ボナパルト通りの安レストラン - 034 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-聖堂内  ここのステンド・グラスは彩色が殆ど施されておらず、アーチ型の天井は一段と高いので、堂内は結構明るい。パイプ・オルガンが目に入る。ここのパイプ・オルガンは有名で、パリの教会の中では音色が一番美しいと言われている。


 当時は金銭的にも精神的にも音楽会に行くほどの余裕がなかったので、よくこの教会に立寄ってはオルガンの練習や演奏を聴いたものだった。重厚な低音と歯切れのよい澄み切った高音は美しく、身廊の高い天井をじっと見上げていると、心の糸に共鳴してゆくのを感じる。そして薄明かりの堂内にはりつめた音の中に魂が引上げられて行く。そんな錯覚に落ち込んだものだ。


 今日は音が聞こえなかった。側廊の椅子に腰を掛け、2人とも口をきかず、老人達と同じように動かなかった。この静けさの中に、あのオルガンの響きと過去への想いを追い求めるかのように無言で座っていた。今でこそダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』で有名になった教会なのだが、当時はそんな仕掛けがあることなど気づかず、聖堂の静かな空間とオルガンの音色を楽しんだものだった。



遠い夏に想いを-食堂  サン・シュルピス広場からボナパルト通りの角まで歩いた。昼食をとる時間になっていた。一軒のカフェの前に立った。店の間口は広いのだが、奥行きのない店先の様子には記憶があった。かつて1階のテーブルでチャオと3人でオレンジ・ジュースを飲んで不美味かった思い出がある。相変わらず狭い一階は満員だった。


 2階に上がった。空いていた。パフェを食べている女の子が2人。皿を並べて本格的に昼食をとっている男と女。窓際のテーブルに席をとる。サン・シュルピス教会が窓枠の中に収まっていた。この方が美しく見える。不思議な建物だ。


 がっしりとした体格のギャルソンが上がってきた。オムレツを注文したら、売り切れだと言う。そういえばフランスでは、オムレツは夜のメニューなのだ。結局、外を眺めながらサンドイッチをほうばった。



遠い夏に想いを-薬局  ここからサン・ジェルマン大通りは直ぐだ。サン・ジェルマン・デ・プレの手前に小さな薬局がある。角にある入り口のドアがアルミ・サッシュに変わって小綺麗になった以外は昔と同じで、直ぐにそれと分る。その昔、ノッコがパリで初めて買物をした店で、確か、持病の頭痛薬だったと思う。


 この時から、日本で手に入りそうもないフランス製品を買うと、空箱や説明書を保管して、帰国時に持ち帰った。帰国してからフランス医療文献の翻訳を始めたのだが、それらが役に立ったかどうか分からない。今でも部屋や書棚の片付けをすると、ポロリポロリと古びた姿を現す。


 今度も立ち寄って頭痛薬を買った。常に、常備しておかないと、今でも突然頭痛が襲ってくるからだ。言ってみれば、保険みたいなものかな。