遠い夏に想いを -215ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 正面玄関の大きなガラス戸を押してなかに入った。左奥に管理人室がある。決して広い部屋ではない。ジュディが出てきた。72年にミネソタからパリに来て、オデオンのホテル・コンデでポールと同棲していた頃のオドオドしたジュディの姿はなかった。一家の主婦としての貫禄が滲み出ている。1年後の73年に2人は正式に結婚した。そして新婚旅行で日本へ来た時に、東京の中野にあった私達の狭い木造アパートを訪れてくれた。あれ以来だから、17年振りである。


 ポールが入ってきた。少し肥って老けたが、歳だからお互いに仕方がない。しかし、昔の溌剌とした元気さが消えて、少し気力がない。その分、ジュディが気丈夫になった。夫婦とはこんなものかも知れない。


 引越したばかりで部屋の中が雑然としていて、夕食の用意が出来ない。会えただけでも夢みたいなものだから、このまま帰ろうと思ったが、ジュディが外で一緒に食事をしようと言い張る。『マンション』の管理に誰かが残らなければならないルールがるので、ポールが残るという。と言うのは、ここの『マンション』は2家族で管理しているが、ヴァカンス中なので、ポール達しかおらず、出かけけられないのだと言う。


遠い夏に想いを-moulin  私達とジュディと娘のカロリーヌと近くに住む彼女の遊び友達の5人で外へ出た。ヴァカンス期間中、特に、8月の上旬から中旬にかけては、店を閉めているレストランが多い。夏のパリは小さな三つ星ホテルでも毎年8月は休みになる。開いているのはインド料理店くらいだが、私達は余り気が進まない。辛い料理が苦手なのと、パリまで来てインド料理というのも興ざめである。


 なにせ、欧米にきたら日本料理店に入るのも馬鹿らしいと思っている夫婦だから。日本料理が食べたきゃ日本で食べたほうが美味いに決まっているし、値段も日本のほうが絶対い安い。


 開いているレストランはないかと、通りの人達に聞いて回っているうちに、結局、ピタール通りとラ・コンベンション通りの角まで来てしまった。やっと、開いているレストランがあった。『ル・ムーラン』(上の写真)というテラスのない小さなレストランである。東京だと荻窪あたりにありそうなフランス料理店という感じだろか。さして広くない店内だが、ゆったりと席がとってあるので落着いて寛げるのがいい。

 ミネソタの遠い日々
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 シャンゼリゼ・クレマンソーの駅で、思いがけず乗換え通路を間違え、13号線のホームへ出る筈が外へ出てしまった。自動改札のため後戻りができない。切符を損したし、少々腹立たしいが、自分の責任だからしょうがない。新しい切符で別の改札口から入り直す。その後も乗換えする度に、通路を間違えていた。その度に歳と視力の低下のせいにしていた。


 72年の頃はエトワール駅から西に延びる新しいデファンス線(現在は1号線)だけ自動改札が採用され、その他の在来線は全て係員がいる改札口で、乗換えを間違えるなど考えられなかった。駅の係員はその昔は女性が多かったらしいが、72年の頃は殆ど男性だった。のんびりとした改札風景で、独特の制服と帽子の改札係とも会話ができるほどだった。ある日、"MInnesota"と胸にロゴが入ったスウェットシャツを着ていた。
「なんじゃ、そのミ・ネ・ソ・タって」
「これですか、これはアメリカの州の名前で、大学のシャツですよ」
「うん、ミネソタ、ミネソタか」
通りがかりに、こんな会話が出来るほど余裕があった。


 20分ほどでプレザンス駅に着く。外は太陽が傾き夕暮れが迫っている。駅の近くのパン屋で手土産に箱入りボンボンを買う。どうした事か、ここでも道を間違えて、時間を無駄にする。欧米では道路に路線方式・通り名方式をとっているし、地図との整合性が完璧だから、地図さえ持っていれば、間違えることは殆どない筈だ。駅まで戻って、地図で再確認した。ここの交差点は4つの通り名の始点になっている。その一つがアレジア通り。


 昔、地下鉄のグラシエ駅が最寄の駅だった。駅を出てしばらく行くと、アレジア通りにでる。西に折れて、通りに沿ってしばらく進むとアレジアの駅に着き、さらに歩くとプレザンスの駅に着く。ここがアレジア通りの始点だった。かってアレジアの駅まで歩いた記憶がある。これを忘れて歩き廻ったために迷子になってしまった。


 鉄道のガードをくぐり抜け、ピタール通りに出た。月曜日の夕方とはいえ、街には不気味なほど人影がない。ヴァカンスで誰もいなくなったのだろうか。今ではヴァカンスをとる人達がだんだん少なくなってきたらしい。世知辛い世の中になってきた。しかし、今でも小さなホテルや商店などヴァカンスのために店を閉めてしまう所が多い。


