遠い夏に想いを -226ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-ミーラ  更に、奥のオリエント、東洋の展示コーナーを経て、2階の古代エジプト展示室へ階段を登った。さして歩かないのにものすごく疲れた。階段の踊場にベンチがある。偶然空いたので2人で腰掛けた。そのまま動くのが嫌になる。朝からこの調子では先が思いやられる。
 とにかく広い。博物館の開館は1759年で、ほぼ100年後の1852年に現在の建物が完成したという。44本のイオニア式の円柱を持つ古代ギリシャの神殿を思わせるこの威風堂々とした建物の内部は迷路のようで、非公開部分も含めて、全部を見て回るとゴルフ場で18ホール回るのと同じくらい歩くことになるという。途中で迷子にでもなれば、ヘボゴルファーがボールを捜して林や谷底を歩くのと同じくらいシンドイことになる。
 5分ほど休憩して残りの階段を登った。突然、エジプトの太陽に照らされたように明るい室内に入った。彩色絢爛たる柩の列また列であった。天井の擦りガラス越しの強い太陽光線は室内の温度をぐんぐん押し上げていく。ガラスケースの間を互いに肩を触れながら進むほどの混雑振りとスペイン語の大歓声で、頭は朦朧とし息苦しくなってきた。20世紀初頭、英国のカーナヴォン卿の援助のもとにハワード・カーターがツタンカーメン王の墓を発見してから英国はエジプト考古学に力を入れてきた。だから大英博物館ではエジプト展示室が大盛況なのだ。
 急いで隣接する古代ギリシャ室へ逃げ出した。壺絵を中心とした展示室には突然見学者が見あたらない。エジプトもギリシャもシリアももういい。真直ぐ抜けて左の階段を1階正面へ降りた。1階入り口に展示してあるロゼッタストーンももういい。物凄い混みようで、人混みをかき分けて逃げ出したいの一念で急いで外へ出た。夏の太陽が一段と輝きを強め、じりじりと照りつけて眩暈がする。1階の半分と2階の半分を回ったことになる。何か中途半端な気持ちは残ったが、もう一度訪れることを誓ってグレーター・ラッセル通りへ門を出た。
 お昼になっていた。今朝はローバック・ホテルで早めに朝食をとったのでお腹が空いていた。どこか近くで昼食をとることにして、大英博物館付近の裏通りを歩きながら何軒かの店を覗いた。どうゆう訳か、チャールスのようにパブに入って昼食をという考えが出てこなかった。どうしてもパブはビールを飲む所との先入観がある。

 ミネソタの遠い日々
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 同じ船に20人ほどの日本人の団体旅行客が乗っていて、日本人の添乗員が振る小旗と掛声に、羊の群れのように大人しく、整然と従って行動していた。こうゆう光景は私達にとっても初めてで驚いたが、もっと驚いたのは同乗の欧米人達で、船内いたる所でこの噂が囁かれていた。1972年当時、日本からの海外流行は団体で出かけるのが当たり前で、こうゆう光景も致し方ないと思われた。フランスへの入国手続で甲板に並んだ私の前の若いイタリア人夫婦がこのことでひそひそと話しをしていた。ついに頭にきて、無礼とは思いつつイタリア語でやり返した記憶がある。
「やあ、こんにちは。何か日本人団体客の変わった行動に、皆さんの噂でもちきりのようですね。彼らは他の乗客に迷惑をかけているわけでも無いし、欧米の文化にも馴れていないし、外国語が喋れないのだから、いい加減にやめてほしいですね」
確かに、欧米の団体客は引率者がいても基本的に自由行動だから、団体客各々が各自の責任で行動している。一人の誤った行動が残りの人達を拘束することもしない。それがルールだ。だから、この日本人団体客の行動に驚いたのだろう。彼らにとっては、まさにカルチャーショックだったのだ。
この非紳士的な振舞いに、今は後悔しているが、海外では突然愛国主義を振りかざして、変身してしまうことがあるから要注意だ。

