遠い夏に想いを -208ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-ラミラルムシェ  アレジア通りの手前でラミラル・ムシェ通りへ出る。この通りにも店が数店あった筈だ。但し、当時はこの通りで買物をした記憶が殆どない。しかし、気のきいた菓子店があったのを覚えてた。当時は、苺や洋梨のタルトが色鮮やかに通りのウインドーに並べられていた。お金も無かったし、タルトも余り好物では無かったので、ウインドーを覗くだけで、一度も買ったことはなかった。


 今日は結構暑い。アイスクリームの垂れ幕が出ている。
「アイスクリームが食べたい」
ノッコの声にせかされ冷蔵ケースを覗く。残念ながら、中は空だ。ヴァカンスの真盛りでこんなに町が閑散としていては客も来やしない。
「残念でした。でも、フランスのアイスクリームなんてたいして美味しくもないさ」
 慰めの言葉にもならない。


 昔、ある天気のよい日に、チャオとヴァンセンヌの森へ出かけた。チャオがアイスクリームが食べたいと言うので、屋台でアイスクリームを買って食べた。まさにシャーベット(Sorbet)のような代物だった。当時、私達はアメリカのアイスクリームに馴れ親しんでいたため、フランスのアイスクリーム(Glace)は味もそっけもなかった。


 このラミラル・ムシェ通りを真直ぐ歩いて、左に曲がってしばらく行くと海外発送の取り扱い店があった。当時、帰国する際にかなりの手荷物を日本に送り返した。数か国を廻って帰る予定だったので身軽にしておきたかった。重くてふうふう言いながら荷物を運んだ記憶がある。


 アイスクリームは諦めて、アレジア通りを渡った。角にカフェがある。余りぱっとしない店だったが、今日は閉まっている。ペンキの剥げかかった外壁と、ヴァカンスの告知がないのに、ガラーンと人気のない気配からして、むしろ、店をたたんでしまった感じである。


 今は禁煙してしまったが、当時、よくここでタバコを買った。カフェでコーヒーを飲んだのは数えるほどしか無かった。ロンドンのチャールズやバーミンガムのハリーへはここから電話をした。カフェの利用方法はいろいろとある。コーヒー、軽食、タバコ、トイレ(勝手には入れないが)、それに電話だ。当時、フランスは電話事情がよくなく、日本に比べてどこにでも電話ボックスがあるという状態ではなかった。イギリスに電話をするのに、どこから掛けてよいのか見当も付かなかった。

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遠い夏に想いを-大学町  当時,INODEPに越して来る前にシテ・ユニヴェルシテを訪ねたことがあった。安全で安い宿泊施設を捜していたからだ。ここには日本館、通称、薩摩館がある。空きがあったら潜り込もうと思ったのだが、既に順番待ちの予約が気の遠くなるほど入っていた。この大学町を散歩するのは楽しい。しかし、初めて来た時は、楽しいいというよりも、驚きの方が大きかった。


 アメリカでも大学町はいくつか見た。ミネソタ大学にはミネアポリス・キャンパスのそばにディンキー・タウンと呼ばれる小さな学生町がある。隣のウイスコンシン大学があるマディソンにも大学町がある。東部のプリンストン大学の大学町にも素敵な通りが走っている。ハーバード大学はケンブリッジ大学をモデルとしてキャンパスが作られているので大学城下町がある。ハーバードは歩くだけでも楽しい。


 市街地にあるパリ大学にもサン・ミシェルやサン・ジェルマン・デプレがそれに相当するのだが、ここのシテ・ユニヴェルシテはかなりその趣を異にしている。学生の収容施設だけの町である。それでこれだけの規模を有するのは珍しい。豪華で国際的で、その上、大変に開かれた雰囲気がある。


 今日は構内を歩いて回る時間がないので、このまま来た道を引返すことにした。橋を渡りモンスリー公園の高台に戻る。池に沿って左手の散歩道をゆっくりと下だって行く。当時より手入れが行届いて清潔で明るくなった。今年の夏は子供達の叫び声が聞こえない。あの頃は、小さな子供達の騒ぎ回る足音や泣声が響き渡ったものだ。


遠い夏に想いを-パン屋  公園の門を出た。地下鉄の駅まで戻ることにした。かつて、毎日歩いた道だ。ここからは緩やかな坂道が下っている。通りの左側にあるパン屋は夏のバカンスで休業中。今はすっかり洒落た店になっているが、当時、ここのパン屋は私達の行きつけの店で、中年の栗毛でふっくらした顔のおかみさんがいつも店を切り盛りしていて、愛想よく長いバケットを裸のままヌーと手渡してくれた。フランス人はパンを紙袋に入れたり紙でくるんだりせず、裸で持ち歩くものとは話では聞いていたが、自分で初めて体験してみて一瞬途方にくれた記憶がある。この界隈としては当時から小綺麗で清潔なたたずまいの店だった。パンをかじりながら歩こうと思ったのだが、パン屋がヴァカンスで休業では仕方がない。

