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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 誰も迎えに来ないというのも、気が楽で良いのだが、しかし、やはり何となく淋しい。72年のあの時は、富田さんの奥さんのエティエンヌさんが友達の若い男性に車を運転させてオルリー空港まで迎えに来てくれた。富田さんは、ノッコが大学生だった頃に仏文の同期で、その後フランスに留学し、パリの日本航空に勤務していた。エティエンヌさんとは初めてだったが、小柄な彼女の優しい話振りにはフランス女性特有のアクの強さがなく、私達をほっとさせてくれた。


 当時、飛行機はパリの南郊外にあるオルリー空港に着き、市内へは少々殺風景でわびしい田園風景が続いた。
「こんなのパリじゃないや」
突然、チャオが言い張った。車の中では皆がフランス語で話していた。パリでは英語が通じないことに少しばかり不安を感じていたのだろう。
「パリはセント・ポールと違ってすごい街なんだぞ」
飛行機の中でチャオに話していた。ここでも例によってチャオは英語で喋ったので、車に同乗していた皆が大笑いとなった。



 エールフランスの空港バスはエトワール広場まで30分で到着した。ドゴール空港はパリの北西に位置し、距離的には南のオルリー空港より遠いのだが、高速道路を経由して来るので所要時間は短い。


遠い夏に想いを-バス停

 とにかく暑い。さて、予約したホテルまで歩くか、タクシーに乗るか、地図とにらめっこになった。ホテルがあるバッサノ通りはエトワール広場を挟んで丁度反対側にある。歩いてもたいした距離ではない。ノッコは72年のフィレンツエでの苦い経験を今でも覚えていた。貧乏旅行の途中で立ち寄ったフィレンツエでタクシー代をケチって重い荷物を引っ張り、ホテルに向かって石畳の道を歩き出したのである。250メートルほど歩いて、結局、動きが取れなくなり、駅まで戻ってタクシーを連れてくる羽目になった。そんな結末が見えているとノッコは反対したが、私は歩くことを主張した。


 ほどなく、英国航空機はシャルル・ドゴール空港に着陸した。夏の期間ので、ラゲージ・クレーム周辺の混雑振りは尋常でなかった。旅行客があふれ、その上、荷物もなかなか出てこない。30分以上は待っただろうか、ノッコはカートを握ったまま立っていて、コックリコックリ居眠りせんばかりである。疲れた様子だ。倒れそうになると、その度に私がそっと手で押さえてやる始末。


 やっとのことで、トランクを受取って外へ出た。さーて、これからはノッコにお任せである。全てノッコまかせ。



 今はどこの国でも、英語が通じるが、昔は一流ホテルとか有名商店などでしか英語が通じなかった。イタリアの安ホテルなどメイドは英語が駄目で、「フランス語なら話せます」とか、アテネの空港でいつまでも荷物が出てこないので、英語で訊いても理解されず、「フランス語ならで喋れます」と女性の職員にいわれたり、フランス語の力は偉大だった。フランス人は少々英語が解っても、「英語は分りません」と知らん振りをする者が多かった。今はそんな時代ではないが、私が全てコミュニケーションをとるよりも、ノッコにお任せの方が楽だし。



 TCをフランに替えるのに両替所へ行く。フランス人とは思えない金髪の大きなデブ女が小さなガラス張りのブースの中にデーンと座って、横柄な身振りで英語で答える。まるで、コンピュータ仕掛けの両替ロボットみたいだ。入国手続きを済ませてロビーへ出た。


 パリ市内行きのバス・ターミナルへ行きたいのだが、空港内の案内表示が要領をえない。こちらの理解の仕方が悪いのかも知れないが、ノッコでも駄目だ。フランスは相変わらず情報伝達に関しては落第である。アメリカからフランスに来ると良くわかる。アメリカは情報を与え過ぎて混乱する。フランスは与える情報が少な過ぎて意味がわからない。仏語は明晰な言語で、余分なことは不要で罪悪である、と言うのがアカデミー・フランセーズの偏屈じじいどもの誇りだ。

 大学での掲示板にも違いが出る。アメリカの大学で、関係する学生に掲示を出す時は、日時・場所は勿論のこと、理由・趣旨と必要な事前準備に至るまで事細かに明示するのが通例だ。フランス、例えば、パリ大学での経験だが「何日・何時にどこそこへ出頭せよ」としか掲示されない。大学だけでなく社会生活全般にわたって同じ違いが出る。但し、道路名表示だけは、フランスは行き届いていて素晴らしいと思う。どこの国にもいいところと良くないとところがあって面白いし、文句を言っても直るわけでもない。


 結局、一番奥の出口がバス・ターミナルへの連絡口であった。小さなターミナル待合室で切符を買い、15分程待って、白とブルーのエールフランスのリムジン・バスに乗込んだ。

 ミネソタの遠い日々
1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ

 1972年にパリに来たのには訳があった。ノッコの短期留学だ。ノッコは大学の仏文科で卒論にロマン・ロランの『ベートーヴェン』を選んだ。フランス語と音楽家ということで、指導した教授も困ったらしい。彼女がピアノとチェロをやっていたせいだろうか。結婚して、フランス語も音楽も遠い存在になっていた。だが、もっとフランス語が上達したいという気持ちは強かった。


 日本にいたときに留学先の候補を色々検討した。今と違って、留学を斡旋する業者がいる訳ではない。情報が少なく、全て自分で調べて、手続きしなければならない。ナンシーとかモンペリエなど地方の大学も検討したが、結局、パリ大学に落ち着いた。