遠い夏に想いを-博物館  さて、博物館に入った。1階のマニュスクリプトの展示コーナーから見て回る。一番時間のかかる場所だ。読むか見るか。読んだら1日あっても足りない。見るだけなら5分ですむ。
 水色の裾の長いワンピースを着た、背の高いブロンドの女の娘が展示品ひとつひとつ読みながらメモをとっている。背筋をスーと伸ばしたままガラスの中の展示品を覗き込む。なんとも優雅な姿と風情に見とれてしまう。
 そこへ、突然、日本人の団体客が押寄せてきた。ガイドが声をはり上げて簡単な説明を与えながら進む。中年と老年と数人の若い観光客の一団が歩きながら展示ケースを覗きこみ、「アレハこれ、コレガあれ」と賑やかに声をかけ合っている。声が聞こえなくなったと思った瞬間、もう彼等の姿はそこに無かった。日本人に限ったことではない。これはどこの国の団体客にも共通する行動様式だ。
 この見るだけ方式を真似させて頂くことにした。シューマンやブラームス等音楽家の自筆楽譜、バイロンなどの作家の自筆原稿、その他諸々のマニュスクリプトが並ぶ。所蔵品のほんの一部が展示されているだけに違いない。これを丹念に読んでいたら、たとえ日本語でも、1日あっても足りない。

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 今度の短い旅行にはゴールデン・ルールがあった。

『欧米の博物館や美術館は丹念に見て廻ったら一週間かけても見きれない。これを半日かけて見ても30分で見ても結果は五十歩百歩である。ヨーロッパでは18年過ぎても何一つ変わらないから、過去に訪れた博物館や美術館は特別な思い出がない限り入らないこと』

従って、大英博物館も30分か長くとも1時間以内にすませるという原則を守ることにした。
 正面広場は大変な混みようである。周囲から聞こえてくるのはスペイン語とイタリア語ばかりである。何でこんなにスペイン人とイタリア人がイギリスに押しかけてくるのか不思議である。ほとんどが団体旅行組なのだ。といっても、彼らの行動様式は日本のとは全く違う。72年の時はイタリア人とギリシャ人が多かった。観光客というよりイギリスへの出稼ぎ組であった。


遠い夏に想いを-英仏海峡  当時、私達はフランスとイギリスの間はドーバー海峡を船で渡った。青と白のツートンカラーの洒落た連絡船だった。青函連絡船より少し小さかったと思う。イギリスからの帰り船にはギリシャ人やイタリア人の家族が大勢乗っていた。
 8月のドーバー海峡は静かで、見渡す限り青空が広がり、デッキにぎっしり並べられたベンチ式の椅子に乗客が群がるように座って楽しく談笑していた。気軽に声をかけた。イタリア人のおばあさんもイギリス人の中年の婦人もチャオを見付けて、こちらへ来なさい、ここへ座りなさいと手招きしながら声をかけてくれる。チャオも気軽におばあさん達の側に座らせてもらい、にこにこと話をしている、船に乗っているイタリア人のおばさん達は夏休みを祖国で過ごすのだと言う。殆どがシチリアやイタリア南部からの出稼ぎの人達であった。今のロンドンはこれら出稼ぎ人の子供達と直接イタリアから訪れる観光客で溢れているのだろうか。

