再びシルバー通りでケム川を渡り、川沿いのバックスを歩く。川の向うにキングズ・カレッジのチャペル
がその堂々とした姿を現した。この壮麗さとは対照的に手前のバックスでは牛がのんびり草を食べている。日本でもアメリカでも大学で牛を飼っているのは畜産学部の農場くらいで、こんな所に牛がいるのは普通ありえない。チャールスの説明によると、これには一つの歴史があって、公の場所を牧草地として近くの農家の家畜に解放すのが当たり前だったらしい。例えばイギリスにはグリーンと名がつく地名が多い。これも村の共有地で遊び場であったり牛の放牧地であったりしたのだ。
ホルスタイン種の牛が5頭並んで草を食んでいる。頭を並べて横一直線である。しかも草を食べるときも、顔を上げるときにも、5頭の牛がシンクロしているみたいに同時である。偶然とはいえ奇妙な光景であった。
チャールズが洒落をいう。
「ここでは牛まで世間離れしたケンブリッジの奇妙なインテリジェンスを働かせるんだよ」
チャールズは庶民の出だし、大学は出ていない。昔はイギリスでは名家の出でも大学に進学せず、パブリック・スクールで終える人もいたという。大学に対する一般社会の見方が日本とは違う。第一、「パブリック」の意味が日本人が抱く概念と全く違う。「パブ」もパブリックである。パブリック・スクールは公立の学校ではない。パブリックとは一般に開放されている、開かれていることをいう。それに反して、イギリスの上流階級では格式ばった会員制のクラブが多い。
チャールズは若くして軍隊に入り、彼の乗った船が日本に寄港した。それ以来彼は日本にとりつかれ、帰国後改めて日本へやって来た。日本の古い美術品に興味を抱き、人を介して東京の美術関係者の家に居候する。1956年頃だったろうか。この頃、本田君からチャールズを紹介され、藤井君とともに大学の親友3人でチャールズに英語を習った。その後、彼は白山にあった木造屋の2階に間借りし、白い米の飯を食べ、3時には銭湯に出かけ、金が有れば神田の古い一杯飲屋で日本酒を傾ける。どうゆう訳か、日本橋の高島屋の大衆食堂が気に入って、暇があれば昼食を食べに行ったらしい。日本語も達者になり、『変な外人』のはしりといえるイギリス人であった。
ミネソタの遠い日々
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