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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 オックスフォード通りの靴屋もカバン屋もみな安物ばかり並べている。一流どころが軒を連ねるのは、もしかしたら、オックスフォード・サーカスからボンド通り、マーブル・アーチまでの西側の方かもしれない。こちら側にはトップマン、セルフリッジ、マークス&スペンサー、C&A、D・H/エバンス、ジョン・ルイス等のデパートがある。
 そういえば、何年か前に、チャールズがまだ商社にいた頃、マークス&スペンサーの担当者を何人か連れて仕事と接待で東京と京都へ来たことがあった。あの頃はマークス&スペンサーがこれ程の大手とは知らなかった。


 今回は、オックスフォード通りでもリージェント通りでもデパートには入らなかった。デパートは所詮デパートにすぎないし、時間の無駄であった。「旅行とは貴重な時間をいかに有意義に無駄な時間に変えるかのプロセスである」と思いつつ、つい時間との競争に終始してしまう。情無いことおびだしい。


遠い夏に想いを-シエナ  ホテルに戻ると、ロビーの様子がおかしい。団体旅行とおぼしき20人ほどの中年の男女がワイワイ・ガヤガヤと声を張上げてロビーの真中を占拠している。例によってスペインからの団体かと思ったが、よく聞いていると、イタリア語を喋っている。どこから来たのか尋ねると、肉づきのよい元気な中年の女性が答えた。
「トスカナ地方よ」
「私達もこの後フィレンツェに行く予定なんですよ。ピサかシエナかボローニャへ足を延ばそうかと思っているんですが、日帰りだと、どこがお薦めですか」(写真はシエナのドゥオーモ)
「シエナがいいわよ」
みな同じ答えだ。彼等のお薦めはシエナなのだが、理由があった。ボローニャは日帰りには街が広すぎる。ピサは斜塔と寺院以外あまり見るところがない。東京でも会社のイタリア人に同じ質問をしたが、返事は彼らと同じだった。
「よし、やっぱりシエナに行こう」
私はノッコに言った。

ミネソタの遠い日々
1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ

 さて、例によって今朝も早起きだ。陽が昇ったらロンドンの早朝散歩に出かようと話が決まった。朝の6時にホテルからオックスフォード通りへ出た。朝日が昇ったばかりで、気温はかなり低く、セーターを着込まないと寒くて歩いていられない。通りには車の姿も人影も殆どなく、昼間の賑わいに比べて異様な光景である。オックスフォード・サーカスの駅に向かって歩いた。通りの反対側、ソーホー側の歩道には浮浪者風の男達が数人たむろして、大声でわめきあっている。早朝にこの手合いにからまれたら、夜中より始末が悪い。まわりに人がいないだけでなく、商店が一軒も開いていないからだ。


 トップマンの角で駅に入ろうと思ったら、地下鉄の入口は閉まっていた。
「あれ、駅が閉まって入れないぞ」
一瞬わけが分らなかった。
「今日は日曜日なんじゃない。曜日が分らなくなってきたみたい」
多分、日曜日と平日のダイヤが違うためであろうし、曜日によって入口の開門時間が異なっているに違いない。地下鉄でセント・ジェームズ・パークへ行ってみる積りだった。
「セント・ジェームズ・パークが駄目でなら、ハノーバー・スクエアーへ行ってみようか。ここから歩いて行けるところだし」

遠い夏に想いを-逆光の街 そう言ったものの、どうも機先を制された感じだ。
「でも、ちっと寒すぎるんじゃない」
寒さに震えながらそのままホテルへ戻った。この寒さはミネソタや札幌の非じゃない。やがて、昼間になれば気温が急激に上昇し、雨が降らないから、暑くてたまらなくなる。通りの奥のビルの谷間から太陽が昇ってきた。逆光に路面が黒い影となり、光がキラキラと反射して眩しい。


 オックスフォード通りはロンドンの中心部を東西に抜ける街道で、その名の通り、ロンドンからオックスフォードへの出発点であった。昔からこの通りはロンドンで一番のショッピング・ストリートといわれている。特に皮製品を扱う商店が多いらしいが、オックスフォード・サーカスからトテナム・コート・ロードまではこれといった高級店も気の利いた店もないように思えた。

 ミネソタの遠い日々
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 ジェーンとハリーの夫婦は2年ほど滞在し、横浜からシベリア経由でイギリスへ帰った。当時、ヨーロッパへ行くのに、金の無い人たちがよく利用していたシベリア鉄道。ウラジオストクからものすごい日時が遠い夏に想いを-横浜桟橋 かかった。雨の降る横浜の桟橋で別れを惜しんだのが懐かしい。自由な旅行が不可能だった当時、海外に「行く」とか「帰る」とはもう永久に会えないということを意味していた。そんな彼らはフィンランドに一時滞在して、イギリスに帰国したと便りがあったが、あれ以来会っていなかった。男の子が2人できて、バーミンガムへ移ったと便りがあった。生活は楽ではないらしかった。


 バーミンガムの鉛色の空と、延々と続く工員住宅の異様に赤いレンカの建物。久しぶりに再会した時の記憶が消えない。72年に再会したときは、ハリーが郵便局に勤めていたのとジェーンが相変わらず明るく元気だったこと。子供達とチャオはすぐに友達になり、裏庭でワイワイ叫びながら遊びまわっていた。英語が話せるとすぐに子供たちが互いに親しくなれるので、親は気を使わなくてすむから楽だ。一晩彼らの家で泊まり、楽しい時を過ごした。残念なことに、数年前からジェーン達とは連絡が取れなくなり、消息が絶えてしまった。彼等はもともとウエールズの出身だから、時間と手間をかけて捜せば、消息がつかめたかも知れないが、彼等にも何らかの事情があってのことなので、敢えてそうはしなかった。


