いつ建てかえられたのか分からないが、デザインから推測すると、70年代の後半に建てられたものと思われた。後で知ったのだが、ここは第6と第7校で、自然科学が中心の校舎だった。
当時の第3校は、薄暗く汚い校舎だったような記憶があった。学制改革で、パリ大学は学生数も飛躍的に増加したのだから、あのオンボロ校舎では収容できなくなったのだろう。パリは変わらなくとも、若い世代は確実に変わって行く。これで、奥様の貴重な『遅れた青春』の思い出は記憶の中だけに生きることになった。
「何も残ってないわ。本当にここなのかなー」
ノッコはもう一度構内を見回した。なかなか諦め難く立去り難い気持ちのようだ。夏休なので学生が時たま訪れるだけで、構内は静まり返っていた。エコール通りを渡って、向かいの本屋へ行った。大きな緑の窓枠が目立つ店だ。扉を押して中へ入る。扉が軋んでドア・ベルがチャリンと鳴った。小さな本屋で、暗い店内には本が無造作に並んでいる。
「ここは昔のままだわ」
ノッコはホッとした様子で呟いた。並んでいるのは植物・動物等の自然関係の本が殆どであった。ここがノッコの記憶と繋がる唯一の場所であった。
記憶の不確かさには別の理由も考えられた。分校には3ヵ所から通ったからだ。最初の3日間はリル通りのホテル・ベルソリーズから、次の2週間はオデオンのホテル・コンデから、残りをモンスリー公園前のINODEPから、それぞれ違う地下鉄の路線を使っての通学だった。日本での大学生時代、ミネソタでの夏期講座と聴講生時代、そしてパリの夏期講座時代と3度の学生生活をおくった。けれど、どうゆうわけかパリの記憶が一番薄い。この第3校は、この旅で最も行きたい場所だったろうに。
しかし、私にはぼんやりした記憶の謎を解く手掛りが他にあった。ホテル・コンデに居た時に、学校までノッコを送って来て、帰りはチャオと2人で小さな菓子屋や雑貨屋のウインドーを覗きながらブラブラと坂道を下ったり、裏道を抜けたりしながらホテルまで歩いて帰った記憶があった。6歳のチャオと歩いて帰れる距離だったこと。ホテルのあったコンデ通りまで15分くらいだったと記憶していた。もう一つは、植物園が直ぐ近くにあったこと。授業の終わりにノッコと校舎近くで待合わせる時は、チャオと2人で植物園に行って時間を潰したものだ。
今思えば、ジュシューの駅を出たら、隣接する植物園の方に行き、リンネ通りを通って10分も歩けば、サンシエ通りの第3校に行けたはずだ。植物園からでは5分とかからない。
ミネソタの遠い日々
- New -
1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