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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 カルチャーショックは文学とも、美術とも、音楽とも関係がない。生活様式と思考形態と行動様式の違いに過ぎない。それは歴史と文化に根ざしているのだろう。自然に醸成され、長い歴史のうちに形作られたものだ。フランス人はこれを頑固に変えない。それはフランス人の誇りでありアイデンティティーだから、変えたらフランスでなくなってしまうという無意識の恐怖感があるからだろう。


 パリでは日本人の私だけでなく、友人のアメリカ人も、イギリス人も、ドイツ人もみな同じようなショックを受ける。郷にいれば郷に従えを実行しようとするのだが、余りに郷が変わっているのでなかなか従えない。


 しかし、自分たちのことを考えれば、それは自己中心的な考えだと分る。日本を訪れた欧米人は日本文化や生活習慣に戸惑うだろう。如何にそれらが彼らのものと異なっていることか。まるでエイリアンの世界に来たかのように思うだろう。人間の行動には、それぞれの国によって異なる基準がある。それが余りかけ離れていればいるほど違和感や反感につながる。ただ、日本人は素直で謙虚で自己を主張しないので接し易い。だが一面、何がなんだか分らない不気味さがあるかも知れない。


 一週間程度の滞在ならそんなことも気づかずに過ごせる。3ヶ月や4ヶ月では落ち込む人が多い。1年も居ると何とかやっていけるらしい。それでも駄目な人は駄目のままで、もっと落ち込むらしい。この辺の事情については当時パリに長く滞在して、オペールをしていた洋子さんが教えてくれた。


 私たちもアメリカに初めて行ったとき、ノッコがしきりと日本を恋しがった、帰りたい、帰りたいの気持ちが伝わってきた。しかし、1年も過ぎると現地での生活にもカルチャーにも馴れ、2年後の帰国時にはもう帰りたくないと言いだすほどになった。ただ、外国に帰化するか、外国人として住むかで大きな違いがある。外国人として住んでいると、日本特有の煩わしい人間関係ぬきで生活できて気楽だが、移民として生活するのは大変だ。歯車の合わない生活を我慢しなければならないだろう。


 今回も、何か情報が得られるかとここに来てみた。今でもこの旅行案内所では何も出来ないと言う。それだけではない。相も変わらず愛想が悪い。いかにもフランス的というか、パリ的というか、昔と何も変わらない意固地さがおかしい。旅行案内所としてシャンゼリゼに店を構えるからには、利用客の大半が外国人の筈だ。汽車の時刻を知りたければ、店先のラックに置いてあるバラバラの時刻表を見ろ、予約の状況はCRTの画面を自分で操作して調べろ、更に細かい情報はそこに有る電話で駅に直接きいてくれ・・・。それなら、係員など要らない。守衛が一人いれば事足りる。ノッコの仏語での懸命のやりとりも空しく、「ここは、パリさ」の捨て台詞を私は吐き捨てて外へ出た。切符は明日の朝モンパルナス駅へ行って手に入れることにする。

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1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ

 シャンゼリゼ大通りの南側には何故か飲食店が多い。各店にはテラスが有って、一見同じような店構えだが、飲物中心のカフェ、食事中心のレストラン、入口はカフェで奥はレストランの混合型の違いがある。その他、ビストロ(居酒屋)があり軽食も出す。


 昔、富田さんが昼食に招待してくれた日本航空の支店の近くにあるレストランもそのままであった。当時は貧乏旅行で、レストランで食事をするなんてことは贅沢の極みであったから、シャンゼリゼ大通りのレストランできちんと昼食をとったことがない。この時が最初で最後であった。赤葡萄酒を傾けながらの食事はとても美味しかった記憶がある。72年のパリ滞在中は、シャンゼリゼ大通りから一歩入った所にあったセルフサービス方式の安レストランに時折足を運ぶのが精一杯だった。


