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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-小道  メディシスの脇の並木道を歩き、メディシス通りに出る。両側の高い並木の奥にパンテオンのドームが浮上る。遠近法の見本みたいで、いたってヨーロッパ的な風景である。


 サン・ミシェル大通りとメディシス通りの交差点を渡たる。角にレストランがあるが、パリらしからぬヤボッタさは昔のままで変わっていない。昔、本屋を見て廻った折にコーヒーや昼食に2度ばかり寄った記憶がある。最後は、帰国前に本屋で『プチ・ロベール』(大判のフランス語辞書)を買って「重い重い」と愚痴をこぼしながら、ひと休みした記憶がある。


 更にロスタン広場をサン・ミシェル通りで横切りスフロ通りを進む。サント・ジュヌヴィエーヴの丘というなだらかな坂道をパンテオンに向かってのぼって行く。ロンドンのセントポール大聖堂に似た造りになっている。ここにはフランスに貢献した有名人達が安置されている。


 夏休みだが、学校街の小さな本屋はみな開いている。数店覗いてみた。主にパリ大学のソルボンヌ校の関係教材・書籍が中心なので、扱い書籍数は割と少ない。リュクサンブール庭園と東の植物園の間には大学、高等専門学校、リセ等がひしめきあっている。従って、パリの左岸、特にこの辺りからサン・ミシェル、オデオン、サン・ジェルマン・デプレにかけては本屋、出版社が多い。ノッコは今度も辞書が欲しいと言う。結局、この界隈の散策は本屋を覗き歩く羽目になる。だが、一般の本屋はサンジェルマン通りに行った方がよさそうだ。



遠い夏に想いを-パンテオン  東京の神田と同じで、古い本屋は姿を消して行く。ペンキの剥げた重い扉を押して中へ入るとチャリンと鈴が鳴って、突然、高い天井の薄暗がりの奥からヒンヤリと黴臭い匂いが鼻をつき、暗さに暫く目を凝らしていないと店の中の様子がつかめないような、戦前から60年代にかけての雰囲気を持った書店は70年代初めにもまだ結構残っていたが、今では、もうこんな店はどこにもない。


 パンテオンには18年前に入っているので、今回は割愛することにした。左手の道を進んで法学部の前を抜け、キュジャ通りを回って、ソルボンヌへ行く。途中で郵便局を見つけた。
「ロンドンで書いた絵葉書まだ出していないよね」
「あっ、そーだ、まだだったわね。結局、いつもこうなるのよ」

 有料トイレについては思い出がある。1970年9月21日、初めての外国の地であったサンフランシスコ空港に着いて、ミネアポリス行きのウェスタン航空を待っていた時だった。チャオがトイレに行きたいと言だした。初めての外国だった。
「トイレくらい、1人で連れて行ったら。英語が分るんだし」
私は飛行機のなかで眠れなかったので、頭がぼーっとしていた。


 ノッコはチャオを連れて席を立った。当時のサンフランシスコ空港はターミナル内に赤い奇妙な鳥居があり、ロビーは狭いが高い鉄骨と明るいガラス天井になっていた。月曜日の朝だった。まだ出発までには相当時間があったせいか、人影がなくガラーンとしていた。


 しばらくして、ノッコが慌しく戻ってきた。
「トイレに鍵が掛かっていて入れないのよ。有料で10セントなの。しようがないから戻ってきちゃった」
 トイレが有料だとは気がつかなかった。ドルではお金を渡していなかった。小銭を持ってママはチャオをつれて再び姿を消した。今度は戻ってきて、ニコニコしながら腰を下ろした、そして小銭を差し出した。
「無料のがあったの」
「そうか、じゃ、男子用はどうなっているか行ってみよう」
時間潰しに出掛けた。確かに有料と無料があった。


 アメリカでは空港、バス・ターミナル、駅等の公共的な場所のトイレは意外と有料が多い。おまけに公共トイレも企業のトイレも〔男性用も女性用も)物凄くた高い位置なので、背丈の低い日本人はつま先たちしなければならない。日本の場合は有料と無料のトイレは入り口が別々になっている。でも有料トイレは立派で清潔だが数が少ない。トイレには72年にイタリアで面白い経験があるが、この後のイタリア編でお話しようと思う。


