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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 タワーを登るか登らないか迷った。理由は3つあった。高所恐怖症(50メートルの高さ、下から見上げただけでも目が眩む)、時間がない(4時を過ぎた)、そして入場料が高い(2ポンド50ペンス)であった。こんなことを考えているようではレベルが低い、本当は時間が足りなかったのだが。漱石が『塔橋』と呼んだタワーブリッジも、今では綺麗に汚れ落とをしているが、昔の橋は汚れて真っ黒だったような気がする。遠い夏に想いを-タワーブリッジ
 タワーブリッジのてっぺんにはタワーの間をガラス張りの歩行者用のスカイ・ウェイが渡してある。橋が開いていて人も車も渡れない時に、人だけでも通れるようにと作られた。心憎い配慮だ。歩道橋の元祖というべきか、市民への大変な気の配りようである。
 しかし、1909年から1982年までの73年間は通行止めなった。だから、72年に訪れたときは当然上れなかったのだ。通行止めにした理由が面白い。娼婦とチンピラの溜り場となってしまったのだ。ここからの眺望は素晴らしかったに違いないが、私のような高所恐怖症のお姉さまには不向きなストリートだったはずだ。以前に来たときは通行禁止になっていたのだから、一度のぼって上からロンドンを見渡すのも一興かと思ったが、やはり時間が遅いので止めにした。
 チャリング・クロス駅まで地下鉄で行った。再び地上に出た時には、陽はかなり傾き、暑さも和らいでいたが、疲労と渇きで結構こたえていた。駅を出て通りを渡った角にコーヒー・ハウスがあり、ちょっと休憩することにした。72年にこの店に入った記憶があった。地下と1階が喫茶室になっていて、狭い店内は若い人や旅行者で騒々しい。これでは落ち着いて休憩もできない。時間というか太陽にとうか、常に追掛けられている身なので、どこへ入ってものんびり出来ないのが悲しい。
 店を出て、ストランド通りを歩いて1ブロック行くと、目の前にトラファルガー広場のネルソン記念柱が夕暮れの空に聳えている。相も変わらず人が多い。
 世の中には不思議な広場がある。ニューヨークのワシントン広場、ローマのスペイン広場、そしてロンドンのトラファルガー広場だ。人が集まるから人が集まる。ただこれだけ
の循環を繰返しているだけなのに。

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 ホワイト・タワーの東側の坂道にベンチが並んでいる。このあたりにはローマ時代に城壁があったところ遠い夏に想いを-ロンドン塔のベンチ で、ロンドンの長い歴史を物語っている。2人で腰を下ろした。このベンチには当時チャールズのお母さんが疲れて険しい顔で座っていた記憶がある。チャオだけが元気だった。子供には興味のないところに、よく文句も言わずついて来たものだ。パリで言葉が通じなかったので、英語の通じろ英国がよっぽど楽しかったのだろう。今ここに座っている人達も座り込んだまま動こうとしない。いましがた見た歴史の暗さに気が滅入っているようだ。いつまでも座っていても眺めがいい訳でないから、元気をだして立上がった。
 帰りがけに一応はホワイト・タワーに入ることにした。ここは甲冑や刀剣に興味のない人には1度見たら2度目は何の興奮も与えない。結局は72年の時と変わっていないことを確認するだけとなってしまった。北側の入口を通って城外へ出た。
 テムズ川畔をタワー・ブリッジへ向かって進む。テムズ川にかかる橋の中ではロンドン橋やウェストミスター橋よりも、タワー・ブリッジの人気が高い。今やビッグ・ベンとともにロンドン観光の象徴的存在となってしまった。1886年から1894年にかけて総工費150万ポンド、橋だけで80万ポンドをかけて建てられたという。当時は1,000トンもある開閉部分を蒸気ポンプで90秒かけて引上げていたという。1975年に電動式になったというから、1972年にはまだ蒸気で動いていたことになる。当時、この橋を歩いて渡らなかったが、いくら古い物を大切にするイギリスでも、まさか蒸気で動かしている橋とは当時想像もしなかった。
 橋の下を抜け、北側のタワーの入口まで上がって行った。ここからの眺めはいい。心地よい川風が橋を通り抜けて行く。西に傾きかけた太陽の光がゆるやかに流れる川面に映えて美しい。橋の右手にはロンドン塔の全容が見渡せる。上流にはロンドン・ブリッジも望める。

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 18エーカー(約7万2千平米)ほどの広さだから、ロンドン塔の城内を歩いて廻るにはさして時間がかからない。ハイド・パークの面積が360エーカーだから、それの20分の1にしか過ぎない。ホワイト・タワーの周りを時計回りに歩いた。小径をのぼりスカフォルドの前で一休みする。ロンドン塔の中でこのタワー・遠い夏に想いを-タワーグリーン グリーンが一番美しい。ここに立つと、ヘンリー8世の治世の血なまぐさい歴史をしばし忘れ、心が休まる。今年はどこも雨不足で芝や雑草が枯れているのに、ここだけは一面に目も覚めるばかりに鮮やかな緑の世界である。奥に見えるチューダー朝様式のクィーンズ・ハウスと広場の眺めはロンドンで最も美しく、最も残忍な広場といっても過言でない。だが、72年にはカラス(Raven)を見たが、この日は姿が見えない。6羽いるらしいが、いないということは、伝説に従えばタワーの崩落が近いのか、などと話しながら進む。 
 スカフォルドの前で若い女性のガイドがフランス語で連れの旅行者達に大声で解説している。そばへ行って立ち聞きする。奥様は「やめなさい」とおっしゃる。でもフランス語でも少しは分かる。京都や奈良でも団体客の一員になりすまして、ガイドの話に耳を傾ける。旅行案内の小さな文字を読む煩わしさが省けるだけ有難い。
 北側のウォータールー・バラックスの前には長い行列ができていた。そして一向に進まない。ここの行列は有名らしく、英国版のロンドン案内書にも「夏場は行列覚悟のこと」と注意書きがある。この建物は1845年にデューク・オブ・ウエリントンによって建てられた。古いものだらけのロンドン塔内では比較的新しいのである。遠い夏に想いを-バラック
 バラックスの西側の棟は英国王室の王冠、宝石、刀剣、衣装等の財宝の展示室になっており、1967年以来一般に公開されている。1850年に東インド会社からビクトリア女王に献呈された『コーイヌーア』とか、有名な『アフリカの星』などのダイアモンドがある。1972年にここへ来た時にはこの展示館に入って全て見学した。美とか趣味とかを通り越して、単純に驚異の世界としか感じなかった。今回大英博物館も覗いてみて、ここはまさに世界中に覇権を広げた大英帝国の世界略奪の歴史そのものの証であるとの確信がますます拭えなくなった。これを献上と捉えることも可能だろうが、その判断は自由だ。とてもこの行列に加わる気力も忍耐力も無いので、今回はスキップすることにした。

