単に江原のような連中だけでなく、場合によっては政府の一部まで矛先にせざるを得ないかもしれない)をきっちり批判してほしい、ということだ。プロの発言が、社会的に自浄作用を発揮するための根拠になる。
 このような本が出ること自体が心理学界への信頼を高める(ちなみにこの本は2008年9月の出版である)。活発な批判がなされることを期待する。

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