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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。


遠い夏に想いを-ヒースロー  ターミナル4の英国航空のカウンターでパリ行の搭乗手続きを済ませ、時間潰しに免税店を見て回った。冷やかし半分とはいえ、自然とプライス・タグに目がゆく。タバコはとうの昔に止めた。酒はもともと弱い。アメリカから友人達が来る度にウイスキーやらコニャックを置いて行くので、家には酒ビンが溢れている。免税でも、酒やタバコは買う気にならない。奥様もアトピー気味でブランド化粧品は殆ど肌に合わないし、家には貰いものの有名香水がゴロゴロしている。結局、靴かハンドバッグか装飾品になるが、これも碌な品物がないだけでなく、値段が驚くほど高い。日本では物品税が廃止になって小売価格で20%以上は安くなった。もともとブランド品には関心が無い夫婦なのでこれ以上見て歩いてもしょうがない。


 ビジネス・クラスなので英国航空の専用ラウンジが使える。ターミナル4は左右に細長く、ゲート側に向かって右奥のエレベーターを使って専用ラウンジへ入る。ここは天井の低いコの字型の明るいラウンジで、時間待ちの客で結構混んでいた。席を確保して、新聞と飲物をとりに行く。ここでも新聞と飲物は自由である。ラウンジでの待ち時間は飛行機の中で過ごす時間と同じで不思議と歩みが遅い。

 
 72年に日本航空でニューヨークからパリへ飛んだとき、トランジットでロンドンのヒースロー空港で時間待ちをしたことがある。まだ、古い空港ビルの頃で、少々ごちゃごちゃしていたが、イギリス的な親しみのわくターミナルだった。今の成田をレトロ調にした感じだっただろうか。あの時はヒースローの待合室で時間を潰していた。突然、英語で呼び出しがあって、英国航空のカウンターに来てくれと言う。あの頃は飛行機に乗ると何か小さなトラブルがあるので、またかと少々驚いた。カウンターに行ったら、何のことはない「本人がいるかどうか確認しかったので」というだけだった

 ホテルの玄関を出てから、アッという間の出来事だったので、トランクを運んでくれたボーイにチップを渡す余裕がない。慌ててポケットに手を突っ込んだら、どうにもならない小銭ばかりだったが、急いでいたので、彼にウインクをして「これで全部なんだよ」と渡したら、「OK,OK」と笑って受けてくれた。
遠い夏に想いを-ラマダイン

 ピカデリー・サーカスからピカデリー・ラインに乗り、西へ向かって終点のヒースロー・ターミナル4で降りる。都心から郊外に向かう電車とはいえ、東京に比べて余りの空きように拍子抜けの感じである。東京の朝のラッシュ・アワーではこうはいかない。大きなトランクを持っていたので、他人の迷惑を考えて席には座らず、終点まで約45分程、少々疲れはしたがドアに寄り掛かって車窓からの眺めを楽しだ。


 72年の夏に、ロンドンからパリへ戻った際には、ヴィクトリア駅からフォークストーンまで国際列車で行った。チャールズとお母さんが駅まで送りに来てくれた。「また、すぐ来ますよ」と言って別れを惜しんだ。汽車はゆっくりとヴィクトリア駅を離れていった。
「パパ」(Daddy)
チャオが声をかけた。少し元気がない。
「何だい」
私が答え、隣のママも振り返った。
「パリに帰ると、また困っちゃうんだよね」(When we are back in Paris, I'll be in trouble again.)
気落ちして溜息をつくような声だった。
「どうして?」
「だって、ぼく、フランス語喋れないんだもん」('cause I can't speak French.)


 アメリカにいた時と同じように、英語と日本語の奇妙な親子の会話がロンドンで復活していた。この時のイギリスでの10日間程の滞在はチャオにとって最も楽しい日々だったに違いない。英国の庶民が話すコクニーはアクセントが強く、私たちには分りづらい英語だが、チャールズのお父さんが「チャオは全部理解しているよ」と言っていたように、何よりもイギリスを楽しんだのはチャオだった。


 海外で生活する家族にとっては当たり前の光景だが、2年間アメリカで小学校に通ったチャオは親に英語で話し、親は日本語で話していた。子供はほっておいたら、急速に覚えた外国語を失っていく。少しでも覚えているように、何とかしてあげなきゃと思った。

 朝は早く目が覚める。早起きが日課になってしまった。今日はロンドンからパリへ移動する日だ。ヒースロー空港を午前11時15分発の飛行機だから、8時頃にはホテルを出なければならない。荷作りを済ませて、7時には1階のバーナーズ・レストランへ降りた。昨日と違って、大変に静かである。イタリアのトスカナ軍団の姿はなかった。ノッコも私も昨日同様コンチネンタルで朝食を済ませた。セルフ・サービスみたいなものだから、この方が時間のコントロールがし易い。


 日頃はパン1枚かクネッケを2枚ばかり、ハムかチーズに生野菜を少々、それにミルク入り紅茶というのが朝食の標準メニューだから、コンチネンタルの方が体のリズムに合う。夜はノッコと素敵なレストランへ出掛けるのもいいが、気のきいたホテルで、朝の自然な光が満ちているレストランに座ってゆっくりと2人で朝食を楽しむのも意外とくつろげるものだ。

 トランクをコロコロ押しながら廊下を進んだ。ここのホテルの廊下は淡いピンクと白の配色が美しく、エレベーター・ホールとの間は格子ガラスのドアで区切られている。遠い夏に想いを-廊下
イギリスはイメージ的には男性的な国なのに、室内装飾は大変女性的な優雅さが目立つ不思議なところだ。1階のフロントで支払いを済ませ、外へ出る。たまたま客を降ろしたばかりのタクシーがいた。
「ピカデリー・サーカスの駅まで頼むよ」
「ああ、いですよ」
小柄な年配の運転手が微笑んだ。長めの白髪をゆさゆささせて、太めの体に反動をつけトランクを運転補助席に押込んだ。