 狭い通りの右手に30階くらいの高い建物が見える。その前を10歳前後の女の子が2人こちらに向かって元気よくやってくる。
声をかけられた。そして、我々が訪問客と分かると、
「ママが待っています。もしかして、場所が分らないのかも知れないって言うから」
ジュディの娘のカロリーヌだった。
いかにもフランスの女の子らしく、口を尖らせて、機関銃のようにポンポン喋る。友達と踊るようにリズミカルに、明るく賑やかに話しながら歩いている。この子達にここで会わなかったら、ジュディたちの住み家はとても捜し当てられそうもなかった。チャオからの電話といい、この子達との出会いといい、何か幸運に恵まれた旅である。

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 エトワール広場まで歩いて、シャンゼリゼ大通を渡る。案内所で貴重な時間を無駄にしてしまった。ジュディの子供達に何か手土産をと思い、角のコンビニに入り、チョコレートかボンボンを探すがまともなものがない。不思議なことに、この辺りには菓子屋が一軒もない。


 その昔、パリに住んでいた頃は菓子屋など探したことが無かったので、新しい発見であった。昔は通りのこちら側は映画館の多い所であったが、確か、ボンボンの秤売りをしている小さな店が一軒あったと記憶していた。止を得ず店を出て、ウインドー・ショッピングをしながら散歩することにした。


 だんだら坂をリドのアーケードまで歩いた。懐かしさを急に感じてアーケードの中を覗いてみた。1926年につくられたこのアーケードは、パリの地下鉄の入口と同様にアールヌーボー風の柔らかな曲線と色彩に溢れ、ベルエポックの華麗さが漂っていた。当時は既にオート・クチュールはフォーブル・サントノレ通りに集中していたが、まだ、このアーケードの中には結構高級な洋装店が数多くあった。今は、どうでもよいアーケードに成り下がってしまっていた。


 フランクリン・ルーズベルト駅から地下鉄に乗った。ノッコのすめで切符は回数券を買うことにした。旅慣れてない割りには頭の回転がいい。今回のパリは地下鉄だけで回れるし、同一料金だからこのほうが便利である。地下鉄のプレザンス駅へは、1号線に乗ってシャンゼリゼ・クレマンソー駅まで行く。ここで13号線に乗換え、シャティヨン・モンルージュ行の電車に乗る。


遠い夏に想いを-subway  昔はシャンゼリゼ・クレマンソーは乗換駅ではなかった筈である。当時、13号線はポルト・ド・クリンシー駅からサンラザール駅までの短い線だった。またアンヴァリッド駅から北のポルト・ド・ヴァンヴ駅までが14号線であった。現在はサンラザール駅とアンヴァリッド駅との間が、シャンゼリゼ・クレマンソーを経由して、全路線13号線となった。時代が変わるのだから、何かが変わり、便利になる。


 当時のパリの地下鉄は古臭い車両で黒光りのする外装と、内装もひどくていやな臭いのする電車だった。外側からボタンを押して自分が乗るドアを開くのは今も変わらない。閉まるときは、車掌が圧縮空気で同時に全部のドアを閉めてくれる。ロンドンの地下鉄の方が遥かに近代的だった記憶がある。但し、この方式は目的は違うが、ある意味便利で、現在、相模線の車両にも使われている。特に、冬場の寒風を避けるために、自分でボタンを押してドアを開き、乗ったら自分で閉める。乗客にとっては有り難いシステムだ。


 東京は地下鉄に限らず、公共交通機関の混雑ぶりが最悪である。ラッシュアワーだけでなく、日常的に満員状態である。都市が広大で、人口密度が如何に高いかが分る。その上、ヨーロッパの住状況と異なり、都心部に生活の場がなくて、郊外に分散していくから、都心との往復に乗り物が欠かせない。その上、乗客のマナーは悪くなる一方だ。

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遠い夏に想いを-アリアンフランセーズ  パリに着いて直ぐだった。ノッコはクラスに出ていたのでチャオと2人で、ラスパイユ大通りにあるアリアンス・フランセーズに出かけた。


 結構大きな語学学校で、受付は人でごった返していた。先ずチャオが入れる授業があるかどうが聞いた。
「子供のためのフランス語クラスはありますか」
「あります」
事務的な冷たい感じの答えが女性係員から返って来た。
「何歳ですか」
「6才です」
「6才では入学できません」
これにはかなりショックだった。周りを見回すと、イギリスの子供が入学OKになって帰って行くところだった。どう見ても7才には見えなかった。
「あの子は何歳ですか」
女の事務員は、私が指差す方を見た。
「6才です。もう直ぐ7才になります」
「この子供も8月には7つですが」
「あの子はイギリスから来たので、困った時には英語で通じます」
「この子も、アメリカで2年間学校に通って、英語はぺらぺらですが」
「それでも駄目です」
私は頭にきて、大声で怒鳴った。
「これは何かの人種差別ですか」
「そんなことありません」
「この子はあなたよりも遥かに素晴らしい英語を喋りますよ。英語の問題ではなく、差別の問題でしょう」


