遠い夏に想いを -214ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 モンパルナス界隈はスキップすることにした。古いカフェなど時間があれば訪れたいのはやまやまだが諦めた。モンパルナス墓地も次回にしよう。


 カフェを出て、何を考えたのかメーヌ通りをラスパィユ大通りへ向かってブラブラ歩きだした。やはり無意識に、ロトンドに心が向いていたのだろうか。モンパルナスからリュクサンブール庭園は近い。このままラスパィユ大通りまで真直ぐ行ってしまうとリュクサンブール庭園がどんどん遠くなる。

遠い夏に想いを-並木道  『天文台の泉』の入口から入る手もあるが、庭園の中心まで延々とのびるオブセルバトワール通りを歩かなければならない。この道は人通りの少ない素敵な小道だが、これでは逆に遠回りになってしまう。今日は時間がないのだから最短で行かなければ。


 それに気づいて、メーヌ通りを戻り、通りを途中で東へ抜けて、ヴァヴァンの店の手前を通って西側からリュクサンブール庭園へ入った。


 パリ大学の第5分校の横を抜けると、朝の透明な陽の光に鮮やかに輝いている庭園の緑が眼に飛び込んで来た。暫く歩いていくと、あちらこちらで芝生に散水している。シュシュと音をたてながら霧となって水が回っている。


 老人がひとり椅子に腰掛けて、日だまりの中でじっと動かない。少し離れたところでは白いブラウスの若い女性が本を広げて椅子に座り、木の葉の間から漏れてくる柔らかい朝の光を楽しんでいる。


「あー、やっと戻って来たね」
感慨がこみあげてくる。ノッコも同じ気持らしい。18年ぶりだ。顔の表情で判る。


 大きな樹々のなかを小道にそってゆっくり歩く。イギリスでは余りにも緑が枯れていたので、たとえ散水してでも、これだけ緑が美しいと心がスーッとなごむ。


遠い夏に想いを-庭園01  人形劇(ギニョール)の小屋の前に出た。今日は小屋も閉まっていて、ひっそりと人気もなく静まりかえっている。でも、目を閉じると、大勢の幼い子供達の喚声や落胆の溜息が聞こえてくるようだ。

「そら、やっちゃえ!」

「後ろからくるぞ! 逃げろ!」

子供たちがワイワイ叫んでる。チャオも仏語が解らないながら、あそこに座って手をたたいて楽しんだ。そんな情景が昨日のように目に浮かぶ。

 そしてその前方に、リュクサンブール宮と正面の池が蜃気楼のように眼前に浮かび上がっている。

 ミネソタの遠い日々
1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ

 モンパルナス駅を出た。切符の心配が無くなったら、急に空腹が襲ってきた。まだ、朝食を取っていなかった。イギリス式のあの優雅なブレイク・ファストは夢のまた夢である。ここはコンチネンタルの本場だ。腹が空いても、郷に入れば郷に従えである。


遠い夏に想いを-モンパルナス2  モンパルナス通りをヴァヴァンの方まで行けば、クーポールとか、ロトンドとか、セレクトとか、今世紀初頭に芸術家・文人の活動場所として、パリが世界のリーダーシップをとっていた頃の懐かしいカフェの多くが今も残っている。これらの店で朝食をとりながら、ヘミングウェイやフィッジェラルドのようなロスト・ジェネレーションに思いをはせ、貧しいモジリアニがうろつく姿を想像し、コクトーやアポリネールの詩の一節を思いだし(これは今では記憶喪失で無理か)、ストラビンスキーの華やかな響きに心の耳を傾けるのもパリへ来た楽しみの一つの筈だが、今の私達にはそんなのんびりしている時間はない。


 駅前にカフェが2,3軒ある。広場の角の店は大きいが、ギャルソンが開店前の掃除に余念がないので、メーヌ通りに面した隣のカフェに入り、店先のテーブルに腰を下ろした。客は殆どいなく、作業員風のがっちりした体格の男が通りに視線をじっと向けたまま『朝飯を食って』いる。小柄だが骨ばったオーベルニュ風の中年のギャルソンがきびきびとした受け答えで注文を取りにくる。洒落気一つない女や男が時々気忙しそうに店の前を通り過ぎてゆく。駅もモダンになり、更に、駅前にトゥール・モンパルナスなどという57階建てのビルがおっ建ても、モンパルナスはモンパルナスだ。昔のゴチャゴチャした雰囲気は失われたが、下町の人達の気質はそう簡単には変わらない。