 地方都市とか田舎とかいっても、時間が無いのでロンドンから余り遠くなくて、日帰りの出来るところがいい。ローマ時代からの長い歴史を持つバースを考えていた。もう一か所は、オックスフォードがケンブリッジの大学町。それも駄目なら、余りにも観光名所的だが、ウインザーかテムズの上流を考えていた。
 ロンドン市内は議論の余地がない。ケンブリッジへは既に行った。あとはバースかウインザー。しかし、チャールズはどちらにも反対だった。バースやウインザーは夏の観光シーズンのさなかで大変な混雑振りだという。人の余り行かないところがいいという。バースもウインザーも汽車で行けるので、私達だけで行こうかと考えたが、ほかの場所ならチャールズが車で一緒に行くというので、彼の気持ちを大切にして、場所の選択は彼に任せることにした。

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 イギリスでの3泊5日の滞在をどう使うかは、日本を出る前に一応は考えていた。ロンドンは72年の足跡をたどるセンチメンタル・ジャーニー。残りは地方へ行きたかった。


 1972年には、ジェーンとハリーに会いにノッコとチャオの3人でロンドンのユーストン駅から汽車に乗りバーミンガムへ行った。車窓から眺める美しい緑の牧草地と羊の群れ。その先に見える教会の塔。まわりに広がる森や林。延々と続く丘陵地帯。道は時々線路を横切って、曲がりくねっている。ゴトンゴトンとゆれる汽車。がらーんと空いた車両。小さな女のこと男の子。姉弟だろうか、楽しそうに戯れている。今でも、この光景は目に浮かんでくる。


 当時、ジェーンとハリーはイギリスを発ってアフリカやその他の国々に滞在しながら東京にやってきて、東中野のアパートに腰を落ち着けたばかりだった。1965年頃だったろうか、ノッコがジェーンと出会った遠い夏に想いを-jill のは丁度そんな頃だった。背が高く大柄なジェーンはセラピストの資格を持っていて、板橋の養護園で働いていた。いつも明るく快活で、てきぱきと喋り、行動的だった。ハリーは上知大学で日本近世の政治史を勉強していた。ウエールズ出身で、小柄なケルト的な風貌をしており、静かで神経質なタイプだった。彼らが住んでいた小さなアパートには洗濯機がなく、夜には我々の小さな間借り部屋に洗濯ものを持ってくる。チャオがまだ小さく、1才くらいだっただろうか。そんなチャオを連れて、ジェーン達と箱根にも行った。ハリーがバスの中で、私のことを「ヴィオ、ヴィオ」と大声で叫ぶので、乗客が全員振り返り恥ずかしい思いをした記憶がある。

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 インド人の英語は発音になまりが強く、聞き取りづらいのは分かる。しかし、ナショナル・フラッグ・キャリアーとして世界に羽ばたきたいなら、これでは情けない。日本の会社は英語や外国語をスキルと認めないから、そこそこの程度さえあれば、後はトレーニングで何とかなると考える。大変に甘い。スチュワーデスもニコニコだけで処理能力(これもスキルである)ゼロで役に立たない。その時、この会社はそのうち駄目になるだろうとの予感が私を襲い確信となった。とは言え、この帰路の途中に立ち寄ったアテネで、この航空会社の仮社屋に駐在する女性の事務員にすごくお世話になったことを付け加えておこう。てきぱきと的確な情報を教えてくれた女性の名前は覚えていないが、もう一度会えたら、あの時のお礼を言いたいくらだ。本人は覚えていないと思うけれど。

 さて、話は戻るが、料理のほうは残念ながら美味しくなかった。出てくる料理は全てがだらりと締りのない味で、風味に欠け、ベトベトしているだけで、魚は材料の生き々きさが舌に伝わってこない。チャールスの言った通りイギリスのレストランは駄目なのか。やはり、一流どころへ行かないことには話にならないのかも知れないと思った。とは言っても、イギリス料理はローストビーフだけで、あとはフランス料理かエスニック理店ばかりだ。


 英国料理とは家庭料理のことなりと何かで読んだ。1972年にイギリスに来た時は、バック・ハースト・ヒルのチャールズの家に泊まり、食事はチャールスのお父さんの手料理をご馳走になった。イギリス人にしては小柄なおじさんだが、鉄道のコックをしていたそうで、家庭料理の域を越えた味はその為だったのかも知れない。当時の我々は相当の貧乏旅行で毎日ろくな食事をしていなかったから、奮発して作ってくれたローストビーフとソースの絶妙な味は忘れられない。チャオは一言も発せず、ただ夢中になって食べた。食べ終わった時の満足げな笑顔は皆を笑わせた。食事中フォークとナイフをしっかり握ったまま離さない、痩せて厳しい顔つきのお父さんの満足げな顔が今でも鮮明に記憶に残っている。

遠い夏に想いを-letter
 さて、食事を終えて部屋へ戻ると、補助ベッドが取払われていて、一段と広い感じになっていた。10時を過ぎていたが、今夜は寝る前にノッコがケンブリッジで買った絵葉書でミネソタの友達に手紙を書いている。誠に元気のいいことだが、いつ投函できるやら。外国では手紙を何日も出しそびれて持ち歩くことがしばしばだ。

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