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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 風邪薬にはもう一つ思い出がある。
 ノッコは頭痛持ちだから時々頭痛に悩まされる。始まるとひどくなるから大変だ。やはり街に出たある日のこと、頭痛が始まり、薬屋さんでクスリを買った。炭酸入りの薬で、水に溶かすタイプだったのでカフェに立ち寄ってコーヒーをとり、店を出るときにこの風邪薬を飲んだら、喉の調子がおかしくなったとゴホンゴホンやっている。


遠い夏に想いを-ヴァンドーム  ヴァンドーム広場まで歩いてきて、チャオが言った。
「僕、キャンディ持っているよ」
そう言って、幼稚園のバッグを探し始めた。なかなか見つからない。なにせチャオのバッグときたら、チャオの全財産がパンパンに入っているのだ。ピーナツ・ギャング(チャーリー・ブラウン)のカートゥーン集が2冊、ねずみのぬいぐるみの『みみちゃん』、鉛筆にクレヨン、筆記帳、ガリマール版の世界ポケット地図集、飴玉、どうゆう訳か小石が3個、その他訳の分らないもので満杯だ。宝箱のように大切に毎日持ち歩いた。3,4分かかってやっとセロファンに包まれた小さな 飴玉がでてきた。探してる内に何度も前かがみにつんのめりそうになり、そのたびに身体を支えてやって、大笑いになった記憶がある。


 ヴァンドーム広場。我々のような貧乏な庶民には関係ない高級ホテルのリッツや、覗くだけでもはばかるような高級店や宝石店がヴァンドーム広場を囲んでいる。ヘミングウェイが出入りしたからといって、リッツを覗くわけにもいかない。


 広場の中央に聳える銅製の塔はナポレオン戦争でオーストリアとロシアを打ち破った時の戦利品の大砲を鋳潰して造ったらしい。なぜか、てっぺんに立っているのはジュリアス・シーザーなのだが、ロンドンのトラファルガー広場のナポレオンに勝利したネルソンをのせた塔より堂々としている。なかなか眺めは素晴らしいのだが、ヴァンドーム広場を訪れたのはこの時が最初で最後であった。


遠い夏に想いを-ドゥーマゴー  「セント・ジャーマン・デス・プレス」チャオの最初の発音であった。全て英語読みになった。ある日、地下鉄の1号線に乗っていたら、ウエスト・バージニアあたりから観光に来たとおぼしき大家族の小さな末の男の子が、地下鉄の駅名をゆっくり読みながら「セント・・・ジャーマン・・・デス・・・プレス」と大きな声で発音したので、ノッコと顔を見合わせて「やっぱり」と大笑いになった。ヘミングウエイもフィツジェラルエドも「セント・ジャーマン・デス・プレス」とやっていたのだろうか。2人とも中西部の出身だ。


 サン・ジェルマン・デ・プレの角のドゥー・マゴー。その並びのフローラ。戦後のパリを彩る50年代の遺跡的存在だ。サルトルやブーボワールがたてこもり、黒衣の歌姫グレコが出没した。あの華やかな実存主義はどこえ消えたのだろうか。


 私達がヨーロッパにいたのは、70年代の初めだったから、アメリカではホット・パンツと裸足が大流行、ロンドンではビートルズが解散してミニ・スカートとシースルーが全盛を極め、パリでは『五月革命』が嵐のように去ってオート・クチュールとフレンチ・ポップスが表舞台に現れた。

遠い夏に想いを-聖堂内  ここのステンド・グラスは彩色が殆ど施されておらず、アーチ型の天井は一段と高いので、堂内は結構明るい。パイプ・オルガンが目に入る。ここのパイプ・オルガンは有名で、パリの教会の中では音色が一番美しいと言われている。


 当時は金銭的にも精神的にも音楽会に行くほどの余裕がなかったので、よくこの教会に立寄ってはオルガンの練習や演奏を聴いたものだった。重厚な低音と歯切れのよい澄み切った高音は美しく、身廊の高い天井をじっと見上げていると、心の糸に共鳴してゆくのを感じる。そして薄明かりの堂内にはりつめた音の中に魂が引上げられて行く。そんな錯覚に落ち込んだものだ。


 今日は音が聞こえなかった。側廊の椅子に腰を掛け、2人とも口をきかず、老人達と同じように動かなかった。この静けさの中に、あのオルガンの響きと過去への想いを追い求めるかのように無言で座っていた。今でこそダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』で有名になった教会なのだが、当時はそんな仕掛けがあることなど気づかず、聖堂の静かな空間とオルガンの音色を楽しんだものだった。



遠い夏に想いを-食堂  サン・シュルピス広場からボナパルト通りの角まで歩いた。昼食をとる時間になっていた。一軒のカフェの前に立った。店の間口は広いのだが、奥行きのない店先の様子には記憶があった。かつて1階のテーブルでチャオと3人でオレンジ・ジュースを飲んで不美味かった思い出がある。相変わらず狭い一階は満員だった。


