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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 いつ建てかえられたのか分からないが、デザインから推測すると、70年代の後半に建てられたものと思われた。後で知ったのだが、ここは第6と第7校で、自然科学が中心の校舎だった。


 当時の第3校は、薄暗く汚い校舎だったような記憶があった。学制改革で、パリ大学は学生数も飛躍的に増加したのだから、あのオンボロ校舎では収容できなくなったのだろう。パリは変わらなくとも、若い世代は確実に変わって行く。これで、奥様の貴重な『遅れた青春』の思い出は記憶の中だけに生きることになった。


「何も残ってないわ。本当にここなのかなー」
ノッコはもう一度構内を見回した。なかなか諦め難く立去り難い気持ちのようだ。夏休なので学生が時たま訪れるだけで、構内は静まり返っていた。エコール通りを渡って、向かいの本屋へ行った。大きな緑の窓枠が目立つ店だ。扉を押して中へ入る。扉が軋んでドア・ベルがチャリンと鳴った。小さな本屋で、暗い店内には本が無造作に並んでいる。
「ここは昔のままだわ」
ノッコはホッとした様子で呟いた。並んでいるのは植物・動物等の自然関係の本が殆どであった。ここがノッコの記憶と繋がる唯一の場所であった。


 記憶の不確かさには別の理由も考えられた。分校には3ヵ所から通ったからだ。最初の3日間はリル通りのホテル・ベルソリーズから、次の2週間はオデオンのホテル・コンデから、残りをモンスリー公園前のINODEPから、それぞれ違う地下鉄の路線を使っての通学だった。日本での大学生時代、ミネソタでの夏期講座と聴講生時代、そしてパリの夏期講座時代と3度の学生生活をおくった。けれど、どうゆうわけかパリの記憶が一番薄い。この第3校は、この旅で最も行きたい場所だったろうに。


遠い夏に想いを-第3校map

 しかし、私にはぼんやりした記憶の謎を解く手掛りが他にあった。ホテル・コンデに居た時に、学校までノッコを送って来て、帰りはチャオと2人で小さな菓子屋や雑貨屋のウインドーを覗きながらブラブラと坂道を下ったり、裏道を抜けたりしながらホテルまで歩いて帰った記憶があった。6歳のチャオと歩いて帰れる距離だったこと。ホテルのあったコンデ通りまで15分くらいだったと記憶していた。もう一つは、植物園が直ぐ近くにあったこと。授業の終わりにノッコと校舎近くで待合わせる時は、チャオと2人で植物園に行って時間を潰したものだ。


 今思えば、ジュシューの駅を出たら、隣接する植物園の方に行き、リンネ通りを通って10分も歩けば、サンシエ通りの第3校に行けたはずだ。植物園からでは5分とかからない。

 ミネソタの遠い日々 - New -
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 当時、フランスでは子供の躾は「子供として扱わないで、一人の人間として扱うべき」と主張するのが伝統的な考えだが、実際は大人の都合に合わせて扱っているいるとしか見えなかった。


 これは、昔から変わっていないようで、モーツアルトが幼いとき父のレオポルドと姉のナンネルの3人でヨーロッパ中を旅をして廻ったが、オーストリアではマリア・テレジア女王の膝に駆け上がって抱きしめられたり、幼少のマリー・アントワネットを「僕のお嫁さんにしてあげる」と言って楽しい思いをした。その後フランスに行ったとき、宮廷で皇女の膝に駆け上がろうとして、こっぴどくたしなめられたと記録に残っている。


 今は変わったと思う。第一、フランス政府の政策が素晴らしい。日本政府は出生率低下を改善するのに何ら効果的な手も打たない。産婦人科の問題も根本的な医療政策で大幅な改善を図るわけでもない。フランス政府から学ぶべきことは多くさんある。「子育て費用の公的負担」と「職業生活と家族生活の両立」を柱として、出産・子育て費用の支給や、託児所などの増設、働く女性には休暇の問題、その他の関連する政策を実行している。その結果、若い女性が子供を産む環境が整い、出生率が大幅に向上したのだ(統計ではフランスでは2.0人、日本は1.3人)。だから、今では子供に対する気持や態度が大きく変わってきていると思う。まさに「子供は国の宝」なのである。


 ただ当時、私たちがチャオをつれてロンドンやウィーンやヴェネツィアを歩いた時の経験や思い出からしてもフランスは特別だったと思う。それらの国の大人の子供に対する気持ちが如何に暖かかったことか。



