遠い夏に想いを -229ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 暗い門の奥に鮮やかな緑の芝生が見えふ。正面に2本の塔を持った2階建ての校舎が視界に入った。
ヴィオさんの旅行ブログ-コーパス 14世紀中頃に庶民が庶民の為に創設したケンブリッジでも珍しいカレッジらしい。キリスト聖体ギルドと聖母マリアギルドというギルドが共同で創ったカレッジだけに、何か庶民的で女性的な優しさを持った美しい建物である。ご存知のように、ギルドとは同業たちが団結してつくる組合のようなものだ(もともとキリスト教が起源とされているが)。ヨーロッパの大学の起こりはカトリックの教育が主だったとはいえ、大学にカレッジを贈呈するのは大変に珍しい。ルネッサンス様式風のアーチ型の窓々には赤や白や紫やピン
クの可憐なペチュニアの花がブーケのように飾られていて、美しさに対する優しい心遣いが伝わってくるようだ。ここからは、かの有名なクリストファー・マーローがいる。シェイクスピアとは誰なのか、数人の候補者がいるが、その内の一人がマーローで、彼ががシェイクスピアだという他人説と、シェイクスピアはシェイクスピアだとする本人説があるほどに有名な詩人で劇作家だ。
ヴィオさんの旅行ブログ-ペチュニア  トランピントン通りへ出てさらに進むと、左手に古い教会がある。1320年に建てられたセント・ボトロフス教会である。幅2メートルほど、高さ3メートルほどのアーチ型の正面扉を持った石造りの小さな教会である。何気なしく通り過ごしてしまいそうな小さな建物だが、黒々とした木の扉が半分だけ開いていた。石段を一段降りて中へ入る。堂内は薄暗く、目を凝らして見ると作りは素朴で、丁度、お昼に立寄ったホウィトルスフォードの古いチャペルと同じくらいの大きさだろうか。ケンブリッジのカレッジで一番古い建物がピーターハウスで、その次に古いのがクレア・カレッジ、その次に建てられたのがこの教会だから、いかに古いかが想像できる。身廊と側廊は当時のままで、塔は15世紀に建てられたものらしい。薄暗い堂内はこれといった装飾もなく質素なつくりだ。
 半開きの扉を抜けて表へ出ると、西陽の強い陽射しに一瞬目が眩んだ。そのままペンブローク通りを渡り、トランピントン通りのペンブローク・カレッジに立寄った。ここにも小さな中庭があり、その緑はコーパス・クリスティの芝生より一段と鮮やかで、やっとイングランドの緑に逢えたな、という興奮とも安らぎともいえない感激が湧いて来た。


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 3人で一緒に写真を撮ってもらおうと周囲を見回しているが、誰も振り向いてくれない。近くにいた30代の夫婦の小柄な奥さんが見かねて、「撮ってあげましょう」といってくれた。余り訛のないきれいな英語だが、どこかオランダあたりから来た夫婦のようで、とても親切だった。
ヴィオさんの旅行ブログ-チャペル  中庭を一回りしてキングズ・カレッジのチャペルへ行く。チャペルとしては巨大である。この奥の主祭壇にはルーベンスの大きな「三賢人の礼拜図」がある。近年この大学に寄贈され、チャペルの宝物になった。堂内の売店で大学の案内書を捜す。いつもノッコが英、仏、伊、独語を欲しがるから、何処へ行っても数か国語のパンフレットを手に入れることになり、トランクが満杯になる。
 ここを出てキングズ橋を渡ってバックスへ出る。更にクレア橋を渡ってキンスズ・カレッジの中を抜けトランピントン通りへ出た。そのままトランピントン通りを南に進む。相変わらず暑い。疲れも出てきて喉も乾いた。
 喫茶店を2,3軒覗いてみたが、表通りの店は全て満員だ。トランピントン通りを看板を頼りに細い路地を左に曲がった。白と緑と黒でストライプに塗られた今風の店があり、小さな入口から地下室へ下りた。ウナギの寝床のような店でトランピントン通りの方向に伸びている。
 奥のテーブルに座り、飲物を注文し、周りを見回すと壁には戦時中の古い新聞が数枚貼ってある。古ぼけた新聞の写真には戦時中の英国の戦闘機や英陸軍の兵士の姿が写っている。店は新しい作りだから、何か古い物をという訳でもあるまいに。もしかして、店のオーナーは英国の退役軍人で英国魂を懐かしんでいるのだろうか。オレンジジュースで喉を潤す。何時まで憩んでいても、足の痛みや疲れがすっかりとれるわけでもないので、元気をだして出かけることにした。
 再びトランピントン通りへ出る。画廊などを覗いて道を歩くうちに、コーパス・クリスティ・カレッジの門の前に出た。


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 ケム川の西側に建つセント・ジョンズ・カレッジの校舎の前にでる。広大な広場の芝生は残念ながら一面褐色に変わっている。何という夏だろう。セント・ジョンズ橋からはケム川に架かる有名な「ため息の
橋」が見える。セント・ジョンズ・カレッジは16世紀初めの創設で、このカレッジには詩人のワーズワースがいたという。校舎の裏へ抜けてみた。

ヴィオさんの旅行ブログ-嘆きの橋  ケム川の流れがつづき、川のたもとに大きな柳の木が水面にとどかんばかりに、枝葉をたわわになびかせている。柳と川。日本の専売特許ではない。ウィロー・ツリー。イギリスでは結構昔から悲恋の詩歌に歌われている。また、籠や椅子等の材料として古くから使われ珍重されてきた。
 ケム川の流れは至極ゆったりとして、川上か川下かの判断がつかないほどである。水源からケンブリッジまで20キロほど、更に北のウォッシュ湾に注ぐまで65キロほど。川としては大きくないが、水量が豊かで、このゆったりとした流れは日本の川ではとうてい考えられない。

