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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 ところで、日本の森林面積は68%と世界的にも大変なもので、国土面積比率ではフィンランドに次いで世界第2位なのである。驚くべき事実である。全国では55%が針葉樹だから、どうしても「林」が多くなる。「林」を嫌って「森」を探し求め、全国を放浪する日本の画家がいるとテレビで見たことがある。日本で「森」を探すのは殆ど不可能だろう。


 話が少々脱線してしまった。イギリスの森も16世紀頃までは豊かな森林地帯が広がっていたという。森はもともと王様や領主の狩猟場として保護されてきた。イギリスでは領主が都市在住型でなく、田舎の荘園にマナー・ハウスを建てて暮らすのを旨としていたために、森林を次々に伐採し牧草地や農地に変えてしまった。


遠い夏に想いを-Lords Bushes  エッピングの原生林はかってエセックスの全地域を覆っていたという。この森は中世の時代から王室専用の狩猟場として保存されてきた。1226年からは復活祭の日だけロンドン市民に解放された。17世紀になって、貴族達が狩猟に関心を示さなくなり、この森は周囲の荘園に吸収されて、縮小の運命にさらされた(写真はエッピングの森の一部であるLords Bushesで)。


 1882年になって、やっと、この森は市民の憩いの場として永久保存管理されることになる。ブナの森はイギリスでも特に豊かで、樺、樫、ライム、柊が生い茂り、鹿やリスが森の中を自由に駆けずり回っている。しかも面積が6千エーカーもある広大な森である。秋には牛などの家畜が近くの農家から連れてこられて自由に放牧されるので、車道に飛出してくるこもあり、危険らしい。

 ミネソタの遠い日々
1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ

 とにかく、今日一日はチャールズに任せることにした。途中までの道程は残念ながら一昨日と同じで、ケンブリッジの近くまではM11を走る予定だ。同じ道なので余り興味が湧かないと思う。しかし、チャールズは途中の小さな村や町に車を回して、イギリスの田舎を見せてあげると言う。今日は目的地が一か所だから慌てる旅でもないし、そうやって、楽しむしか方法がない。


 チャールズのワーゲンは一昨日と同じく、クイーンズ・ロードを上り広いエッピング・ニュー・ロードへ出た。エッピングの森が左右に広がり、沿道の木々のこずえからこぼれ落ちる陽射しがチラチラと光る。木々の間から見える遠い夏に想いを-forest1
広い芝生の上では大人達がクリケットを楽しんでいる。イギリスは湿度が以外に高く、緑の多いイメージがあり、森や自然の豊かな国に思えるが、意外なことに、森林の面積はヨーロッパでも最低の部類に入る。また、有名なナショナル・トラストの歴史的建造物とか自然保護の運動にも見られるように、彼等の活動も一部はこの危機感から始まったのではないだろうか。

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 ある統計によると、例えば、森林面積と国土面積の比率で、イギリスの森林面積比率は11.8%しかない。アイルランドも9.7%と低い。湿地と運河のイメージが強いオランダでさえ11%だから、とても考えられない。70%以上の森林面積を誇るフィンランド、スエーデン等の北欧諸国は例外としても、赤土がむきだしのイメージが強いギリシャやイタリアでさえ30%前後はある。30%近くの森林面積を有するドイツやフランスに比べても余りにも少ない。遠い夏に想いを-forest3


 日頃抱いている「我が谷は緑なりき」のイギリス(あれはアイルランドだったかな)のイメージとは余りにもかけ離れている。バーミンガムのジェーンによると、ウエールズのスノードニア国立公園は素晴らしい渓谷の景色なのだが、殆ど木の生えない荒涼とした風景だという。イギリスの状況は想像を絶する。(左はジェーンが送ってくれたスノードニア国立公園でのハリーの写真) 

CO2の吸収量とかその他の要素を考えて、森林が多い方がいいのか、少ない方がいいのかは私には分らない。南米などで、熱帯樹林の伐採が問題となっているのだから、単純に森林が多い方がいいのだと思うのだが。また、イギリスは平地が多いが、フランスより食料自給率が低いとなれば、これまた解らなくなる。

 ミネソタの遠い日々
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 今日もロンドンは朝から快晴だ。黒い小さなナップサックひとつの軽装でホテルを出た。オックスフォード・サーカスでセントラル・ラインに乗り、バックハースト・ヒルで降りる。駅から商店街のウインドーを覗きながら日曜日の早朝の静かな通りを歩いた。


 クイーンズ・ロードの角の不動屋には写真付きの物件案内がでている。みな、14万ポンド前後の一軒屋だ。ロンドン市内から電車で30分も掛からないところで、3千万円前後だから、東京の状況に比べたらかなり安い。というより、東京でもこの程度の価格が順当なのだと思う。
「ロンドンに家を買って住もうよ」
ノッコはこともなげに言う。
「その前にロンドンで仕事を捜さなければ無理だ」
いいアイデアだなーと思っても、つい現実的になる。


 ところで、話は飛ぶが、家の価格と言えば、昔住んでいたアメリカのセント・ポールやミネアポリスの街なら、市内から直ぐの古い木々が生茂る住宅街で、15万ドルで中古の木造一軒屋が手に入った。地方都市とはいえ、日本に比べ土地がかなり広いから格安である。ノッコは日本に住むのを諦めてもう一度中西部に住もうよと言うが、冬は人間の住む所では無いので、これもまた夢に終わっている。うちの奥様は気の多い点では誰にもひけをとらない。
遠い夏に想いを-パンフレット
 チャールズの家では、どこへ行くかで時間をかなり無駄にしてしまったが、結局、ビーヴァー城へ行くことになった。その昔、お父さんとお母さんと一緒に訪れたことがあったとかで、チャールズのお母さんも薄れゆく記憶のなかでかすかに思いだしたようだった。その時持ち帰ったパンフレットを見ても、他の城を差し置いてまで見に行かねばという程のものではなかった。