 小学校のように7才になっていなければ全て入学は出来ないというのなら、なるほど、仕方がないとあっさり諦めるが、これでは人種差別としか考えられない。「日本人?」って何者?とでも言いたげな態度。日本製品も日本文化も関心がない。極端に言えば「フジヤマ・芸者」さえ知らない時代だ。今とは隔世の感がある。
いま思い返すと、旅行中はあちこちでよく怒鳴っていた。
「何を言われても、駄目です」
かたくなな態度を崩さなかった。


 理屈で交渉しても変わらないのなら、怒鳴って言いたいことを言うのが主義だった。
例えば、別の方法はないか考えてみた。私のクラスにチャオは入れないので、チャオは途方に暮れてしまう。私は高校時代に課外活動でフランス語をとっていたし、大学でも第二外国はフランス語だった。フランス語経済をとったのを覚えている。その後、興味を失いフランス語も喋れなくなっていた。折角、フランスに来たのだからと思ったが、私がフランス語のクラスなど探しても無駄だった。


 フランスの女性大臣が「日本人はウサギ小屋に住んで・・・」と言ったとか、溢れる日本からの輸入品を税関でストップさせるとか、そんなに昔のことではない。日本に対するものの見方に少々偏見があるだけだ。 今は日本の文化、特に食文化とかマンガ文化などのサブカルチャーがブームだからといって、日本人は浮かれていてはいけない。『東は東、西は西』なのだ。


 パリが嫌いになった最初の体験だった。そこで、来る日も来る日もベビーシッティング生活が始まった。当時は、フランスではイギリスよりも人種偏見が少ないといわれていたのに、このことはかなりのショックだった。


 チャオにとってもパリは辛い街だったに違いない。イギリスからの帰途、汽車の中でもらしたチャオの一言でも判る。もし、ここでフランス語を学ぶチャンスがあったら変わったかも知れない。第一、英語をマスターしてしまえば、ヨーロッパ語族の言葉ならすぐに覚えるものだ。日本に帰ってから、フランス・カトリック系の学校に復学したが、あっという間にフランス語を覚えてしまったのだから。

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 エトワール近辺には思い出があった。72年にパリに着いてから2週間ほどして、ミネソタの友人のブルースから小切手が送られてきた。ファースト・シカゴ銀行振り出しの小切手だった。アメリカで入っていた自動車保険を中途解約したので、掛け金の残金が日割り計算で戻ってくるはずだった。その受け取りをブルースに頼んでおいたのだ。


 エトワール広場の近くにファースト・シカゴ銀行の支店があった。20ドルほどの金額だが、当時は貴重だった。中年の男性行員が出てきた。
「すぐには、換金できません。口座に入れて1週間くらい経ったら換金できるのですが」
「何故ですか」
「アメリカの本店に確認をとる必要があるからです」
「ある意味で、それは判りますが、金額は少額だし、何よりも、そちらの銀行自体が振り出したマネー・オーダー(銀行振出小切手)ではないですか。日本に帰ってからでもいいが、3ヶ月以上も先だし、提示期限も過ぎてしまうし」
はたと困ってしまった。
出来ない出来ないと主張するが、こちらも「それはおかしいよ」と、必死に粘って換金してもらった記憶がある。得になるなら「粘る」という性格ではない。しかし、理屈からいってもおかしいから粘った。


 当時、フランの値打は遥かに高く、1フランが60円くらいだった。アメリカは経済状態がひどくて、失業率は7%以上、為替相場は安定せず、街の両替商では商いが停止したりする始末。71年8月にドル・ショクが起きて、変動為替相場制が導入されていた。円・ドルは固定相場で360円だったものが、1ドル308円までドルが安くなっていた。


 そうゆう時は、少し遠いけれども、アメリカン・エクスプレスに行き、ドルをフランに変えた。すごく混んでいた。4~5ヶ所の窓口におのおの20人くらいの行列があり、かなり時間がかかったのを思い出す。アメリカン・エクスプレスは何があってもアメリカの名誉にかけても両替してくれるので、街でどうにもならない時には助かった。


 ある日、チャオをつれてアメリカン・エクスプレスの店に行った。相変わらず長蛇の列に我慢して並んでいたら、チャオが珍しくいらいらしてブスブス不平を言い出した。私がたしなめたら、いきなり叫んだ。
"You stupid dumb dumb, Daddy!"
(日本語に訳したらとんでもない言葉で、親に対して喋る言葉ではない)
私も大声で叱ることもできす。小声でたしなめた。
隣の列にいたアメリカ人のお父さんが笑いながら、「どこの子供も同じだね」とウインクした。丁度、チャオと同じくらいの歳の男の子が一緒だった。


遠い夏に想いを-opera  アメリカに居たときは為替のことは余り考えなかった。だから、ミネソタを発つ時に、ファースト・ミネアポリス銀行から全財産(大した金額ではなかったが)をフランスの銀行へ送金しておいた。パリに着いて直ぐに、オペラ座の近くのクレディリヨネ銀行へ行き、送金をフランで受け取った。予想していたよりも遥かに少ない金額だった。送金手数料と為替の影響で固定相場制の時に比べて20%くらい少ない。こんなにひどいとは思わなかった。

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