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 ロンドン塔は何か薄気味悪く余り好きな場所ではない。日本の城も大半は観光用に解放されていて、今でも人が住んでいるのは江戸城くらいだ。しかし、このロンドン塔みたいに人間の惨忍さと人々の死を売物にした城はない。
 夏目漱石も『倫敦塔』の冒頭に記している。「二年の留学中只一度倫敦塔を見物した事がる。その後再び行こうと思った日もあるが止めにした。・・・・・『塔』の見物は一度に限ると思う」。だから2度来るのは愚の骨頂なのだが、この際やもう得ない。
 第一次、第二次世界大戦の時でさえ敵のスパイがここで処刑されたという。ナチス・ドイツのヘスもここに監禁されていた。17世紀の初めのジェームス1世がこの城の最後の住人であった。以来400年間この城に主はいない。墓場と同じである。昔は造幣局とか公文書館などが入っていたらしいが、今でも誰かの居城なら、このような歴史を秘めた城でも余り気にも留めない。イギリスの運命を変えてきた数々の歴史があるから、出来るだけ生々しく証拠を残し語り継ぐのはヨーロッパらしくていい。しかし、日本人にはとても真似できない。同じような運命にさらされた有名なところが他にもたくさんある。そのひとつにドーヴァー海峡をはさんで対岸のフランスにあるモンサンミシェルだ。教会であったり、要塞になったり、牢獄になったり、訪れる人もいない忘れられた場所だった。19世紀になってその素晴らしさが見直され、やっと本来の大寺院としてよみがえった。
遠い夏に想いを-white tower  『Tower of London』のタワーとはどのタワーなのか。というのは、タワーがひとつではないのだ。実際ここにはタワーと名の付くのものが大小あわせて20以上ある。一番古いのが中央に一段と高くそびえるホワイト・タワーでウイリアム征服王の時代までさかのぼる。当時はロンドン(現在のシティ)を見張る塔だったから、タワーとはホワイト・タワーのことに違いないのだが、歴史を知らないと、一瞬つまらない愚問を抱く。
 もうひとつ不思議なのがテムズ河の川辺りにありながら、1843年以来外堀から水が抜かれたままである。この城が風情に欠けるのはカラカラに干上がった堀のせいでもある。

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 寺院に入るのを諦めた。途中に小さくて目立たないが、なかなか素敵な聖マーガレット教会がある。今の建物は遠い夏に想いを-聖マーガレット 15世紀から16世紀にかけて完成したものだが、もともとはウェストミンスター教区の教会として12世紀に建立された古い教会である。ここは結婚式の名所らしく、過去に多くの有名人が華燭の典を挙げている。詩人のミルトン、政治家のチャーチルもここで式をあげた。1972年に中に入っているが、残念ながら今回は時間が無いので素通りだ。
 駆足旅行で目が回りそうだ。半日でセンチメンタル・ジャーニーをやろうというのだから無茶だ。
 次はロンドン塔を目指す。ウェストミンスター駅からなら、タワー・ヒル駅までサークル・ラインに乗ってもディストリクト・ラインに乗っても乗換えなしで行ける。タワー・ヒルの駅はロンドン塔の入口の真裏に位置する。かなり歩かなければならない。もう3時を過ぎていた。少し急がなくては日が暮れる。右手の通路をテムズに向かって進んだ。
 ロンドンやパリでは京都と違って名所旧跡で入場料を取られることが余りない。しかし、ここの入場料は桁違いに高い。切符売場の料金表を見て一瞬戸惑った。ロンドン塔を見るのでなくて、思い出を見に来たのだから、今回はどうしても入らざるをえない。遠い夏に想いを-ビーフィーター
 1972年にここへ来た時の写真を見ると、チャールスのお母さんはかなり疲れた様子で写っている。元気なのはチャオだけだった。赤黒のコートを着た老年のビーフィーターと訳の解らない会話を無心に交わすチャオの楽しそうな笑顔。『何故ビーフィーターっていうのか』と聞いたのだそうだ。英語は「牛」(Cow)を食べるとか、「豚」(Pig)を料理するとは言わない唯一の言葉だ。北方のバイキングがフランスに攻め込み、ノルマン領を与えられて定住した。更に、1066年に王位継承問題でノルマンがイギリスを征服したとき、イギリスの王様はフランス人で英語が喋れなかった。ビーフもポークも元はフランス語から来たのだ。
 ビーフイーターとは「ビーフを食べる人」ではなくて、英国王の護衛を任された人たちなのだ。思い出は限り無い。あの時はさほど混んでいなかったので、ここで見学できる箇所は殆ど全て見てしまっていた。

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