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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 話はとぶが、1970年にサンフランシスコを経由して中華航空で留学のためにアメリカへ行った時の中国人のスチュワーデスを思い出した。席のダブル・ブキイングが起き、太平洋を親子バラバラの席で飛ぶ羽目に成りそうだった。結果として親子3人連れの私達には大変都合よく便宜を図ってくれた。全く笑顔も見せずに事務的に少々喧嘩(中国語のせいでそう聞こえたのだろう)ごしに、一人旅の中国人女性の乗客と対応をしている姿には圧倒された記憶がある。
 それに引替え、ヨーロッパからの帰りに乗り合わせた日本を代表航空会社のスチュワーデスは笑顔だけで処理能力はゼロに等しかった。ベイルートで同じように席のダブルブッキングが起きたのだが(これは客の責任でなく航空会社の責任である、おまけに正規料金のチケットで搭乗していだ)、全く処理能力ゼロであった。権威とか、有名人とか、欧米の外国人とかを特別扱いし、媚びることは知っていても、大多数の乗客にきちんと応対できる能力がない。もしかしたらろくな教育もしていないのかも知れない。英語の能力もお粗末だった。隣に座った中年のインド人の奥さんがスチュワーデスを呼んで頼んでいる。最初、私は気にも留めていなかったので、何が通じないのか判らなかった。何度も何度も同じことを繰返すが通じない。
「ブランケットを持ってきてあげなさい」遠い夏に想いを-帰路
私はいらいらしてスチュワーデスに言った。私は米国に2年ほどいたが、自分は英語がうまいと思ったことは無い。
「こんなことが判らないようでは、スチュワーデスは勤まらないよ!」
怒鳴ってしまった。当時、フランスでは何かにつけてよく語気を荒だてていた記憶がある。
私はダブルブッキングの一件でいらいらしていたのかも知れない。ところが戻ってきたスチュワーデスがブランケットがないと言う。何をかいわんやである。仕方がないので、私のを差し出した。奥さんは「ノー、ノー」と断ったが、私は「マー、マー」と手渡した
やがて飛行機はインド上空を過ぎ、心はもう日本に到着していた。
 どちらが仕事に対して、責務を果たしているのだろか。アカウンタビリティという言葉がある。日本語に翻訳しようがないので、「責任」と訳しているが、本当は「仕事が規定する責任」という意味だ。欧米では仕事が細かく分かれており、責任の領域が決まっている。そういう意味からして、どちらの航空会社が責任を全うしているかが分かるだろう。皆さんはどう思いますか。

 ミネソタの遠い日々
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 ブティックを出たら、街には夕闇が迫っていた。殆ど足を引き摺りながら、ホテルに辿りついた。奥様は疲れてはいるが、そんなにひどくはないとおっしゃる。ロンドンにきてから随分と元気がいい。
 夕食をどこでとるか。ロンドンで一番美味しかったのは、昔、チャールズのお父さんが作ってくれたローストビーフだった。お父さんはもういないのだから、せめて思い出に、ローストビーフで有名なシンプソンで食事遠い夏に想いを-simpson
をして、どちらが美味しいか比べてみようなどと考えていたが、これからレストランに予約を入れて、再びストランドまで出かける気力は残っていない。それより、一休みして、ホテルのレストランに行くことにし、電話で8時に予約を入れた。
 1階のレストランはブラウンの木目を基調にした内装で、クリーム色の柔らかい照明が落着いた雰囲気をかもしだしている。天井は高く、装飾はシックで、空虚さのかけらもない。いたってイギリス的でよろしい。
 しかし、レストランとは難しいところだ。店のつくり、雰囲気、ウエイターやウエイトレスの質、客筋、それに当然、料理の善し悪しの4拍子が揃はないと、いいレストランとはいえない。ここのレストランは、ホテルが三ッ星の上クラスだから、余り上客は望めない。おまけに夏の観光シーズンまっただなかで、ネクタイ・ジャッケット着用の客は殆どいない。ウエイターやウエイトレスの懸命さは察せられるが、彼らの質にバラツキが有り過ぎる。
 私達に付いたウエイトレスは東アジア系の年配の女性だった。東アジア系は言葉にハンデがあるのを別にしても、どうもサービス業には向かないようで、このウエイトレスもニコリともせず、全て事務的・機械的で余りにもつっけんどんであった。