 クロワッサンもカフェ・オレもよそより心持ち大きめで美味しい。「コンチネンタルは愛しのロンドンより、やはりパリの方が美味しい」などと当り前で馬鹿げたことを言いながら食べる。パリもロンドンと同じく早朝はかなり温度が下がる。半袖では肌寒いこともある。空腹では特にこたえる。コーヒーで体が温まった。センティメンタル・ジャーニーの準備完了である。何よりも心に残っている場所を訪れることが最優先である。たった2日や3日ではそれを全部訪れられないとは分っていてもだ。

 ミネソタの遠い日々
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 72年の夏を思い出した。7月14日の朝、花火と飛行機の轟音と共に革命記念日の1日が始まり、繁華街の騒音と喧騒のうちに1日が終わると、次の日からは街の様子が一変した。ヴァカンス第1陣がパリを抜け出すと、車道からは車の姿が消え、商店の入口にはヴァカンスの告知が貼りだされ、街は静まりかえって、通りの大半は残った外国人に占拠されてしまう。今ではこれほど極端ではないが、やはり夏場は観光客が圧倒的に多い。


 切符売場の係員は若くて痩せぎすの男性で、フランス人には珍しく静かな口調で物腰が軟らかい。全てノッコがやってくれる。英語で勿論通じるが、分業方針は貫くことにしていた。夫婦の旅行はどちらかに余計な負担がかかりがちである。それに、自分でじかに人と接するのは、旅の楽しみのひとつであるから。


 さて、こんなに簡単に切符の予約と購入が出来るのなら、旅行案内書も余計な情報を提供せずに「機械のことなど無視して、切符のことは駅の切符売場へ直行しなさい」とだけ書いてくれた方がましだ。ただ、ヴァカンスが始まったいま、パリの人達も駅の切符売り場で切符を求める人は少ない。みなヴァカンスでパリにはいないのだ。大半の観光客はフランスに来ても、パリだけ見て飛行機で出発するから汽車には乗らない。ヨーロッパ域内からの観光客なら周遊券を持っているだろうし。


 駅の中のカメラ店でフィルム(90年頃にはデジタルカメラはまだない)を買って外に出る。物の値段も日本と違って余りにもまちまちなので最初は驚く。これは今も昔も変わらない。例えば、ここの店では、コダックの36枚撮りのカラーフィルム3本パックで90フランほどが、エトワール広場前の売店で何気なく同じものを1本買って70フラン以上取られた。後で驚いても後の祭りだ。


 日本では店によってこれ程値段差はないが、やはり地方の観光地では定価で販売している。むしろ、フランスの方が店各々の自由裁量度からみて当り前、とフランス人が思えば、日本の画一的なやり方が異常に見えるかも知れない。日本人やアメリカ人や英国人やドイツ人が何と言おうと、彼等にすれば、高いものを買わされた奴がバカという理論も成立つ。


 今の日本では価格破壊が進んでこんな状況もどんどん変っていいく。他の国のことなど言ってられない。駅のキオスクや売店以外は、街路地には小売スタンドが全くなくなってしまった。何となく淋しい気がする。

 ミネソタの遠い日々
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 久し振りに朝までゆっくり眠れた。今日はレンヌ行きの切符の手配をし、更に想い出のパリ巡りをしなければならない。急いで身仕度をしてホテルを出た。地下鉄のフランクリン・ルーズベルトの駅に行った。1号線のこの界隈の駅名には各国の過去の指導者の名前が付けられた駅名が多い。


 エトワール広場はドゴール、次はルーズベルと、更にイギリスのジョージ5世、クレマンソーなども名をつらねる。国際都市のつもりだろうが、芸術家の街らしく画家や音楽家の名前を付けたほうが洒落ていると思うけど。ドガとかモネとか、ラヴェルだとかビゼーなどはどうだろう。


遠い夏に想いを-モンパルナス
 どうせ、リュクサンブール公園からスタートするのだから、昨日と同じルートをモンパルナスまで行く。モンパルナスの駅は随分モダンなデザインに変わっていた。新幹線TGVの発着駅として駅自体が大巾に造り変えられた。駅の3階がTGVの発着ホームになっている。階段とエスカレータを乗り継いで真直ぐ切符売場へ行く。まだ工事中というか、コルビュジエの申し子というか、セメントむきだしのガラーンとした駅構内は地下駐車場のようで味もそっけもない。駅はサンラザール駅や東駅やオーステルリッツ駅など古くて趣のある方がいい。


