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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 更に、ウェストミンスター・アビーへ足を進めた。角にパーラメント・スクェアがある。きちんと刈込まれた緑の4角い芝生があるだけのスクェアである。議事堂の前にはオリバー・クロムウェルの像まである。清教徒革命で王様の首をちょん切った反逆児だ。議会派だったとはいえ、本当の英国の姿がかいま見えてくるようだ。
 ロンドンのスクェアは特筆に値すると思う。ロンドン中にどれだけスクェアと名の付く小広場・小公園があるのか見当が付かない。地図を広げても余りの多さに数えるのもうんざりしてくる。トラファルガー・スクェアのように芝生のないものからセント・ジェームス・スクェアのように緑の美しいものまで様々である。スクェアと名の付いた最初の広場は大英博物館のすぐ近くにあるブルームスベリー・スクェアで300年も前のことらしい。大きな公園と違って、周囲の建物との調和の仕方で美しさも雰囲気も異なる。いつかロンドンのスクェアまわりをやってみたいと思う。
 大英博物館ほどではないが、このあたりも観光の名所だけあって、かなりの人混みである。ここは英国国教会の歴史ある寺院で、ノルマン王朝以来歴代の王様の戴冠式がおこなわれている。ウェストミンスタ
遠い夏に想いを-アビーのチャオ ー・アビーの正面入口には大変な人だかりで、大勢の人たちが列をなしている。近寄って見ると、全員老人で、男性ばかり、いや、女性も何人かはいるようだ。全員が胸に勲章をつけている。退役軍人のための記念ミサが行われるらしい。行列は整然と寺院のなかへ消えて行った。数百人はいる。これが終わるまで一般の人は中へ入れない。諦めて戻ることにした。
 寺院の北側に芝生のはえた空間がある。昔、チャオが名所旧跡の見学に飽きて、私とノッコが寺院内を見学している間、ここでチャールスのお母さんと待っていると言って、芝生の上ででんぐり返しをして皆を笑わせたそうだ。お母さんが写真を撮っておいてくれた。あの時のチャオはまだ6歳の子供に過ぎなかった。

 ミネソタの遠い日々
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 テムズ川に架かる橋からの眺めのうちで、ウェストミンスター橋からの眺望が一番好きだ。テムズ川に架かる市内の橋のなかでは2番目に古い橋である。1750年に最初の橋が完成し、現在の橋は1862年に造り直されたものである。
 1番古い橋はタワー・ブリッジの手前のロンドン橋で、最初は西暦1世紀にローマ人によって造られた木造の橋であった。その後、1176年から石の橋が建て始められ、30年後に完成した。大変な歴史をになった橋なのだが、「London Bridge is falling down...」と子供達に歌われたのは何時の時代の橋であったのか定かではないらしい。
 ところで、1972年にはロンドン・ブリッジは既になかった! 本当になかったのだ。1970年にロンドン・ブリッジがアリゾナのレーク・ハバス・シティーに売却され、1973年に現在の橋が完成したからだ。この売却の話は当時アメリカでもニュースで流された。
「ねえ、ロンドン・ブリッジが壊されるって。残骸がユタの田舎町に売却されるんだって」ある日テレビを見ていたノッコが叫んだ。
アメリカ滞在中にテレビに流れたこの売却の件には記憶があった。だから、1972年にロンドンを訪れた時にはまだ、New London Bridge is under construction であった。
遠い夏に想いを-St.Paul聖堂  ウェストミンスター橋から遠くにセントポール大聖堂が見える。今回は行かないが、72年にチャールスのお母さんと訪れた。チャオとお母さんは一階で待っていた。お母さんに勧められて、私とノッコは聖堂のドームに登った。丸いドームに着いたとたん、私は目がくらくらしてきた。ドームの内側に沿って90センチほどの細い通路が張り巡らされており、一周しないと後ろに戻れない。仕方がないので、下を見ないようにしてゆっくり廻ったが、真っ青になるくらい怖かった。私の高所恐怖症を知っての、お母さんのたくらみだった。
 ウェストミンスター橋の西南側にはロンドンの顔ともいうべきネオゴシック様式の議事堂と「ビッグ・ベン」のアルバート・タワーがその威容を誇っている。建物自体はさして古くなく、ビクトリア女王時代の19世紀中頃に再建された。この時計塔より高い塔がここにあるとは気が付かなかった。この議事堂の西南の角に位置するビクトリア・タワーで、こちらの方が2フィート高い。姿は壮麗だが何故か知られていない。これも橋からの眺めがつくる差だろう。
 河の南東側には遠くにランベス宮が望め、北側の角には傾斜屋根のルネッサンス様式を模して建てられた白いカウンティ・ホールが目の前に迫ってくる。地下鉄の駅の直ぐそばには船着場があって、ここからハンプトン・コート方面へ船で行ける。この次のロンドン旅行にはハンプトン・コートへは何がなんでも行ってみたい。

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 ニュー・オックスフォード通りへ出る。交差点を渡って、ブルームスベリー通りを北に上がる。そしてグレーター・ラッセル通りを経て駅に着いた。遠い夏に想いを-ビッグベン
 トテナム・コートからノーザン・ラインに乗り、インバンクメントで乗換えて、ウエストミンスターで降りる。地上へ出ると眼前に懐かしい景色が現れた。ウエストミンスター橋の途中まで急いで歩く。頃を見計らって後ろを振返った。ビッグ・ベンが橋の欄干の上に聳え立っている。