遠い夏に想いを-TI  エールフランスの営業所の近くにある旅行案内所に立ち寄った。レンヌに行く汽車の時間と予約状況について知りたかった。案内所の中は昔のままだが、現在は旅行案内所の体裁をなしていない。入口の辺りは余り役に立ちそうにもないパソコンの画面が並び、ゲームセンターのなりそこないだ。一段低い右手奥のカウンターには係員が数名いた。ここだけは昔と同じであった。


 18年前パリからロンドンへ行った時に、ここで旅行について教えてもらおうと思った。当時も決して親切な対応でなかったが、すったもんだの挙句、料金、時刻など最低の情報は手に入れることは出来た。


 当時、最も強いカルチャーショックを受けた国はフランスだった。「パリはフランスではない」とよくいうが、我々にとってはパリはフランスであった。


 私達は東回りでアメリカに行き、そこで生活をした。殆どカルチャーショックらしいものは経験しないですんだ。戦後いかに知らず知らずのうちに日本がアメリカナイズされていたか気づいて驚く程であった。


 更に東へ飛んでフランスに渡り、初めて経験するショック、しかもパリは特別というか、ひどいショックだ。自分の経験では、文学も、美術も、音楽も、『アメリカ』よりも『フランス』に慣れ親しんで来たと思っているから余計ひどい。

 ロンドンとパリでは時差が1時間あり、バッサノからマリニャンへの移動騒動もあり、既に4時を回っていた。時間がないので、ジュディの家に行く前に、シャンゼリゼを散歩しお土産を買うことにした。


 ホテルの前のマリニャン通りを右へ100メートル程歩くとシャンゼリゼ大通りに出る。そして目の前が地下鉄のフランクリン・ルーズベルト駅である。ホテルとしては少々便利過ぎる。変に聞こえるかも知れないが、私達は左岸のカルチェ・ラタン地区かその周辺を希望していたのだが、日時に余裕が無く予約が取れなかった。

遠い夏に想いを-エトワール広場  先ず、シャンゼリゼ大通りを上がる。大通りの沿いのカフェには観光客がテーブルに群がっている。私達も飛行機を降りてから何も口にしてなかったので、一軒のカフェに寄り、店先のテーブルに腰をかけた。


 ギャルソンは日本人と見るや下手な日本語で下品なことを口走る。日本の若い観光客の連中が面白半分に教えたのだろう。彼等も個人で行動しているなら、こんな馬鹿げたことはやらないのだろうが、団体となるとまるで別人のように振舞う。救いがたいが、ギャルソンに罪はない。


 久しぶりに苦いコーヒーで喉を潤しながら、まわりの心地よい騒音、光輝く表通り、行きかう人々や車、きびきびとした人の動きと弾けるようなフランス語の響き。パリに戻って来たんだなあという実感がわいてくる。何か昔を懐かしむようにじっと思いを巡らせて座っていた。


 通りに面したカフェのほとんどは18年前と殆ど変わっていない。角のフーケも時間が存在しないかの如く全くそのままであった。もしかしたら、フーケは、往年のシャルル・ボワイエとイングリット・バークマンの『凱旋門』の暗い時代と全く変わっていないのかも知れない。遠い昔に見た映画の場面を思い出していた。覚えているのはフーケの場面だけだった。


 戦後の何も無い時代、小学校の高学年か中学の頃だったと思う、よく姉や母親に連れられて洋画を見に行った。グリア・ガースンの「キューリー婦人」とか「心の旅路」とか、「わが谷は緑なりき」とか、ジョン・ウェインの西部劇が見たい年頃だたのに。


 しかし、変わらないことにこれほど価値を置くことは、フランスに限らず、ヨーロッパでは当たり前のことなのだろう。残すために頑固なだけでは説明のつかない一種の精神がある筈だ。『残る』のではなくて『残す』のだろう。我々とは根本的に違う。アイデンティティの求め方が違うからだ。

 フロント係りはナポレオンみたいに真丸い顔をした小男だ。フロントやロビーや右手のレストランなど新しい感じの作りなのだが、57室の四つ星ホテルとしては余りにも安っぽくて特徴が無い。星の数に必要な設備だけ揃っていればいいという感じだ。