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 とにかく、一番近い所からスタートすることにする。ところが最初から効率的には動いていない。大英博物館を目指すなら、オックスフォード・サーカスに行かず、反対のトテナム・コートへ進めばよい。地下鉄に乗る必要もない。しかし、両替屋に行くためにオックスフォード・サーカス駅に来てしまった。仕方がないので両替後、ここから地下鉄に乗った。今日は一日乗車券があることだし。
 隣のトテナム・コート駅で降り、地下から地上へ出た。通り名も方角も分らない。方向音痴なので、日本では馴れない土地へ行くと地上に出た瞬間によく迷子になる。大阪の地下街などは行くたびに迷子になる。欧米では路線方式を採用しているので、通りには全て名前が付いている。パリがいい例で、通り名表示に関しては完璧な街だ。地図さえよく見ていれば迷子にならない筈だが、ロンドンでは通り名表示がない箇所が意外と多い。
 土曜日のお昼前とあって、トテナム・コート界隈もオックスフォード・サーカスと同様大変な人混みで、立止まって地図など覗き込んでいると押し飛ばされてしまう。ところが、方向音痴では自他共に認めるノッコが地図を脇から覗きながら突然叫んだ。
遠い夏に想いを-London map 「あっち!」
 この夫婦は片方が間違えても喧嘩なしの旅行を旨としているので、路上で口角泡を飛ばすことも、口を尖らせてブツブツ言うこともしない。不愉快になることと醜い言動はできるだけ避けることを信条としている。半信半疑でノッコについて行った。交差点でトテナム・コート・ロードを渡り、左へ折れ、1ブロック行って右に曲がった。
「ここを真直ぐ!」
ノッコが叫んだ。
「はい、分りました。行きましょう!」
ここにもグレーター・ラッセル通りの表示が見当たらない。前をアメリカ人の夫婦らしい中年のカップルが歩いている。ノッコは彼等の後について行けば間違いないと言う。シャーロック・ホームズとワトソン気取りである。
 ブルームスベリー通りまで来て、大英博物館の門柱が見えてきた。前の夫婦は門内に消えた。ご宣託の通りであった。非常時に運を呼寄せ力を発揮する才能。既にチャオが今まで幾度も証明してくれた。これも遺伝と思うしかない。

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 まだ10時半なのだが、部屋の用意はできていると言う。
「お子さま連れかと思ってエキストラ・ベッドを入れてあります。不必要なら今すぐ片付けさせますので、ここで暫くお待ち下さい」
「そのままで構わないよ」
何はともあれ、一番貴重なのが時間だから、待ってなどいられない。
遠い夏に想いを-ラマダ・イン  519号室。バーナーズ通りとイーストキャスル通りの角にある部屋である。天井が高く広々とした四角い部屋で、右隅にピンクのカバーがかかった折たたみ式ベッドが置かれている。ガランとして飾付気のない広い部屋なので邪魔にならないが、気分的に煩わしい。荷物を片付けて、急いで外出することにした。
 今日は土曜日なので銀行は閉まっている筈だ。弱った事になった。駄目は承知で、フロントに聞いてみた。バーナーズ通りとオックスフォード通りの角の銀行が午前中は両替だけしてくれるかも知れないと言う。慌ててホテルを飛出した。残念ながら銀行のドアは堅く閉じていた。土曜日に開いている銀行などあるはずが無いのに。
 ところが、奥様はタクシーに乗った時に両替屋を見たと言う。観察力と記憶力では日頃から奥様には一歩譲っているから一応信用することにして、オックスフォード・サーカス駅へ向かって歩いた。
「ほら、あそこ」
 指差す方角を見ると、確かに右側に両替店の看板が見えた。ガトウィック空港の両替店と同じトマス・クックの店であった。日頃は仕事上ドルばかりに関心があるため、ポンドやフランやマルクには殆ど気を留めていなかったので、ポンドがこんなに高いとは夢にも思わなかった。
 ロンドン市内は今日の午後しか予定に入れていないので、最も効率的に回る必要があった。しかし、はっきりした計画がある訳ではない。1972年のロンドン市内見物はチャールスのお母さんにつれ回された観があったので、見てないところも結構あった。チャオがいたせいもあるが、博物館や美術館には全く入らなかった。どのように思い出の旅と新しい旅を組合わせるか、これが難題であった。時間のない我々には、当時の10分の1も廻れないだろう。

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