遠い夏に想いを -212ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-ホテル・コンデ03  昼でも薄暗い廊下に共同トイレがあり、シャワーは有料のものが2階にあった。トイレは中から鍵を下ろすと裸電球が灯き、鍵を上げると消える。


 夜の階段は真暗で、各階に付いているミニュッテリーというボタンを押す。1分たつと自動的に消えるので、1階から6階まで登るのに2、3回は押すことになる。
「ほら、もう消えるぞ」
私が叫ぶ。
「よし、急ぐね」
チャオが答えて踊り場まで駆け上がる。
押し役はいつもチャオだ。


 アメリカやイギリスの庶民も結構節約家であるが、フランスの一般市民のケチケチ振りは見上げたもので、正直尊敬に値する。もし、節約指数などというものが有ったら、フランスの世界一は間違いない。国や金持ちが贅沢しようが、他人がどうあろうが、庶民は徹底的にケチる。


 安ホテルも例外ではない。トイレット・ペーパーはスーパーの袋のような色をした紙で揉まないと堅くて使えない。これらもホテルの規則に従ったまでのことだ。


 電気の節約はトイレや階段だけでない。夕方にホテルの6階の窓からサン・シュルピス通りの狭い路地を見下ろすと、向い側に見える建物の5階の窓辺にいつも寄添って老女が本を読んでいる。部屋には明りが灯いておらず、夕暮れの薄明りに活字をくい入るように拾っている。若くて美しい女性ならロマンチックだが、老女となると・・・。


 ホテル・コンデの家族は3人。ここでホテルを始めた老主人。気のいい人だが無口で余り表に出てこない、痩せて目立たない存在だった。ポールの母が実質的に切り盛りしていた。丸々と肥った下町の根性かーちゃんで、気が強く威勢がいい。余り笑顔も見せないが、それでも、時には優しさを見せる。小さな番台のような受付で、暇な時にはチャオに仏語を教えてくれた。アン、ドゥー、トロワの域からはなかなか進まないが。


 当時は女性の留学生は無星のホテルに滞在している人も多かった。無星のホテルでも炊事が出来るところがあり、その上、アパートを借りるより面倒な手続きも要らないし、最低の生活が出来るから結構便利だった。

 引越しの日は、朝から小雨模様だったろうか、ホテル・ベルソリーズからタクシーを拾った。当時、アメリカからの帰国途中だったから荷物はかなりの量になり、距離はたいしたこと無かったが、徒歩では無理だった。タクシーの運転手はアルジェリア出身らしくアラブ系でひどい訛のフランス語だった。運転手は反対方向からラスパイユ大通りへ出てどんどん走りだした。ホテル・コンデに行くにはサン・ジェルマン大通りへ出るのが一番の近道だ。『このまま放っておいたら料金をボラれるだけだ』と気がついた。


 前日、ホテル・コンデまで歩いていたので地理は知っていた。
「どこへ行くんだ。オデオンだぞ。道がちがうではないか」
大声でどなった。パリは一方通行が多いが、一方通行を考慮に入れても変だった。住所を記したメモを見せてくれと運転手が言う。
「ああ、サン・シュルピスか」
やっとボージラール通りを経てホテルへ着いた。タクシーに乗った時に既に住所のメモを見せていたので、ごまかし以外の何ものでもなかった。パリでは、特に、あの頃は植民地系の運転手は外国人と見るとインチキをやるのだ。


 話は違うがカレーでイギリス行きの連絡船に乗り込む時、アルジェリア出身者らしき男が、出国手続きにボールペンを貸してくれと言う。使い終わったら、ポケットに突っ込んでその場を立ち去ろうとする。慌てて、袖を掴まえて、「返せ!」と怒鳴った。こともなげに突っ返して、ささと消えてしまった。ミネソタ大学の生協で買った25セントのプラスチック・ボールペンに過ぎなかったが、この時の筆記具はこれしかなかった。油断も隙もない。外国にいるとつまらない事で突然苛立つことがよくある。