遠い夏に想いを-窓01  奥の小さなエレベーターで5階へ昇った。降りて直ぐ前が我々の部屋である。ドアを開けようとするが、どうしても開かない。どうにもならないので、1階に降りて、例のボーイをつかまえ、部屋までつれて来てドアを開けさせる。
「キーを挿し込んだら、取手を手前に引いて、キーを回して鍵を開けて下さい」
 こんなドアの開け方は世界中でもフランスだけだ。フランスのいやらしさが段々と過去の記憶の底から蘇ってくるのを覚えた。



遠い夏に想いを-窓02
 部屋の中は1階のロビーの安っぽさに比べて、グレーを色調とした、なかなかシックで、アールヌーボー風なところが洒落ているが、四つ星クラスとは言い難い。窓からの眺めは、市街ならどこでも同じで、左手にエッフェル塔の一部が屋根越しに見える。体を乗出すと右手にはシャンゼリゼ大通りが見える。



 まず、フランスでの予定を確認する必要があった。何よりも、電話をかけなければならない。最初に、パリのポールの家。ジュディが電話に出た。何年振りだろう。少し甲高かった声が、歳のせいだろうか、しっかりして落着いた声になっていた。
「引っ越したばかりで、散らかっているけど、今晩来ない?」


 次は、レンヌのフィリップの家に電話を入れた。フィリップが出た。相変わらず少しかすれた声でそっけない話しぶりである。パリを発つ汽車が決まったら、もう一度、知らせてくれとのことで電話を切った。


 フィリップは1985年頃だったろうか、東京で開催された農業経済の世界会議に出席するために日本を訪れている。久々に会ったフィリップだが、レンヌ大学の農学部学長らしく恰幅がよくなり、ミネソタにいた頃のイメージとはかなり違っていた。

 凱旋門を中心に時計周りに広場を歩き出した。昔、パリには3カ月近く住んでいたから、この辺りは何度も歩いていたので、地理には少々詳しいと思っていた。しかし、建物と道は殆ど変わっていないのに、18年間に細かい記憶と勘が失われている。距離はたいしたことないのだが、この猛暑の中でバッサノ通りの石畳の凸凹坂路をトランクをゴトゴト押してゆくのは全くシンドイ。

  

 そこで、パリで18年振りに新しい発見をするのである。パリには坂道が多い!坂はモンマルトルだけではないのだ。
 

 ホテル・エリゼ・バッサノは右岸の16区にあり、J・ジロー通りとの角にある40室のこじんまりとした3つ星ホテルである。角の入口から入ると、小さなフロントがあり、係りの若い女の子が豊かな胸と輝くばかりの金髪をゆすらせて、しつこそうな中年の男性客を相手に悪戦苦闘していた。


遠い夏に想いを-マリニヤン  やっと、こちらの番になったと思ったら、彼女は思いもかけない事を言う。
 「申し訳ありません。先客が滞在を伸ばしたいと言って部屋を出ないのです」
やりとりはノッコまかせだが、これには弱った。
「でも、ご迷惑はお掛けしません。グループ内のホテルのエリゼ・マリニャンに部屋は手配してあります」
「・・・・・」
「四つ星クラスのホテルですからここよりは上等です。料金はここと同じで結構です」
「どうやって行ったらいいの」
「すぐ近くですが、タクシーで行って下さい。タクシー代はホテル側で払います」(写真:ホテルの窓から右奥にシャンゼリゼ大通りを見下ろす)
 

 マリニャン通りは隣の8区にあり、ここから歩いて行ける距離だが、歩くのはもうご免だ。タクシーを拾う。ホテルに着くと、若いボーイが出てきたので、「おーい」と少々唐突ではあったが怒鳴ったら、この男、ホテルの中へ消えてしまった。仕方無くタクシーの運転手に金を払い、「レシート」と言ったら、「レシートはない」と運転手は車を走らせて、あっという間にいなくなった。