 ミネソタの遠い日々
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レスターは古くから劇場街で発展し、大小の劇場・映画館が点在する。最近はかっての隆盛を取戻しているようで、ニューヨークのブロードウェーを凌ぐ勢いだという。
 ここからピカデリー・サーカス周辺までは夕暮れの雰囲気がよく似合う。左へ曲ってクランボーン通りを進むと、レスター・スクエアーの薄緑の芝生が左手に見える。人通りが多過ぎて人垣の合間からかいま見えるだけだが、街なかに小さくともハッとするような緑を発見するのは心が弾む思いだ。これがアメリカならビル街に歯が抜けたように醜いパーキング・ロットが至る所に点在するのだが、ロンドンでは代わりに緑のスクエアがあるのが有り難い。遠い夏に想いを-リージェント通り
 そのままコベントリ通りを進む。賑やかだが、まるで昔の池袋を歩いているようだ。気の利いた店がないせいだろうか。ピカデリー・サーカス迄はたいして距離もないのに、かなりの疲労が溜っている。ピカデリー・サーカスまでは足を引き摺りながら歩いてきた。ここからオックスフォード・サーカスまで1キロちょっとだが、リージェント通りを歩き切るのはかなり辛い。センチメンタル・ジャーニーも結構大変だ。
 この通りは新旧高級店が店を構え、観光客には有名なところなのだが、今回の我々には余り関心もなく、覗いてみる気も起こらなかった。第一、この夫婦はブランド品に殆ど関心がない。ブランド品を絶対買わない訳ではなく、気に入って買ったら、たまたまブランド品だったことはある。
 オックスフォード通りへ出てから、チャオへのお土産を買った。子供も大人になるとお土産が大変だ。特に男の子には選ぶのが難しい。結局、いつもTシャツの類になってしまう。今回も着るものになった。ノッコの提案で息子の彼女にもお揃いで選んだ。気に入ってくれるかどうかの保証はない。それに、今日はよく歩いた。

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 正面の一段高いところに純白のナショナル・ギャラリーがあり、その姿は何とも華麗で美しい。コリント様式の列柱にドーム。教会のドームと違って低いが優雅でいい。やはり、あの時もナショナル・ギャラリーには入らなかった(実際には95年に入った)。あの頃は遂に美術館・博物館に足を入れずじまいだった。ギャラリー正面前からの眺めがまたいい。正面のホワイトホール通りの奥にビッグ・ベンが夕靄の中に黒い影となって浮び上っている。
 時間が無いのでリージェント通りへ抜け、オックスフォード・サーカスを経て、ホテルまで歩いて帰ろうと思ったのだが、何を考えたのか、セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ教会の前を北へ上がって地下鉄のレスター駅の前に出てしまった。これでは大変な遠回りである。遠い夏に想いを-st.martin
 セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ教会。この長ったらしい名前の教会は、すんなりと空に伸びる白い塔の姿が清楚で美しい。1726年の完成なので、このあたりでは一番古い建物である。このイギリス・ルネッサンス様式の教会は塔の姿・形がどこかでよく見かけた記憶があった。アメリカのニユー・イングランドあたりにはデザインを更にシンプルにした同じイメージの教会が沢山ある。
 また、この教会はもともと音楽には理解があって、アカデミー・オブ・セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ・オーケストラ(なんと、長ったらしい名前なのだ!)結成に当たっては大きな役割を果たした。私はネヴィル・マリナーが率いるこのオーケストラが大好きである。モーツアルトを演奏させたら天下一品である。彼は映画『アマディウス』で音楽を担当したことで一躍名を馳せた。ネヴィル・マリナーはどうゆう縁か知らないが、つい最近までミネソタ・オーケストラの総監督('79~'84)をしていたこともあり、何か別な意味で身近で親しみを覚える人だ。とは言え、ミネソタの音楽界では、彼の評判ははなはだよろしくなかった。

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 ヨーロッパの都市なら『広場』はどこにでも有る。日本人の感覚では『広場』には花壇があったり、芝生があったり、植木があったりするのが自然である。それが違う。緑が豊かなのはロンドンのスクエアくらいで、パリでも、ウィーンでも、ローマでも、石を敷き詰めただけの何の変哲もない街中の空間に過ぎない。この点からすると中国もユーラシア大陸の東側にあるだけに、ヨーロッパと同じで緑の殆どない『広場』のようだ。遠い夏に想いを-ライオン
 トラファルガー広場(但し、ここは緑のないスクエアである)もローマの広場のように噴水がある。ネルソン記念塔の周りに置かれている台座の上には子供の格好の遊び相手にさせられている4匹の情けない顔をしたライオンもいる。どうも、ここの広場のデザインは19世紀初頭の愚作としか思えない。東京日本橋の三越正面玄関に鎮座するライオンもここのを模して英国人彫刻家がイギリスでつくたものらしい。デザインもそっくりで、ただ小さいだけ。
 その昔は、ウィリアム4世広場と呼ばれていたらしいが、イギリス人は1805年にトラファルガーの戦いでナポレオンをやっつけてくれたネルソン提督が大好きらしい。広場の名前も変えて、文句を言わないのはそのせいかも知れないが、折角の良い眺めがこの威圧的な塔とライオンのために台無しである。
 ここの広場にも72年にチャールズのお母さんが連れてきてくれた。この時はチャオがライオンの台座によじ登って、その背中にまたがり、照臭そうに右手でVサインをだしていた姿が目に浮かぶ。
 広場はどこでも反体制派の溜り場となる。ニューヨークのワシントン広場、ローマのスペイン広場、パリのコンコルド広場。どこもピッピーの溜り場であったり、プロテスト・ピープルの結集拠点であった。特に70年代初めは、ロンドンでは、ミニスカートが街を闊歩し、長髪のヒッピーがジーンズと素足でトラファルガー広場にたむろし、カーナビー通りを埋め尽くしていた。

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