 しかし、パリではカフェに入ってコーヒーでもとればトイレを無料(勿論、チップを置いたほうがいいが)で使えるが、そうでなければどこへ行ってもお金を取られる。昔あった「エスカルゴ」と呼ばれていた公衆トイレも見かけない。有料トイレには大抵太った女性が番をしている。さて、話がまるで脱線してしまった。

 遠い夏に想いを-泉04 ホテル・コンデに宿泊していた当時、時間があると(お金は無かったが、時間はいくらでもあった!)、時には3人で、時には2人で、狭いコンデ通りをゆっくり上がって、ヴォージラール通りの門から庭園に入った。そして、このメディシスの泉で必ず足を止めた。泉の周りに腰を下ろし一時を過ごす。それは日課に近かった。


 静かに過ごしたい時は庭園の右奥にある『自由の女神』の原像がある辺りを選んだ。『自由の女神』は他にセーヌ川のグルネル橋の下にもあるが、不思議とこの庭園で一番静かだった。


 あの時は日本を離れ、アメリカを回ってヨーロッパへ来て、すでに2年近く経っていた。狭いホテルの屋根裏部屋に終日いるわけにいかない。時間は有り余る程あったが、お金とやる事がなかった。無料で入れるところは有り難かった。ルーブルにも何度か訪れたが、木曜日など無料開放日を選んで行った。リュクサンブールは椅子料金取立人から逃れられれば、後は無料だし、何より、ホテルとは目と鼻の先なので時間潰しには格好の場所だった。チャオといえば、自分でやることを発見してゆく子供だったが、パリにいるあいだよく我慢してくれたと思う。


 今日はここに座って何時間も思い出に耽る訳にはいかない。今は、お金は少しばかり有るが、時間が無いのだから。ここから真直ぐコンデ通りには行かず、ソルボンヌへ出て、サン・ミシェルを回り、オデオンに戻ってくることにした。


 まず、トイレを捜した。庭園のなかにカフェが有る。裏手に回って、地下に降りるとトイレがある。古くさいが、明るくてまあまあ清潔な方である。入口を入ると左手に白いテーブルがあって、その上に皿が1枚置いてある。白い掃除着をきた太った女性がにっと睨む。
「いくら?」
「2フラン」
表情も変えずに答える。値上げでもなければ、同じ質問に対して同じ答をするのが日課だ。昔と少しも変わっていない。けれども彼女たちはこれで食べているのだ。どこの国でも、こうゆう単調な仕事は貧しい人達に押し付けられる。2フランを皿に置いて中へ入った。奥様もついでだからというが、小銭がない。丁度、料金番の彼女が姿を消したので入れなくなった。悪いけど、仕方がないので『1人分サービスだ』と勝手に決込んで使わせて頂いた。


 アメリカ人らしい家族が6人ほど、トイレの入口でワイワイやっている。全員入ったら12フランだ。アメリカ人は意外と節約家だ。結局、3人だけ入ってきた。我慢の出来ない者だけなのだろうか。

「これじゃ椅子の料金徴収係も商売が上ったりだね」
「そうそう、料金取りが来ると、よく逃げまわったわね。まるで、イタチの追かけっこみたいだったわ。あのベンチの方は無料だったわね」


 泉の水は一段と濁って汚水のようだ。昔は子供達が模型のヨットやボートを持って来て、この池に浮べ遊んでいた。白い日傘をさした若いお母さん達が優しそうな視線を投げかけている。のどかな微笑ましい光景だったが、今時こんなのんびりしたことをして遊ぶ子供はいないのかも知れない。夏休みだというのに誰もいない。
遠い夏に想いを-泉02
 池の周りの地面には鳩が群がっている。当時はもっと数も多かったし、何より、今の鳩みたいに痩せていなかった。かってその昔、若いヘミングウェイは腹を空かせてリュクサンブールの鳩を捕まえて食べたという嘘か本当か分らない伝説が残っているが、72年の頃は、ここの鳩は不気味な程まるまると肥っていた。今は、そんな鳩は1羽も見当たらない。それこそ、残らず食われてしまったのだろうか。ヨーロッパでは鳩の肉をよく食べる。余り美味しいとは思えないが、レストランで普通に出される定番料理だ。