 洋子さんは、しかし、私達にはとても優しく、何かと心を配ってくれた。学生食堂にも彼女が連れて来てくれた。ノッコは彼女と時々利用していたようだが、私とチャオは2度ばかり来たことがある。坂道の途中にあり、石段を4,5段登って食堂に入った記憶がる。クーポン券が必要で、何時も彼女が持っていた。だから、貧しいながら収入のある彼女にご馳走になったことになる。
「ここのポテト料理、美味しいのよ」
彼女はニッと微笑む。
質素でも、暖かい料理が外で食べられるなんて、夢のようだった(だが、この旅では場所が違うために発見できなかった)。


遠い夏に想いを-第7校  さて、そのまま進んでみたが、どうもそれらしい所が見当たらない。ノッコは場所の記憶が全くないと言う。時間が無駄なので角の店でクレープとミネラル・ウォーターのボトルを買って、歩きながら頬ばった。そのまま、エコール通りを渡って、分校の正門の前まで歩いた。


 全く変わってしまっていた。記憶にあるものは何ひとつ残っていなかった。神様が「いまさら行っても、何も残ってないぞ」と哀れに思って私達の記憶を消してしまったのかも知れない。門を入って右手には真赤なインフォメーション案内所まである。校舎は鉄骨造りのモダンな6階建てのガラス張りの建物に変わっていた。

遠い夏に想いを-ジュシュー付近01  駅の出入口は高台にあって、ジュシュー通りは緩やかな坂道になっている。左側には商店やレストランが並ぶ。右側は校舎の塀で、通りに沿って大きな並木が続いている。
「どうも感じが違うみたいだけれど・・・」
奥様は相変わらず首を傾げている。


 ご主人は断片的だが、徐々に思い出し始めていた。
「とにかく、校舎に沿って真直ぐ行こう」
車も人も通らない眠ったような街をゆっくりと歩きだした。エコール通りとカルディナル・ルモワーヌ通りが交差する角まで来て、ノッコが呟いた。
「何だか、少しずつ思い出してきたわ」


 この通りには記憶があると、ノッコは言う。
遠い夏に想いを-ジュシュー付近02 「この先が正門で、その前に本屋があった筈よ。帰りによく覗いたもん」
私には正門側の通りの記憶がほとんど無い。むしろ、この先のエコール通りの方に記憶があった。


 「キャンパスの方は後回しにして、こちらを歩いてみようよ」
ひと休みしたかった。エコール通りの角のカフェは2軒とも満員だった。仕方なく交差点でカルディナル・ルモワーヌ通りを進んだ。


 「洋子さんどうしているかな」
「え?」
「この辺りに大学の学生食堂があっただろう。覚えていない?」
少し唐突であったが、ノッコは意味が飲込めた。


 当時、洋子さんとノッコは学校で知り合いになった。彼女は既に2年以上パリに滞在し、オペール(お手伝いさん)として住込みで働いていた。小柄で、痩せて、小さな胸をした可愛らしい女性だった。肌は小麦色で、髪は黒く、典型的な東洋女性のイメージだった。但し、パリで一人暮らしをしているくらいだから、人一倍気は強かった。


 ある日、学食で昼食をとっているときに、チャオを見て、ポツンとこんなことを言った。
「フランス人は子供に物凄く辛くあたるのよ。私が働いている家庭でも子供が可哀想で、見てられないのよ」
洋子さんがため息を漏らす。

 あの日のことを思い出す。静かに小雨が降っていた。富田さんたちが車で来るのを待っていた。ドゥー・マゴーのテラスに座って、暖かいコーヒーをすすりながら、サン・ジェルマン教会を眺めた。


遠い夏に想いを-サンジェルマン聖堂  このパリで一番古いというロマネスク風の教会は暖かみはあるが素朴で寂しげなたたずまいだ。何かパリよりブリュターニュあたりが似合いそうな気がした。暗い灰色の雲が低くたれこめ、人通りもまばらで、皆な急ぎ足で通り過ぎて行く。雨のせいだろうか、日頃の賑わいが消えていた。何か当時の気持ちに妙に相応しい風景だった。
「パリは嫌いだ」