遠い夏に想いを-ホテル・コンデ02  コンデの私達の部屋は最上階の6階(フランスでは5階で掲載写真の左上端)であった。エレベータはなく、狭く急な階段をハーハーいいながら登らなければならない。階段を登り切って廊下の突当りの部屋だった。ダブル・ベッドと子供用のベッド。トイレも風呂もなく、部屋の隅にビデがあった。当時、アメリカでも見かけなかったビデだが、使い方については知識があった。だが、どうしても我々日本人には違和感があった。私達にしてみればビデの代わりにシャワーがあっても同じではないかと思ったからだ。同じスペースでそれが可能な筈だ。


 実際、この時の帰国途中に立ち寄ったミラノでは、駅裏の安ホテルの部屋に1メートル四方のシャワー・スペースが付いていたのだ。しかし、文句を言ってもしようがない。フランスでは星1つ変わるごとにホテルの必要設備と規則が事細かに決められているのだから、ホテル側も余計なことはしない。それに、もともとフランス人は風呂やシャワーに余り入らない人達なのdから。

 昔、日本ではソルボンヌ大学(名称はその通りなのだが)などと言われて、パリ大学は歴史のない別物と誤解されたこともあった。それほどソルボンヌは有名であった。1971年にパリ大学は全部で13学部になった。72年に訪れたときには制度が変わったばかりだった。パリ市内に学部は7つあり(細かく学部が細分化されているのでパリにはかなりの数の校舎がある)、またパリ郊外やヴェルサイユにもあり、学生数も10万を遥かに越えるマンモス大学である。


 ソルボンヌは1968年の『五月革命』の際のパリ大生とリセ(高校)の学生の総本山であった。石畳を堀り返して投石に使われたので、以来パリでは石畳舗装が減ったそうだ。『五月革命』は硬直した教育制度や社会制度に反対する学生達のストライキから飛び火し、一般労働者のジェネラル・ストライキに発展し、警官隊と対峙し、投石や暴動が発生し、大変な社会不安をあおり、ドゴール体制を終焉に導いた。


 2006年にも「初期雇用契約」というフレキシブルな雇用法を政府が導入したため、学生・労働組合が反対し、ストで対抗しで社会が騒然となり、政府がこの法案を撤回する事態になったことなど記憶に新しい。学生運動や労働者の抗議などいまだに健在だ。これに比べて、日本の若者は一体全体どうなってしまったのだろうか。革命のパリがパリであるように、ソルボンヌはソルボンヌなのだ。

遠い夏に想いを-ホテル・コンデ01  再び、ソルボンヌ通りへ出た。ソルボンヌの正門はここではなく、この先のエコール通りにある。しかし、先を急がなければならない。時間が無いのだ。古いタピスリーがあるクリュニー美術館(ここにも以前入っているので今回は割愛した)を右手に見ながらサン・ジェルマン大通りで左に曲り、地下鉄オデオン駅の前に出た。


 この界隈も私達のパリ生活には欠かせない一部だった。ここから緩やかな上り坂をサン・シュルピス通りまで行く。角のバーの先に、今は三つ星のホテル・ルイⅡと名前が変わってしまったが、かつてのホテル・コンデがあった。格は上ったが、外観は殆ど変わってなかった。昨夜のジュディの話では内部がかなり綺麗に改装されているらしい。当時ここは一つ星のホテルだった。しかし、贅沢など言っていられなかった。初対面とは言え、頼れるジュディがいただけでも幸運だった。安ホテルの場合は特にそう思う。


 当時、パリに到着して3日間泊まったリル通りのベルソリーズ・ホテルはパリの日航支店に勤務していた富田さんが予約してくれたホテルだ。いわゆる、日本でいう「プチ・ホテル」なのだが、私達はこのホテルが大好きだった。しかし、三つ星のベルソリーズでは料金が高すぎて長期滞在には不向きだった。

遠い夏に想いを-ソルボンヌ01  建物の重たいドアを押して中へ入った。教授風の老人は廊下の奥へ立ち去っていった。奥の部屋に入ろうとしていた太った女性に慌てて声をかけた。ノッコが後ろについてきていた。後はノッコにお任せだ。