 ここには72年の思い出があった。
チャオが欄干にしがみついて珍しくゴネたのだ。もう歩くのは嫌だと言ってチャールズのお母さんを困らせた。
 確かに当時はロンドン市内をよく歩いた。お母さんも62歳だったが、先頭に立って今度はあそこ、次はあちらと信じられないほどの健脚振りを発揮した。ダウニング通り10番地、所謂、ダウニング10の首相官邸にも行った。
「さあ、我が屋の別邸よ」とウインクしてさらりと言う。
当時はヒース首相が住人だった。ダウニング10の警備も警官が1人目立たないように立っているだけだった。それからパンダのいるロンドン動物園にも立寄った。セントポール寺院にも行き真っ青になったの覚えている。とにかく、まざまな処へ連れて行ってもらった。
 私がバテた顔をしていると、小さな壺を取出していきなり鼻の下に突出す。一瞬たじろぎ、次の瞬間私は飛び上がった。驚かない訳がない。脳点に一撃を食らうとはこのことだ。アンモニアの小壺を携帯していたのだ。昔の小説によく登場する卒倒した貴婦人の気付け薬に使う例のアンモニアである。遠い夏に想いを-橋の欄干
 ゴネているチャオがはっきり言わないので、色々カマをかけて訊いたら理由が判明した。本音は赤いダブルデッカー・バスの2階に乗りたかったのだ。
 橋の途中にバスの停留所がある。バスの2階の席に落着いたとたんに、いつもの快活で好奇心に目を輝かせているチャオの姿に戻った。この時のチャールズのお母さんの困り果てた顔とチャオの様子が私達の記憶の底に消えずに残っていた。

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 レストランの中央でピッツァを焼いている男は気難しい顔をしたイタリア人。ピッツァの味はこの男の腕次第だ。2人いるウエイターのうち1人はローマやミラノの旅行者向けの安レストランでよく見かける若いナイスガイ。もう一人は少し腹が突出し始めた20代後半のイギリス人のようである。遠い夏に想いを-ナプキン
 本格的ピッツァなど期待もせずに注文した。イギリスのピッツァなど食えるものかと内心では思ったからだ。『ピッツァ・エクスプレス』だから素早く焼き上がって、時間の節約と胃袋の満腹感だけで充分とたかをくくっていた。
 ところが、一口頬ばって驚いた。美味い。今まで食べたピッツァのなかでトップ・ランクに入る。最近は日本でもアメリカナイズされたピッツァばかりで、昔は「こんな、ケチャップとプロセスチーズの甘ったるいピッツァなど食えるか」と反発していたものだが、最近は「ピッツァなんて所詮こんな程度の食いものさ」と不美味さに馴れっこになっていた。ここのピッツァはお薦めだ(今では東京原宿に直営店[写真下]があるが、店の体裁はロンドンのとは全く異なりモダーンだ)。ピッツァとはこんなに美味しいものだと思い直させてくれただけでも価遠い夏に想いを-Pizza
値があった。ナポリには行ったことはないが、ナポリの二流か三流どころには勝てると思う。チェーン店でこれだけの焼き具合と味を出せれば満足すべきだ。アメリカ系のチェーン店など足元にも及ばない。
 店を出るときにノッコがこの店の紙のナプキンを記念に持って帰りたいと言いだした。腹の出たウエイターに新しいのを頼んだ。しばらくして忘れた頃になって持ってきて、目の前に突出した。血の色のように赤いナプキン。まさにロンドンの色だ。

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 コプティック通りの角にあるピッツァの専門店『ピッツァ・エクスプレス』の前で足を止めた。赤と緑で色鮮やかに塗られた店の入口は通りの角にあった。店内は天井が高く意外と広い。真赤なテーブルと椅子が整然と配置されている。赤と緑と白はイタリアの三色旗の色だが、ロンドンは赤が奇妙に似合う。ロンドンを代表する色は赤と勝手に決めている。

遠い夏に想いを-ロンドンの色  それでは、東京の色は何か。知人、友人の外国人達は一様に赤色だと言う。理由は簡単で、看板にあった。日本はネオン・サインを含めて看板が異常に多く、その上、形にも色にも場所にも秩序がない(香港ほどではないが)。使われている色は圧倒的に赤が目立つ。外国人が第一印象で『赤』と答えるわけが理解できる。逆に、「何故こんなに赤が多いのか?」と聞かれても、私には答えられない。日本の旗が日の丸だかからとか、神社・仏閣が朱色に塗られているからとか、それでは理由にならないだろう。本当かどうか判らないが、飲食店の看板が食欲をそそるために赤色が使われているのだという説がある。
 ちなみに日本の都市の美観を損ねている最大の悪玉は電柱と電線だ。これには日本人全員が賛成するし、外国人も驚く。電柱と電線は全く言語道断である。全員が反対でも、電柱も電線も看板もなくならない。ヨーロッパの都市のように文字のサイズや色までは無理かも知れないが、看板の大きさや看板の色の規制などは絶対に必要である。プレミス(路上)看板などには規制があるが、道路交通法の問題だからどうにもならない。
 建物も汚い。日本ではどういう訳か古いものは古いままでの考えが横行している。歴史的価値のある建造物ならいざ知らず、一般の住宅や店舗にまでとなると救い難い。大学に入ったら勉強しないのと根は同じだ。家を建てたら手入れをしない。どうせ30年も経てば値打ちがなくなるんだからと。町を作っても美しく住み易くする努力をしない。日本人は近世になって文化的に『断絶』の世代交替を繰返して来たため、建築にも伝統と様式を見失い、迷子の状態に陥ってしまった。

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