 地図を見ても、かなり遠く、ケンブリッジ・シャーを越えて、ノッティンガムの近くまで北上しなければならない。これならバースまで行くのとさして変わらない距離である。しかし、チャールズはビーヴァー城なら1日つきあうが、バースなら一緒に行かないと頑張る。観光シーズン中のバースへの車の旅には苦い思い出があるらしい

 ミネソタの遠い日々
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 夕食を終えて、部屋に戻り、デュッセルドルフのフランツに電話を入れた。今日は日曜日だから、バカンスを取ってニースの保養アパートにでも出かけていなければ、自宅に居る筈だ。出張でフランツがいなくとも、クリスチーヌはいるだろうと思った。


 やや暫く呼びリンが鳴ってから、明るい男の声が答えた。フランツであった。ミネソタからドイツに帰って、1年近くは経っただろうか。フランス人のクリスチーヌの訛の強い英語もやっと耳障りでなくなっていた。


遠い夏に想いを-state capitol  1986年に私たちは銀婚記念でアメリカを旅行した。ミネソタ滞在中に、フランツとクリスチーヌの4人でミシシッピ河沿いのバーへ出かけた。新しくできたモールだったが、明るい電飾がきらめくバーで昔話に花を咲かせ、愉快に過ごした。その後シーフード・レストランに行っだのだが、突然襲ってきた春の雷雨の中を、レストランの庭の生簀でわいわい叫びながら鱒を生け捕りにしようとしたが諦め、別の魚をシェフに料理させて、食事をしながら楽しい一夜をすごした。(写真はミネソタ州議会堂)


 今回はミュンヘン経由の帰国だった。それなら何故デュッセルドルフに寄らないのかとフランツに言われたが、もっと休暇が取れれば、寄りたいのはやまやまであった。後年、ドイツにも旅したが、結局、デュッセルドルフには寄らずじまいだった(ベートーヴェンの生家があるので行きたかったが)。


 フランツはアメリカ本社の同僚なのだが、仕事で日本へよく来ていた。夫婦とも日本食通で、日本に来たっときは、食事は日本食しかとらない。一度、フランツが仕事でアジア地区へ来た時、奥さんのクリスチーヌを連れてきた。2人とも日本食がいいと主張するので、ノッコと2人を赤坂の料理店へ連れていった。何でも食べると言い張るので、魚や貝の刺し身をとった。旨い旨いとべろりと平らげてしまう。当時、すしや刺身を食べる外国人は殆どいなかった。そのうち板前が出てきて、「この外人さん、ほんとになでも食べるの?」とナマコやヌタを出す。これも全部食べて、「もっと変わったものはないの?」とフランツに要求されて、板前も降参。「今日はこんなところかな。しかし変わった外人さんだねー」。今のように寿司が外国で大はやりの時代と違って、外国人は生魚を食べなかった。

 ミネソタの遠い日々
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 「ここで何を待っているのですか」
イタリアの団体客に尋ねた。
「7時に開く筈のレストランが、7時20分を過ぎても一向に開かないんだよ」
いらいらした様子がみてとれる。大きな扉は閉まったままだ。今日は日曜日なので、本当に開くのだろうかと思えるほど静かである。


 7時30分を過ぎて、やっとマホガニーの大きな扉が開いた。イタリア人のグループは堰を切ったように、アッという間にレストランになだれ込んだ。彼等は一団となって、レストランの中央に陣取ってから、怒濤のごとくカウンターに押寄せた。アッという間に山盛りのパンの山が消えていた。彼等の朝食は勿論コンチネンタル。ジュースもコーヒーもパンも食べ放題。朝食までこんなに食べるとは、イタリア人の胃袋には心底驚かされる。ロール・パンを4つも5つもワイワイやりながらペロリと平らげてしまう。私達は入口側の席に座って、同じくコンチネンタルだったが、パンは1個半も食べればもう入らない。


 15分程でイタリアの一団は地響きを残して一斉に姿を消した。台風一過。今度はウエイター達が後片付けで駆けずりまわる。パック旅行や団体旅行はどこの国民もやることに差はないのだが、何故か日本人の行動は異常に映る。この連中の場合も、旗を振る奴も、ところ構わず大声を張上げて仲間を点検する奴もいなかった。


遠い夏に想いを-バチカン  ローマ駅前でヴァティカン行きのバスを待っていた72年の時の記憶がよみがえった。その朝、整然と列をなしてバスが来るのを待っていた。バスが到着するやいなや、突然、列が崩れ、多くの人が入り口に殺到した。彼らの大半がイタリア人、スペイン人、フランス人などのラテン系の人達で、イギリス人、ドイツ人、アメリカ人、日本人(私たちだけだったが)はあっけにとられて何が起こったのか一瞬理解ができない。何のための行列だったのか、ポカーンとしている。慌ててバスに乗り込んだが、身動きが出来ないほどの混みようだった。(写真はサン・ピエトロ寺院)


 さて、静かになった。私達以外は男性客が2人いるだけ。彼らは新聞を広げて、のんびり読みながらコーヒーを飲んでいる。こちらも別に急ぐ必要が無いので、ゆっくりと朝食を楽しんだ。

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