 パリ人としては、まあまあ親切な女性だった。彼女によると、多分、ジュシューの第7校ではないかと言う。しかし、昔そのような夏期講座があったか、また、今やっているか分らないと言う。この通りをもう少し下りると、大学の事務局があるから、そこで聞いてみなさいと言う。


 再び外へ出てクーザン・ソルボンヌ通りを更に下だる。路上駐車は多いが、車は殆ど通らず静まり返っている。40メートルほど進むと、大きな門があり、中は大きな広場になっている。内庭に入ると右手に17世紀前半にリシュリュー枢機卿によって建立されたソルボンヌ教会の豪華なドームが聳えている。ここには彼の墓も安置されている。内庭の左手に事務局と教室への入口がある。中へ入り通路を行く。しかし、夏休みの真最中であり、昼休みなので事務員も姿を見せない。


 どうゆう訳か外国にいると殆ど無意識に私達は大学を回る癖がある。イギリスでもケンブリッジを訪れた。大英博物館へ行ったので、夏目嗽石とゆかりのあるロンドン大学へも足を延ばしたかった。しかし、ロンドンでは時間が許さなかった。この次はオックスフォードへも行きたい(数年後の旅で実際に行ってきた)。


遠い夏に想いを-ソルボンヌ02
 パリ大学は1253年に僧侶のロベール・ド・ソルボンが聖ルイ王の援助のもとに神学生のための学寮をここに建てたのが始まりであった。だからソルボンヌ(本校)には文学部・人文科学部が置かれている。


 ここでは『・・・学部』又は『・・・校』と表記しているが、フランス語でも日本語でも全て『・・・大学』と呼んでいる。Universiteとは本来総合大学を意味する言葉だが、アメリカ的に言えばCollegeに相当する。日本ではCollegeのことは単科大学などと呼ばれている。フランスでコレージュは中学を意味する言葉になってしまう。

 郵便局の中は、東京の丸ノ内ビル街にある郵便局と余り変わらず、不思議と違和感がない。切手を買うのもフランスではノッコの役目だ。私の方は大して読めもしないチラシやパンフレットをノッコの為に集める係りで、読んでいるような振りをしてせっせとポケットに押し込む。アメリカ宛ての絵葉書はやっとのことで投函された。未投函最長記録は、70年に渡米した時、ミネアポリスのホテルで書いた両親宛てのはがきで2週間は毎日持ち歩いた。


遠い夏に想いを-ソルボンヌ通り  ソルボンヌ通りに出る。とにかく人影がない。夏休み中の大学街は日曜日の官庁街と同じで誰もいない。殆ど駐車場と化したなだらかな坂道を下がって行く。右手の管理事務所らしい所で足を止めた。ガラス戸越しに老齢の教授風の男が太った中年の女性と話しているのが見えたからだ。
「分校の件を聞いてみたら」
「でもね」


 ノッコは気が進まない様子だった。おかしな話だが、ノッコはこの旅行を始める前から分校の場所の記憶が定かでないと言っていた。18年も前の事だから無理もない。単位終了証を見れば分るかも知れないと言っていたが、忙しくて遂に捜さずに来てしまった。しかし、『フランス語教授法』のクラスに1カ月は通ったのだから、自他共に認める地理音痴・方向音痴にしても、覚えていないとは妙な話だ。


 私も3度ほど校舎へ行った記憶があるが、正直言って正確な記憶は持ち合わせていない。植物園が近かったという記憶が頼りであった。


 当時は写真もろくに撮っていなかった。『お金がない』が表向きの理由だが、旅行と生活の違いだと思う。ちなみに、当時の写真の枚数を数えてみると、3カ月近く居たパリでたったの15枚、10日間のロンドン旅行で30枚である。だから日常生活の場面、例えば、リュクサンブール庭園、モンスリー公園、パリ大学、ホテル等での写真が無い。従って、分校は記憶の中に残る情景に頼るしか方法がないのだ。