遠い夏に想いを -209ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 チャオの7歳の誕生日はモンマルトルが見えるこの部屋でやった。イギリス旅行から帰った頃だったろうか。洋子さんもエリザベート寺田さんも自前の料理を持参した。久しぶりの誕生パーティーでチャオは上機嫌だった。そして、7歳になるのが何よりも誇らしげだった。


遠い夏に想いを-アテネ  パリからの帰途、ジュネーブ、ウイーン、ミラノ、べネチア、ローマ、アテネ、ベイルートに立ち寄ったのだが、アテネの電車(実際はトロリー方式だったが)のなかで車掌がチャオを見て言った。
「料金を払え」
ギリシャ語で叫んだので、意味が分らなかった。
同乗していた太った優しそうなおばさんが同情して英語で助けを出してくれた。
「こんな小さな子に料金を払えなんて、なんてひどいことを」
「おまえ何歳だ」
車掌が言う。
おばさんが英語で通訳してチャオに聞いた。
「僕、7歳だよ」
チャオは胸を張って英語で答えた。
「あっ!」
私は声を出してしまった。日本に帰るまでお前は6歳だぞと言い聞かせてあったからだ。7歳になって10日くらいしか経っていなかった。

車掌は勝ち誇ったようにそっくり返った。
「7歳じゃね」
おばさんはそう言って黙ってしまった。
これは私が悪かった。親切にしてくれたおばさんには申し訳なく思っている。


 アテネでは見解の相違と意思の疎通不足からもめ事にもなった。朝、ホテルをチェック・アウトする際にドルで宿賃を払おうとするとドルは受け付けないと言う。ホテルにチェック・インする時に受付の担当者にドルしかないが大丈夫かと確認していた。
「その担当者を出してくれ」
「昨日の担当者は今日は非番です」
「じゃあ、両替所はどこだね」
「ここから15分くらい歩いて・・・」
「もう飛行機が出てしまうから、急いで空港までいかないと」
結局、ドルを「受け取れ」「受け取らない」のやり取りの後、「金を払わないで出るから」と怒鳴ったら、「仕方がない、いいですよ」「両替手数料も払わないぞ」とむちゃくちゃな要求をして、結局、手数料は折半ということでホテルをでて、タクシーに乗り空港へ向かったのを思い出す。今になって思い出すと、こんなことはすべきでなかったと悔やまれる。

 ここの建物はマリア会の所属で、修道女が地方からパリに来た時のための宿泊施設だと教えられていた。ノッコがパリ大学の第3校で知り合いになった洋子さんの紹介で、日本から来ていた修道女のエリザベート寺田さんという女性にお会いした。彼女は私達の窮状を察してここを紹介してくださった。


 当時、フランス・フランは約60円だった。三つ星のベルソリーズが110フラン前後、一つ星のコンデが35フランだった。INODEPの最初の部屋は11フラン。その後、暫くして、同じ階に15フランの少し広い部屋が空いて、私達3人は引っ越した。少し高くなったが、やっと親子3人が落ち着いて寝られるようになった。


 何よりここが良かったのは清潔だったことだ。エレベーターもあった。各階に共用のシャワールームと台所があった。シャワーは無料で、台所には電気冷蔵庫があり、自炊者は冷蔵庫の中に自分達の場所を決めてバター、チーズ、ハム等を保管した。ただ、時々ものが消えていることがあった。誰かが失敬していったのだろうが、使用料くらいに考えて諦めざるをえなかった。


 住人もさまざまだった。子供連れは私達だけだったが、一人住まいの若い人達が多かった。国籍もさまざまで、アルジェリアあたりから来た若者達が大声で騒ぐので一番目立った。


遠い夏に想いを-パリの夕景  細長い部屋で、北西に面して窓があり、高台なのでパリの街が一望できた。エッフェル塔もモンマルトルのサクレ・クール寺院も見えた。そして、何よりも美しかったのは、日暮れにパリの空を真赤に染める夕焼けだった。


 部屋に入ると左側に洗面台があり、その先に作り付けの白木の細長いテーブルが壁に取り付けてある。突き当たりの窓側にチャオのために小さなベッドを入れ、右壁に置かれたベッドに私とノッコが寝た。2人が寝るには狭かったが、ミネソタでもダブルベッド(といっても、フレームなしのスプリングマットだけ)を使っていたので、我慢はできた。今ならとても無理だろう。

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 駅を出て、グラシエール通りを南に進む。ここからアレシア通りとの交差点まで平坦だが、そこから先はモンスーリ公園まで緩やかな上り坂になる。近いようで遠かった。その時の気分や体調で道程が遠かったり近かったり感じたものだ。


 駅の近くのグラシエール通りに汚いガラージがあったが、今は随分と綺麗に模様変えされていた。とにかく、その頃住んでいたINODEP(マリア会の宿泊所)へ一気に行くことにする。アレシア通りを渡ってすぐ右手に細い袋小路がある。
「裏から入れたでしょ」
遠い夏に想いを-チャペルINODEP 「裏門は開いているかな」


 裏手から入ると、裏庭の先に見慣れた小さなチャペルがあった。ロンドンのウエストミンスター・アッビーの側の聖マーガレット教会と同じ位の大きさだろうか。でも、造りはやはりフランス的なゴシック風のチャペルである。チャペル・ジャンヌダルク。どうしてジャンヌ・ダルクに捧げられたのか未だに分らない。側廊の扉が開いていた。中を覗き、チャペルの中へ入った。お祈りが捧げられている最中だった。静かに側廊を進んで正面の入口から外へ出た。