 日本から直接留学するには規制があり、外務省の試験を通らないと外貨が出なかった。68年頃、規制が改正されて自由に留学できるようになった。但し、外貨の持ち出しは1日10ドルまでだった。


遠い夏に想いを-案内書
 我々の場合はアメリカから行ったので、外貨の問題は無かった。アメリカの殆どの大学は、夏期講習のプログラムとして、例えばフランス語なら、フランスの大学と提携して講座を開いている。ミネソタ大学はレンヌ大学と提携していた。ノッコはパリ大学に決めていたので、アメリカから直接パリ大学の分校に手紙を出して申請した。アメリカに居るのに、大学の仏文クラスを聴講し、フランス語ばかりやっていた。


 ミネソタ大学で2年弱を家族と過ごし、夏休みと同時にパリに来た。パリでは私とチャオには時間は有るが、予定は何も無かった。チャオを相手に3ヶ月間パリで過ごしたが、滞在の後半に、10日ばかりイギリスに行った。英語が喋れる国だからチャオには大変楽しい旅行だったと思う。今回(90年)の旅ではイギリスからスタートしたために、フランスでの話が後回しになってしまった。


 この72年の旅行から帰って、再びアメリカやヨーロッパに行くまでの間、月に1度は夢を見た。どんな夢かというと、ミネソタでもパリでもロンドンでも、ある目的地に行こうとして、行けども行けども到達しない。そのうち迷路に入り込み、迷子になってしまう。毎回、同じような夢だった。それが、一度ミネソタやパリやロンドンを訪れた後は、不思議とそんな夢は全く見なくなった。夢判断で分析すると、フロイト先生、どうなっているのでしょうかね。

 ミネソタの遠い日々
1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ

 72年の6月上旬だった。ミネソタ大学での約2年間の留学生活を終えて、ヨーロッパへ渡るためにニューヨークへ飛んだ。親友の本多君のアパートに1週間ほど泊めてもらった。 あの時は、パリ大学で夏期講座を受けることが奥様の目的だったから、ニューヨークからロンドンでトランジットをしてパリへ直行した。当時、日本航空の大西洋線はニューヨークからロンドンまでだった。ロンドンからパリまでは英国航空に乗り換えなければならない。


遠い夏に想いを-New York  ニューヨークを発つ時、ケネディー空港で、「プロフェッサー・・・さん」で始まるアナウンスで呼び出された。日本航空のカウンターへ行くと、パリの富田さんから「オルリー空港でお待ちしています」のメッセージがあった。「プロフェッサー・・・・」はノッコと大学時代の同級生だった富田さんのユーモアであった。当時、富田さんは日本航空のパリ支店に勤務していた。


 ニューヨークを夕方に発って翌朝にはヒースロー経由でパリに着く。ニューヨークを発つ時に、「家族サービスです」などと告げられて、日本航空の係員がチャオの胸にワッペンを張付けた。しかし、ワッペンだけで、機中では『家族サービス』のサの字の配慮もなかった。古いDC8の機内はガラガラだった。離陸と同時に搭乗客は夜の睡眠用の座席とりに機内に散らばっていった。私達は「家族サービスです」との配慮で一番前に座らされていたので、この様子に気が付かなかった。


 結局、私達以外は各人『ベッド』付きとなった。夜遅くなって、近くの席にいた日本人のお母さんのが見かねて、チャオに席を譲ってくれた。小学生と中学生の2人の子供連れで、中西部のミシガンから来たそうで、ご主人がロンドンに転勤することになったので、夏休み(欧米では秋が新学期)の開始と同時に家族全員で引越しをし、ロンドンへ行くところだという。親切に感謝! 旅は道連れ、世は情けである。


 緑の絨毯のように広がる畑や牧草の上を英国航空のDC8が滑るように飛んで行ったのを覚えている。パリはもうすぐだ。

 ミネソタの遠い日々
1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ


遠い夏に想いを-Old fashioned  今はどこの空港も機能的で、内装や人工照明がコンピューター・グラフィック的でモダンではあるが、最新のホテルかショッピング・センターのようで、余り好きになれない。アメリカの空港もみな同じで、デズニーランドの世界みたいだ。ロンドンやパリの鉄道駅のごとく、人間味溢れる昔のターミナルは旅の気分をいやがうえにも高揚させ、旅の醍醐味を満喫させてくれるのに。



 今年の12月にはドーバー海峡の海底トンネルの試掘坑が貫通する予定だ(90年8月時点ではまだ完成していなかった)。当時の新聞は海底トンネルの話題でもちきりだった。フォークストーンからカレーまで海路では約38キロ、海底トンネルでは約49キロと少し長い。トンネルの全長では津軽海峡の青函トンネルに及ばないが、海峡部分では世界一である。1993年には本坑が完成し、国際特急列車が3時間でロンドン・パリ間を結ぶ。この次ドーバー海峡を渡る時は、海底を汽車で行きたい。


 ほぼ定刻に搭乗が始まった。11時15分発英国航空308便のDC9は満員という程ではなかった。いかにもイギリス娘らしいスチュワーデスが元気よく通路を歩き回る。飛行機はほどなく離陸した。ロンドン上空を旋回し、高度を上げ、ドーバーの白い壁を越え、英仏海峡に達した。窓の外は昔と同じように青と光だけの世界となり、私達を過去の想いへ引ずり込む。


 パリへは1時間ほどで着く。海峡を越えてノルマンディーの上空で、飛行機は高度を下げる。眼下には刈入れの済んだ畑が点々と広がっている。