 2階に上がった。空いていた。パフェを食べている女の子が2人。皿を並べて本格的に昼食をとっている男と女。窓際のテーブルに席をとる。サン・シュルピス教会が窓枠の中に収まっていた。この方が美しく見える。不思議な建物だ。


 がっしりとした体格のギャルソンが上がってきた。オムレツを注文したら、売り切れだと言う。そういえばフランスでは、オムレツは夜のメニューなのだ。結局、外を眺めながらサンドイッチをほうばった。



遠い夏に想いを-薬局  ここからサン・ジェルマン大通りは直ぐだ。サン・ジェルマン・デ・プレの手前に小さな薬局がある。角にある入り口のドアがアルミ・サッシュに変わって小綺麗になった以外は昔と同じで、直ぐにそれと分る。その昔、ノッコがパリで初めて買物をした店で、確か、持病の頭痛薬だったと思う。


 この時から、日本で手に入りそうもないフランス製品を買うと、空箱や説明書を保管して、帰国時に持ち帰った。帰国してからフランス医療文献の翻訳を始めたのだが、それらが役に立ったかどうか分からない。今でも部屋や書棚の片付けをすると、ポロリポロリと古びた姿を現す。


 今度も立ち寄って頭痛薬を買った。常に、常備しておかないと、今でも突然頭痛が襲ってくるからだ。言ってみれば、保険みたいなものかな。

 このオデオン通りにはシルヴィア・ビーチというアメリカ人女性が1913年に開いた英語本の書店「シェクスピア・アンド・カンパニー」という店があった。アメリカの作家ヘミングウエイやフィッツジェラルドもパリ滞在中は足しげく訪れ、彼女とも親交があった。


遠い夏に想いを-絵本  ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」を出版したことでも名高い書店だ。当時のパリに集まる英米人には人気の書店だった。第二次世界大戦でドイツ軍にパリが占領されるまで店は続いた。当然、72年には既になかったが、この通りを歩くたびに、その記憶を呼び覚まさしてくれた喜びがあった。現在、同名の書店が別の場所にあるがシルヴィア・ビーチとは関係ない。


 さて、サン・シュルピス通りを教会に向かって歩いた。サン・シュルピス教会の脇を通っているガランシェール通りの角には小さな本屋があった。聖書や宗教関係の書籍以外に子供の本が置いてあった。当時、時折ここの本屋に行って、チャオのために『ティトウ・・・・』シリーズの絵本を買った。現在、店は当時のまま残っているが、本屋ではなくなっていた。


 この通りは、パリで唯一「すす落とし」を忘れたような、煤と汚れに覆われた切り通しのような路地で,陽が当たらず昼間でも薄暗いところだ。ロマン・ローランの『ピエールとリュース』に「聖シュルピス寺院近くの暗い狭い街を通っていた。彼らは・・・」とある通り、第一次大戦の時代から変わらないような陰気な道だ。

遠い夏に想いを-サン・シュルピス  サン・シュルピス教会の正面までくると、突然、道幅も広くなり、明るくなる。通りの右手には商店が並ぶ。イヴ・サン・ローランの店も昔のままである。当時オートクチュールはフォーブル・サン・トノレに集中し始めていたのだが、どういう訳かここにイヴ・サン・ローランの店があった。このあたりの界隈もあまり変化がない。


 オートクチュールといえば、あの頃パリ市内を散歩していて、とあるパッサージュ(アーケード)に迷い込んだ。そこに小さな店があり、『KENZO』と名が入った服飾品が並んでいた。
「KENZO?」と私がノッコに訊いた。
「服飾デザイナーの高田賢三よ」
1968年頃、高田賢三はパリに出てきたらしいのだが、もう1972年には日本人デザイナーがパリに進出し始めていたのだ。当時、日本人の服飾デザイナーがパリに進出するなんで驚きであった。


 教会の前の大きな噴水から水が勢いよくあふれ出ている。ここの教会は両脇に円筒形の塔を持ち、どっしりとした重量感のある建物だが、決して美しいとは言えない。教会そのものの歴史は古く6世紀にまでさかのぼるのだが、現在の建物は比較的新しく、18世紀の始めに完成されたものである。正面の石段を上り教会の中へ入った。お堂の中は訪れる人も余りなく静まり返っていて、老人が2,3人、ところどころに座ったまま動かない。

 ミネソタの遠い日々
1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ

 今はすっかり贅沢になってしまって、日本からの若者は、学生でも四つ星に泊まって、ブランド品を買い漁り、シャンゼリゼ大通りのカフェ・テラスでギャルソンをからかって、大声をあげて騒ぐ。まるで1920年代の "Jazz Age”の頃のアメリカの若者達のようだ。今ではアメリカやヨーロッパの学生の旅行は質素で謙虚だ。現に日本旅行に来ている欧米の若者たちを見ればいかに節約しているかが分る。