 1972年の8月だった。ヴィクトリア駅のフォームでパリへの汽車を待ちながら、「また来ますよ」とチャールズのお母さんに告げて、再び訪れるまでに18年の年月が流れてしまった。あの時は本当に直ぐ来るつもりだった。少なくとも、5年以内には訪れたかった。しかし、アメリカに約2年滞在して、久し振りに帰国した日本はオイル・ショックを迎え、あわただしさが一段と増していった。私の仕事も変わり、生活も変わった。それだけの心の余裕も経済的な余裕もなかった。結局、チャールズのお父さんには2度と会えず終いになってしまった。

遠い夏に想いを-Northwest  今回、航空券を手配しくれた旅行会社の恭子さんにも、「来年にはね」と15年間言い続けて、その度に笑われたものだ。1986年に結婚25年の銀婚記念に2人でノースウェスト航空でアメリカへ旅立った。ノッコにとては14年振りのミネソタであった。やっと恭子さんに世話になったが、彼女は既に結婚し、子供も出来て旅行代理店をやめていた。85年に、彼女は小さな旅行代理業を始め、自分の夢をかなえた。私達はもう若くはないし、残りの人生にも少しは自分の時間に余裕が有ってもいい。

「本当に直ぐ来るぞ!」

私の呟きにノッコは微笑んだ。


 今日はすごく疲れた。オックスフォード・サーカスの駅に着いた時には既に8時を回っていた。とても、これからレストランを予約して出掛ける気力はない。ホテルのレストランにはもう一度という気にもならない。結局、一番早くベッドにもぐり込める方法として、最悪の選択をした。オックスフォード通りのバーガー・キングでハンバーガーとスプライトを買い、ホテルの部屋でかぶりついだ。


 まるで18年前の旅と同じだ。ただ当時はハンバーガー店などなかったから、街で買込んだ食糧を安ホテルの部屋へ持ち帰って、持参の皿にのせて親子3人で夕食にした。だから暖かい食事は夢だった。ハムとか生野菜とかチーズとかパンとか。ジュネーブでも、ローマでも、ウイーンでもこの方式だった。相変わらず貧乏性は抜けないが、これが私達に一番似合っているのかも知れない。


 寝る前に、ノッコはアメリカへ手紙を書いた。ケンブリッジで買った絵葉書がまだ残っていたからだ。ハンバーガーを食べながらテレビを見て、手紙を書いた後にシャワーを浴びてベッドにもぐり込む。ロンドン最後の夕食としては、余りにも侘しい。しかし、いかにも私達らしい。明日はまた大変な一日になりそうだ。早く寝るに限る。

 日曜日とはいえ途中の渋滞は殆どない。ロンドン市内を通過しないのでスムーズだ。バックハースト・ヒルまで2時間もあれば行ける筈である。


 ノッティンガム、レスターと回ってM1を走って帰る方法もないではないが、途中立ち寄って見物する時間がない。我々だけなら何時に帰っても構わないのだが、家ではチャールズのお母さんが1人で待っており、6時頃までには帰宅しなければならない。


 今朝来た道をとって返すことになった。グランサムを回ってケンブリッジまでひた走りに走る。疲労で3人とも無口であった。路面からのこまかい震動とエンジンやタイヤの騒音だけが単調に伝わってくる。外は褐色の乾いた風景が延々と続く。眠気が襲ってくる。ノッコは後ろの席で目をつぶっていたが、私は運転しているチャールズに悪いので、懸命に目を開けていた。チャールズに話かけられても、疲れ果てて英語が言葉になって出てこない。

 スタンステッド空港に近づいた。突然、上空にジェット戦闘機の編隊が低空飛行で頭上をかすめていっ遠い夏に想いを-レッドアロー た。右に左に幾度か旋回しながら飛行を続ける。チャールズが突然左の路側帯に車を停めた。高速道路では危険だと思ったが、数台の車が既に道路脇に停まっている。外へ出て上空を見上げる。赤や青や白のスモークを交互に流して、真赤な小型のジェット機が7機編隊でアクロバット飛行をやっている。イギリスが誇る有名なレッド・アローの面々だ。何度も高度を下げ我々の頭上をかすめてゆく。午後の余興としてはなかなかスリルがあって申し分ない。眠気も吹き飛んだ。


 クィーンズ・ロードを駆け下りて家に着いたのは6時半頃であった。お母さんはソファーに横になって寝ていた。私達はチャールズに夕食の用意をさせるのは可愛そうなので、この近くのレストランで食事をしようと思った。チャールズが近くの中国料理店へ行こうと誘うのだが、お母さんはそこまで歩くのは嫌だと言って反対する。それでは、改装したばかりの向かいのイタリアン・レストランはどうかと聞くと、ボーイはよいが料理が不美味いと、色々気難しい。多分、疲れていて気が進まないのだろう。私達2人は無理をしないで、早めに帰ることにした。


 駅までゆっくり歩いた。チャールズが最後だからと、駅まで一緒に来てくれた。日曜日の夕方、陽はまだ落ちていないが、町は静かで人通りもなく、私達の靴音だけが通りに響いた。プラットホームで別れを惜しみ、「また、すぐ来るよ」と告げて、私達は電車に乗込んだ。電車はバックハースト・ヒルの駅を出て行き、全ての想いが昔の記憶と重なって心の中で交錯した。