ヴィオさんの旅行ブログ-トリニティ  イギリスには丘陵地帯が多く地平線がゆったりと広がっているから、日本のように急流にならない。イギリスで一番高い山はスコットランドのベン・ネビス山で1,469メートルしかない。同じ島国でも、火山国の日本とは自然の様子がまるで違う。
 セント・ジョン通りへ出て、南に少し歩き、右に折れてトリニティ・カレッジへ入った。一瞬視界が開けた。広い中庭である。大学の中庭としては世界的にも類を見ないほど立派で美しいといわれているそうで、とにかく素晴らしい。天候異変で芝生の緑が失われているのが何とも残念である。どうゆう訳かボストンのハーバード大学のキャンパスを思出させる。それもそのはず、ケンブリッジ大学の出身者が1636年にボストン郊外のチャールズ川畔に大学を創設し、その地名もイギリスのケンブリッジに因んで付けられた。ニュー・イングランド風とはいえ、カレッジ校舎の上の小さな尖塔がなんとなくイメージ的に似ている。72年にボストンのケンブリッジを訪れたときの思い出がよみがえってくる。


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 こよなく日本を愛した理由は決して明かさない。彼が片思いをし続けた女子大生がいたことは確かだが。しかし、今のように簡単には事が運ばない時代だった。彼は真面目な青年で、日本や日本人を理解しようと必死につとめた。当時の大半の日本人には『変わった面白い外人』と映っただろうが、『不良外人』では決してなかった。
 さて話しを戻すと、11世紀にボローニアの現在のアルキジンナージオ宮に世界最初の大学があったから、ヨーロッパの大学(ユニバーシティー)の歴史は古い。
 ケンブリッジも、その昔、ローマ人がこのあたりに定住地を築いたのがケンブリッジの始まりであった。その後、11世紀になってウイリアム征服王がここに城を建てた。大学はイタリアで始まったが、その後フランスに広まった。12世紀の中ごろパリからオックスフォードへつたえられ、13世紀になってケンブリッジへも広まった。
ヴィオさんの旅行ブログ-数学の橋  ケンブリッジの最初のカレッジは1284年に設立されたピーターハウスであった。以来、ケンブリッジはどうゆう訳か自然科学の分野で卓越した実績を残すようになる。オックスフォードは人文科学の方面で名を上げることになる。ニュートンもダーウインもケンブリッジだし、現在では宇宙理論で有名なホーキングもここに住んでいる。ノーベル賞受賞者を一番多く出している大学でもある。ノーベル賞には自然科学部門が多いからオックスフォードには不利だ。文人でも名を成した人が多く、ミルトン、ワーズワース、バイロンもケンブリッジである。
 ケム川沿いにセント・ジョンズ・カレッジまで歩いてきた。一番奥に位置しているのでかなりの道程を歩いた。強い直射日光で疲れる。


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 再びシルバー通りでケム川を渡り、川沿いのバックスを歩く。川の向うにキングズ・カレッジのチャペルヴィオさんの旅行ブログ-キングズチャペル がその堂々とした姿を現した。この壮麗さとは対照的に手前のバックスでは牛がのんびり草を食べている。日本でもアメリカでも大学で牛を飼っているのは畜産学部の農場くらいで、こんな所に牛がいるのは普通ありえない。チャールスの説明によると、これには一つの歴史があって、公の場所を牧草地として近くの農家の家畜に解放すのが当たり前だったらしい。例えばイギリスにはグリーンと名がつく地名が多い。これも村の共有地で遊び場であったり牛の放牧地であったりしたのだ。
 ホルスタイン種の牛が5頭並んで草を食んでいる。頭を並べて横一直線である。しかも草を食べるときも、顔を上げるときにも、5頭の牛がシンクロしているみたいに同時である。偶然とはいえ奇妙な光景であった。
 チャールズが洒落をいう。
「ここでは牛まで世間離れしたケンブリッジの奇妙なインテリジェンスを働かせるんだよ」
 チャールズは庶民の出だし、大学は出ていない。昔はイギリスでは名家の出でも大学に進学せず、パブリック・スクールで終える人もいたという。大学に対する一般社会の見方が日本とは違う。第一、「パブリック」の意味が日本人が抱く概念と全く違う。「パブ」もパブリックである。パブリック・スクールは公立の学校ではない。パブリックとは一般に開放されている、開かれていることをいう。それに反して、イギリスの上流階級では格式ばった会員制のクラブが多い。
 チャールズは若くして軍隊に入り、彼の乗った船が日本に寄港した。それ以来彼は日本にとりつかれ、帰国後改めて日本へやって来た。日本の古い美術品に興味を抱き、人を介して東京の美術関係者の家に居候する。1956年頃だったろうか。この頃、本田君からチャールズを紹介され、藤井君とともに大学の親友3人でチャールズに英語を習った。その後、彼は白山にあった木造屋の2階に間借りし、白い米の飯を食べ、3時には銭湯に出かけ、金が有れば神田の古い一杯飲屋で日本酒を傾ける。どうゆう訳か、日本橋の高島屋の大衆食堂が気に入って、暇があれば昼食を食べに行ったらしい。日本語も達者になり、『変な外人』のはしりといえるイギリス人であった。


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