フランス語は難しい - 031 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 ある日、チャオが部屋のガラス・コップを割ってしまった。出がけに、かーちゃんに謝りにいった。
「カタストロフさ」
そう言って笑っている。
「気にしなくていいよ」
微笑みながらチャオの頭を撫でた。コップが割れてカタストロフとは一瞬驚いたが、英語の語感に馴れていると仏語にはビックリする言葉が多い。私は高校時代に課外でフランス語を英語の先生からならっていた。大学も第二外国語はフランス語だった。それでもフランス語は難しい。


 ホテル・コンデの2代目、ポールはおとなしい割りには活動家で、パリに住みながらスキーの指導員をしていた。冬になるとホテルは両親に任せてパリを脱出する。アメリカにまで足を延ばし、ミネソタでジュディと知合った。


 当時、パリのギャルソンを追っ掛けて、ミネソタからやって来た中西部の娘ジュディは、住込みのガールフレンドだった。ポールも英語は話せたが、アメリカ娘が居て、『英語が通じます』と玄関に上げた看板には偽りがなかった。ジュディは仏語がまだ怪しく、馴れない習慣の中でもこまめによく働いていた。アメリカを発つときミネソタの友人から「パリの一つ星ホテルにジュディという娘がいるから、何か困ったら寄ってみなさい」と言われていた。


 当時の若い人達は安ホテルに滞在するのが殆どだった。一つ星はいいほうで、経済的に苦しく長期間滞在する場合は無星のホテルに滞在する者も結構多かった。前に書いたように、この類いのホテルには自炊ができるところもあり、面倒な下宿を避けて利用する女性もいた。


 このホテルには1組の若い日本人がいた。結婚はしていないようだったが、男性は料理と女性は仏語の勉強にきていた。青年はおとなしい優しいいタイプだった。チャオが彼を見かけるとすぐ彼に擦り寄っていき、遊んでもらう。女性はそれが気に入らなかったようで、小言ばかり言っていた。皆な貧しく、こんなホテルで精一杯生きていた。


遠い夏に想いを-map01

 一般の旅行者もこの手の一つ星クラスのホテルを利用していた。特に、ドイツやオランダなどの国から年配の夫婦が気楽に泊まって、朝はパンとコーヒーだけのコンチネンタルを楽しそうに食べて、何の暗さも卑屈さも見せず、元気よく街へ出てゆく。日本人は旅館に泊まる時は余り気にしないが、ホテルの場合、こうは気楽にいかない。日本のビジネスホテルは安くなったが、各部屋にトイレも浴槽も付いている。しかし本当の安ホテルに泊まるのはかなりの精神的苦痛が伴う。

 ミネソタの遠い日々
1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