 駅中央の広場に切符の自動販売機が幾つか置いてある。CRTの付いたコンピュータ操作で、仏語と英語で表示されているが、これを使っている人は殆どいない。背中に大きなナップサックを背負ったアメリカの学生風の若者がトライしているが、何度やってもうまくゆかないらしく、いまにも機械を蹴飛ばしそうなくらいイライラした気配である。私達もノッコが仏語で、私が英語でトライ・トライの精神で試してみたが、モタモタしていると、時間切れで最初の画面に戻ってしまう。パソコンゲームと同じで、ゲームオーバーで先へ進めない。


 コンピュータゲームを楽しんでいる暇は無いので、人間様のいる奥の切符売場へ急いだ。ヴァカンス期間中なので、切符売場も相当混雑しているかと思いきや、ガラガラである。パリの住人は大半が既にパリを脱出していまっているから、今頃動くのは出遅れたノロマか臍曲りか、外国人くらいだ。フランス人はヴァカンスに取り付かれている。まるでヴァカンス中毒症におかされているみたいだ。最近は休暇の日数か縮小してきたとはいえ、やはり、やはりフランス人はヴァカンスのために働く。ヴァカンスには、パリの人達は南フランスに出かけるので、ブルターニュに行く者は殆どいない。パリはヨーロッパの中でも北欧やドイツに比べ、南にあると思うのだが、それでも太陽を求めて南下するのだから不思議だ。

 ル・ムーランの料理はなかなかいい。豪華さはないが、パリの下町の女の子達のようにさりげなく小意気な味わいがある。野菜のテリーヌと牛肉の赤ワイン煮をとった。一本の赤ワインが料理の味を引き立てる。子供達の賑やかな話し声や笑い声。ジュディが時々「静かに」と小声で注意するが、いつの間か2人の声が大きくなる。


 新婚旅行で日本を訪れてから、長い歳月にはいろいろあったらしい。ポールのお父さんが亡くなって、おばあちゃん(母)がホテルを一人で切り盛りしていたそうだ。遂に元気なおばあちゃんも調子を悪くして、南フランスの方へ隠居することになり、ホテル・コンデを売り渡した。

遠い夏に想いを-ルイⅡ
「今では昔と違って、一つ星ホテルではやっていけないのよ。三ツ星とか星の数を上げるには、必要な設備が決められていて、改築するには莫大な費用がかかるの。個人経営のホテルって大変なの」


 その後、ポールとジュディは転々として、現在のアパートの管理人の仕事を得て引越してきたそうだ。
「一度、昔のホテル・コンデに行ってみたの。今は名前もホテル・ルイⅡって変わったけれどもね。ホテルの中は小奇麗になっていたわよ。ヴィオとノッコも行ってみたら」


 2時間ほどで食事を終えた。支払いの段になって、ジュディは私に払わせてくれない。今夜は素直にご馳走になることにした。一旦、ジュディの家に行き、ポールに挨拶をして帰る積りだった。ジュディは引越で落着かなかったことに気を使って、パリに居る間にもう一度来てほしいと言う。私達も時間に余裕はなかったが、レンヌから帰ってきた日の夜は予定がないので、もう一度来ることにした。ジュディが腕をふるって料理を作っておくとのことだった。


 我々が帰国して4年後の94年にもジュディは東京に来ている。娘のカロリーヌが学校で日本語を勉強している。カロリーヌが通うパリの学校にいる日本人の女の子が日本に帰国するというので、カロリーヌが彼女の家族と一緒に日本に来てしまった。夏休みを日本で過ごし帰国するときに、ジュディが日本まで彼女を迎えに来た。浅草など東京を観光して、多摩川の近くの私達の家まであそびに来てくれた。本当に楽しいひと時だった。


 もう、10時を過ぎていた。ホテルまでは地下鉄で2~30分だが、今日はロンドンからパリまで移動し、長い1日だったので、電車の中で居眠りしてしまいそうなくらい疲れた。でも、人に会えるのは楽しい。そして、友達は人生にとって何よりの宝だ。

 ミネソタの遠い日々
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