 リュクサンブール宮殿の中には残念ながら1度も入ったことがない。京都の桂離宮と同じく、ここも事前の申請と許可が必要だった。フランス国会の上院が置かれているから当然かも知れないが、現在も変わっていない。あれ程ここへ通った割には、どうゆう訳か申請までして見ようという意欲が起きなかった。
遠い夏に想いを-泉03
 17世紀の初めにマリー・ド・メディシスがフィレンツェのピッティ宮を模してリュクサンブール公爵の敷地に建てたのがこの庭園だ。宮殿はピッティの方が壮麗だ。ここの庭園は平地に造園されているので変化の妙とか眺望の良さとかには欠けるが、ゆったりと広くて、歩いても疲れない点ではリュクサンブールがいい。何より手入れがよく、無料で一般に開放されているのがいい。


 宮殿の東側に目立たないが小さな泉がある。イタリアから輿入れして、波乱に満ちた一生を送ったマリー・ド・メディシスの泉である。泉は深い緑の木立の中にあり、まるで清水の柩のようにひっそりと横わる。ここだけは、どんな暑い夏の日でも、ひんゃりとした涼風が漂っている。清らかな水面には緑の葉影が揺れて、泉の底には硬貨が点々と金銀に輝いている。洋の東西を問わず、泉を見ると反射的に硬貨を投げ入れる者が多い。アメリカの大学生が数人、泉の回りに集まって賑やかに話している。男の子が女の子を泉の前の椅子に座らせカメラを向けている。青春の思い出がパリで一つ生れる瞬間だ。

 72年のことが昨日のことのように記憶の底から蘇ってくる。ここからすぐ近くのオデオンのホテル・コンデにジュディを頼って移り住んだのは7月の初めだった。


 チャオとママと3人でオルセー駅に近いリル通りのホテル・ベルソリーズから途中いくつかの安宿を覗きながら、結局オデオンまで歩いて来てしまった。ホテルに着いたのは夕方の4時近かった。次の日ここへ引越しをして、2週間近く住んでいただろうか。その間、殆ど毎日のように私達はコンデ通りを歩いてこの庭園を訪れた。


遠い夏に想いを-池01  国立鉱山学校ぞいの一段高いテラスを右回りに歩いて中央の大泉水へ向かう。グレーの尼僧衣に身をつつんだ日本人のシスターが2人、スチールのテーブルに向き合って座っている。まわりにはピンクの花がこぼれんばかりに咲いている。すれ違いざまに、自然と無言の微笑みを交わした。
『お元気ですか。頑張ってらっしゃいますね』
『ご旅行ですか。パリはいかがですか』
声に出したら、こんな挨拶になるだろうか。


「エリザベート寺田さんはどうしているかな」突然、私が呟いた。
「ああ、そうね。日本に戻ったみたいだけれど、今はどこかしら」

 当時パリで寺田さんはシスターだった。彼女には大変お世話になった。当時、40歳を過ぎていただろうか、静かでとても優しい人だった。


 当時はまだ日本人が少なかったこともあり、外国で日本人同士が通りすがりに姿を見掛けたら、お互いに顔を背けて知らない振りをするのが通例であった。そして、外国、特にパリでは、シニオリティーが何よりも幅を利かせた。だから、1日でも先にパリに住みついる者が大きな顔をした時代だった。これらの日本人は何時、何処から来て何処に住んでいるかを知られたくない気持ちがあったのだろう。今では考えられないようなことが普通だった。


 朝の10時過ぎなのに、人影は疎らで、大泉水の周りに置かれているスチールパイプの椅子に男が1人ボンヤリと座っているだけだ。

 ミネソタの遠い日々
1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