 当時このホテルにはカナダ人で米国の東部の大学から来ていたマークという青年が泊まっていた。大学の3年生で、夏休みを利用してパリ大学の夏期講座を受けに来ていた。カナダでは中産階級の出身だから、今の日本の学生の感覚からすると、一つ星のような安ホテルでなく、せめて三つ星クラスに泊まるのが当り前と思われるかも知れない。しかし、現在の日本の若者と基本的に判断基準が異なるのである。金の有無とか親の地位とかに関係なく、本人が学生で有るか無いかが行動を決める基準となる。学生の分際をわきまえるかどうかの問題だ。


 マークは余り口数の多い方ではなく、歳に似合わない落着と博学振りを兼備えていた。大学を卒業したらカナダ政府で外交官を目指したいと夢を語っていた。チャオもパリに来てから、英語で話せるのはジュディくらいだった。しかし、男の子は女性より男同士の方が話があうのかマイケルを慕った。彼はなかなかの好青年で、チャオの話し相手になってやったり、本を読んでやったりして、チャオを大変に可愛がってくれた。


 時には、オデオン駅のそばのカフェ・テラスへ行き、マークとチャオと4人で昼食をとって楽しい時を過ごしたりもした。その後5~6年して、消息はとぎれたが、マークはどうしているだろうか。あれから18年の歳月が流れたから、マークも40歳近くになっている筈である。外交官の夢は実現しただろうか。


遠い夏に想いを-Odeon界隈  ホテルをもう一度見上げた。玄関は綺麗になったが、建物や窓枠などは昔のままである。しかし、三つ星になったのだから、ホテルの内部はすっかり変わったに違いない。これで過去にきっぱりと別れを告げた。現場にもう一度来ないと、心のわだかまりが拭い切れない。何か犯人の心境みたいだが、これが真実のようだ。


 コンデ通りを更に上がって3分ほど真直ぐ歩けば、リュクサンブール庭園にいける。オデオン駅のもとになった劇場のオデオン座は、コンデ通りの隣のオデオン通りをリュクサンブール庭園に向かって歩けば庭園に着く。1782年に完成したオデオン座は8本のドーリア様式の柱をもつ比較的こじんまりとした美しい建物だ。(前のページのマップを参照してください)

 ミネソタの遠い日々
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 ある日、チャオが部屋のガラス・コップを割ってしまった。出がけに、かーちゃんに謝りにいった。
「カタストロフさ」
そう言って笑っている。
「気にしなくていいよ」
微笑みながらチャオの頭を撫でた。コップが割れてカタストロフとは一瞬驚いたが、英語の語感に馴れていると仏語にはビックリする言葉が多い。私は高校時代に課外でフランス語を英語の先生からならっていた。大学も第二外国語はフランス語だった。それでもフランス語は難しい。


 ホテル・コンデの2代目、ポールはおとなしい割りには活動家で、パリに住みながらスキーの指導員をしていた。冬になるとホテルは両親に任せてパリを脱出する。アメリカにまで足を延ばし、ミネソタでジュディと知合った。


 当時、パリのギャルソンを追っ掛けて、ミネソタからやって来た中西部の娘ジュディは、住込みのガールフレンドだった。ポールも英語は話せたが、アメリカ娘が居て、『英語が通じます』と玄関に上げた看板には偽りがなかった。ジュディは仏語がまだ怪しく、馴れない習慣の中でもこまめによく働いていた。アメリカを発つときミネソタの友人から「パリの一つ星ホテルにジュディという娘がいるから、何か困ったら寄ってみなさい」と言われていた。


 当時の若い人達は安ホテルに滞在するのが殆どだった。一つ星はいいほうで、経済的に苦しく長期間滞在する場合は無星のホテルに滞在する者も結構多かった。前に書いたように、この類いのホテルには自炊ができるところもあり、面倒な下宿を避けて利用する女性もいた。


 このホテルには1組の若い日本人がいた。結婚はしていないようだったが、男性は料理と女性は仏語の勉強にきていた。青年はおとなしい優しいいタイプだった。チャオが彼を見かけるとすぐ彼に擦り寄っていき、遊んでもらう。女性はそれが気に入らなかったようで、小言ばかり言っていた。皆な貧しく、こんなホテルで精一杯生きていた。


遠い夏に想いを-map01

 一般の旅行者もこの手の一つ星クラスのホテルを利用していた。特に、ドイツやオランダなどの国から年配の夫婦が気楽に泊まって、朝はパンとコーヒーだけのコンチネンタルを楽しそうに食べて、何の暗さも卑屈さも見せず、元気よく街へ出てゆく。日本人は旅館に泊まる時は余り気にしないが、ホテルの場合、こうは気楽にいかない。日本のビジネスホテルは安くなったが、各部屋にトイレも浴槽も付いている。しかし本当の安ホテルに泊まるのはかなりの精神的苦痛が伴う。

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