 それは直ぐに思い出せないほど遠い昔日の記憶であった。帰国して間もなく、富田さんが亡くなられたと、奥さんから知らせがあった。一つの想いが消えていった。


 ドゥー・マゴーに入ったのはこの時だけだったと思う。当時は貧しく、実存主義の思い出のためにサン・ジェルマンやモンパルナスのカフェに通うほどの余裕はなかった。それに、コーヒー1杯で小さなチャオとカフェで長居する訳にもいかない。



 さて、今日は、ここからノッコの想い出の旅に出かけることにした。オデオンまで戻って、地下鉄でジュシューまで行く。ここからジュシューまではそれほど遠くはない。オデオンからは距離にして1.3キロくらいだから歩いても行ける。しかし、ノッコは右足の小指にマメを作ってしまい、歩くのが辛そうだ。



遠い夏に想いを-ジュシュー駅  ジュシューの駅から外へ出た。何故ジュシューに来たのだろうか。そこが分校への地下鉄の駅と考えたのだろうか。それとも、あの女性の職員の言葉の通りに来てしまったのだろうか。


 駅の出口で、奥様は一瞬立止まったまま動かない。
「どうしたの」
「こんなだったかなあ・・・」
18年間ノッコの記憶の底に眠っていた街の面影と目前の街並とが重ならないようだ。正直言って、私も直ぐに思い出せなかった。何も覚えていないのだ。何分間過ぎたろうか。2人は時間が一瞬止まったかのように言葉なく立尽くした。

 私達が日本で大学生として過ごしたあの1950年代、実存主義に非らずんば哲学にあらずの暴力がはびこった。あの床の軋む木造2階建ての『新宿紀の国屋書店』の売場にはサルトルやハイデッカーなどの実存主義の書籍が溢れんばかりに書棚を占領していた。理解出来ようと出来まいと(理解出来なくとも、出来たような振りをする連中が大半)実存主義のヤスパースかハイデッカーかサルトルの本を1冊くらい本棚に飾って置かないことには大学生として格好がつかない時代であった。


 ノンポリ学生だった私にとってはプレベールの詩集の方が魅力的だったし、『枯葉』を口ずさみ、字引を片手にガリマール版の「パロール」の『バルバラ』を読む方が楽しかった。
「ラペル トワ バルバラ・・・」とやっていると、ノッコに大笑いされたものだ。


 かつてパリに居た頃、あの日は一日じゅう雨が降ったり止んだりだった。富田さんとエティエンヌさんとドゥー・マゴーで待合わせをした。フランス語が話せないチャオを元気づけるために、彼は私達をトロカデルロの海洋博物館へ連れていってくれた。


 ここはなかなかの穴場で、子供連れか船に関心のある人はエッフェル塔の帰りなどに立寄るのも楽しい。但し、ナポレオン嫌は止めた方がよい。ナポレオンはフランス人にとっては英雄だが、どんなに偉そうなことを言っても周囲の国にとっては単なる侵略者に過ぎない。まさにベートーヴェンが「エロイカ」交響曲にナポレオン対する献辞を記したが、皇帝になったという知らせに表紙を破り捨てたという逸話が残っている。皇帝になり独裁者なったナポレオンに相当腹がっ立ったのだろう(但し、逸話だから本当かどうか判らない)。


 この時はトロカデルロまで車で連れていってくれた。車中で車にからんだ国民性の話になった。
「アメリカでは、車はどうしていたんですか」
「最初の年は車なしで辛抱しましたよ。買物は近所の人達に連れてってもらって。夏休に入って、アメリカ人の友人が奥さんの使っているオペルのライトバンを持ってきて、休みの間使ってもいいと言うんです。本人は雨が降らなきゃ、自転車で会社へ行くからと。友達になったとは言え、そんな好意を受ける訳にいかないって、断ったんですが、彼、車をパーキング・ロットに置いて帰ってしまったんです」
「そんな、とても信じられないな。フランスでは。車を貸すなんて。ハンドルにも触れさせませんよ。そうゆうところは、徹底して割切っていますね」


 帰りに寄ったモンパルナスの近くのプリュメ通りにあった彼のアパートで、遅い昼食をご馳走になりながら、いつのまにかフランス人気質とアメリカ人気質の比較談議になっていた。パリの人間はパリ人であってフランス人ではない。日本人もアメリカ人もパリに滞在し始めると、最初にこの壁にぶち当たる。これを乗越えられないと『フランス嫌い』になる。ひどい時はノイローゼにさえなる。