遠い夏に想いを-INODEP裏側
 昔は中庭の左側には小さな花壇があった。当時はダリアが原色の大輪の花を咲かせていたが、今は、花壇そのものが無くなって、駐車スペースに変えられていた。 チャペルの前は小さな広場になっている。広場というより、この区域の中庭的なスペースといった方が当たっているかもしれない。


 正面には11階建の建物が建っている。レイユ通りに面した表側は街並に合わせたデザインになっているが、裏側はかなり現代風の作りである。

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 7号線でプラス・デイタリー駅へ行き、6号線に乗換えてグラシエール駅で降りる。その昔、ノッコが通学で通っていた路線だった。6号線のこの部分は地下鉄なのだが高架になっている。この先のビルアケム橋を渡る時に、セーヌ川の向こうにエッフェル塔が望めるあの素晴らしい眺めとは比較にならないが、高架線の上から眺める庶民的な街並も捨て難い。


 ところが、何を勘違いしたのか、乗換えの時に反対側の電車に乗ってしまっていた。何となく景色がおかしいなと思いつつも、18年も過ぎたのだから街の様子も変わるだろうなどとノッコと話しているうちに、電車はセーヌ川を渡ってベルシー駅まで来てしまった。


 慌てて飛下り、反対側のフォームに渡る。ここらはまだ旧式のままだから、自動改札口で切符を自動的に剥奪されることもない。こうゆうおおらかさが残っているのは有り難い。最近は急激に視力が悪化し、標識、案内図、注意書、説明文、地図等いちいち眼鏡を掛けないと読めない。眼鏡が煩わしくて、全て勘を頼りに判断してしまうため、思いもかけない間違いをすることが多くなった。


遠い夏に想いを-グラシエ駅  グラシエールの改札を出て駅前に立った。高架線の下が駅になっている。この殺風景さというか、駅前的な街並が全然ない。ここも昔と変わってない。自分達がここに住み続けているような奇妙な感覚に襲われるほど街の様子はそのままだ。タイム・スリップしてバック・ツー・ザ・パストだ。


 この辺りはパリの南端に位置し、東京でいえば代々木あたりの街並みの感じだろうか。下町という土地柄でもないし、それかと言って、高級住宅街でもない。街並にも特徴がないし、美しさが有る訳でもない。しかし、自分達が住んでいた所と駅がそのまま変わらず残っていること自体がすばらしい。


 グラシエールという駅名はパリでも奇妙な名前だ。氷室を意味するので、不思議に思っていた。その昔、この近くにはビエーヴル川という小川があり、途中に池や沼を形成しセーヌ川に流れ込んでいた。そこで自然氷をつくていたらしい。それが駅名の由来であった。その後、ビエーヴル川は汚染が酷くなり、暗渠にされてしまった。

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 パリの植物園は広くてなかなか立派であった。アンリ・ルソーがこの植物園に来て、「蛇使いの女」や「夢」などの熱帯地方の絵を描いていたという。とは言っても、恋人同士ならいざ知らず、植物に興味も関心もない親子が何度も訪れるほど楽しい所ではない。


 チャオは出かける時は何時も幼稚園のマークの入った小さな紺のショルダー・バッグを担いでいた。そこにはチャオの全財産がはち切れんばかりに押込まれていた。殆どがアメリカから後生大事に持って来たものばかりで、『チャーリー・ブラウン』のポケット・サイズの英語の本が2冊、ガリマールのポケット版の世界地図集、小さなノート、エンピツに消しゴム、キヤンディーにチョコレート、その他、輪ゴムだとか訳の分らない雑多なもので一杯だった。チャオにとっては全て大切な財産であったから、何時も全部持ち歩くことを主張した。


 植物園を一回り散歩したあとは、ベンチに腰掛けて、本を読んだり、地面に小枝で格子を書いて陣取りゲームをしたりして時間を潰した。絵を描いたり、英語で文章を書いたりと、チャオは自分の時間をどうやって過ごすか、その術を知っていた。


 ママは7月上旬から8月上旬まで毎日2時間以上授業があったと思う。6クラスくらいあって、入学時に先生と個人的に口頭試問があり、結果として上級クラスに入れられたらしい。午前中は授業があり、待ち合わせが午後になった。記憶がないとは不思議である。


 ジュシュー駅に戻って地下鉄に乗った。しかし、奥様はここがかつて学んだ分校とは、どうしても信じ切れない様子だった。確かに、この分校は自然科学が中心だから、奥様の勘は当たっていた。


遠い夏に想いを-diploma  後日談がある。91年の暮れに家を新築して、引っ越した際に、留学関係の古い書類が出てきた。修了書を見ると、やはり場所が違っていた。第7校ではなく、サントゥイユ通りにあるパリ大学第3校・新ソルボンヌ(Universite de la Sorbonne Nouvelle) だったのだ。最寄りの駅はサンシエ・ドーバントン。ジュシュー駅からサンシエ・ドーバントン駅は近い。それに、植物園に行くのにオデオン駅から地下鉄に乗ったらジュシュー駅で降りるのが一番便利だ。だから、私もノッコも帰りはジュシュー駅を使っていたから、第7校の周辺は記憶に残っていた。ジュシュー駅を降りたら反対の道を植物園に向かって歩くべきだった。


 今になって思うと、植物園でチャオと待っていた時に、授業を終えたノッコは南の方角(セーヌの反対側)から来た筈だ。それよりも自分で第3校に入学の申請書を書いて送っているのに、忘れるとはもってのほかだよ!何はともあれ、もう一度パリに来る理由が出来た。今度こそセンチメンタル・ジャーニーの締括りをやらなければ。たとえ校舎が全く変わっていてもだ。

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