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遠い夏に想いを-モンスリー01  公園の門を入ると真中に三日月型の大きな池がある。当時、チャオを連れてよく来た右手の砂遊び場は無くなっていた。真直ぐ小道を進んで池のそばのベンチに腰かけた。


 パリもこの辺までは観光客も旅行者も来ない。年寄りや乳母車を押す若い夫婦など、近隣の地域住民がほとんどである。リュクサンブール庭園なのフランス式庭園と違っていたってのどかである。池には大きな黒鳥と鴨が数羽水面に波紋を残して泳ぎまわる。
「当時より随分きれいになったなー」
「そうね。お花が多くなったみたい」


遠い夏に想いを-モンスリー02  ゆっくり立ち上がった。夏とは思えない心地よい陽ざしだ。ゆったりと静かに流れる時間の中で自然のざわめきが聞こえる。池に沿って昔ながらの舗装された小道を歩いた。


 当時は何かうっそうとして、余り手の入っていない自然そのものの、いかにもイギリス式庭園という趣があった。正面の小山への上り口に小さな橋があり、その下を水が流れ落ちている。この辺りも日本庭園のように石を敷き詰めて小綺麗になってしまった。



遠い夏に想いを-地下鉄駅  小山を上まで登りつめると、そこには砂場やブランコがあり、子供の遊び場になっている。むかし公園の入口の右手にあったものを移設したらしい。小さな子供達が母親に見守られながら大声をだして遊んでいる。子供達の声を後にして、シテ・ユニヴェルシテの駅の上を跨いでいる橋を渡った。


 その昔、初めてこの橋の前に立った時のことを覚えている。何故か大変に驚いた。こんな静かなところに、いきなり電車が轟音をたててホームに姿を現したのだ。今でも何故か驚きが襲う。パリでは予期しない眺めなのかも知れない。


 橋を通り抜けるとシテ・ユニヴェルシテの世界だ。まだ公園の延長だが、芝生にはビギニ姿の若い女達の白い肌が夏の光に輝いている。記憶にない光景だ。昔はアメリカのキャンパスでビギニ姿の女の子達が広い芝生の上でよく日光浴していたものだが、当時のパリではこうゆう姿はプールなどの水辺以外では殆ど見かけなかった。やはり時代は確実に変わてゆく。

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 さて、裏手からINODEPの建物に入った。背の高い尼さんとすれちがった。私が声を掛ける。話すのはノッコだ。
「18年前に2か月半ここに住んでいました。ここはまだINODEPですか」
「そうですか。でもINODEPは別の場所に移りました」
「当時、エリザベート寺田というシスターに紹介されてここに住み、色々と思い出があるのです」
「彼女のことは知りません。でも、新しいINODEPの住所を教えてあげましょう」
「ここはもうINODEPじゃないのですね」
彼女は玄関の脇にある守衛室の若い男性を呼んだ。彼はメモ用紙に住所を書いてノッコに渡した。
「グラシエール駅のすぐ先ですから近いですよ。行ってみたらどうですか」
「ええ」
そう言って我々は礼を述べ、玄関から外に出た。


 レイユ通りをはさんで前はモンスーリ公園である。1878年のナポレオン3世時代に完成した公園で、パリの3大公園の一つといわれている。ここの公園は、幾何学模様のフランスやイタリア庭園と違って、イギリス式庭園と呼ばれていている。余り手を入れていない、うっそうとした自然が残っていた。日本の近代公園がそうであるように、日本人の私達には違和感がなく、大変に親しみやすい、心が落着く場所であった。


遠い夏に想いを-ヴェルサイユ  フランス式庭園も悪くはないが、たかが幾何学模様の庭園を作って「自然に対する勝利(Triomphe)」などと叫ぶフランス人のアホさ加減にはついて行けない。自然を友として生活をしている東洋人、特に日本人にはそう思う。昔の日本人は自然と調和して生きてゆくことが当たり前だった。自然に対する優しさがあった。日本で人間が造った美しい自然といえば、私は躊躇なく「棚田」をあげるだろう。もう数が少なくなったのが残念だ。(写真は’72年にヴェルサイユ宮殿に行ったときのもの)


 しかし、ヨーロッパの自然が整然として絵のように美しいのは、この精神の成せる技である。幾何学模様の庭園だけに限ったことではないのだ。中世からめんめんと続いてきた自然にたいする考え方や接し方の違いなのだ。「人間中心主義で、自然は敵であり征服するもの」というユダヤの砂漠に生まれたキリスト教の精神が根底にあるからだろう。この傾向は時にカトリックの国に多いように見受けられる。

遠い夏に想いを-INODEP正面  また、帰国が近づいたある日、フランス語のクラスで一緒だったカナダ人のマークをINODEPに呼んで夕食を共にした。チャオはマークに本を読んでもらったり、色々教えてもらったりした。分厚い本をチャオが持ってきて、ページをめくり始めた。もたついていると、マークが割って入った。
「どれどれ、英語の本というのは、目次を甘く見てはいけないんだよ」
チャオが探していた頁を彼は素早く開いた。何事にもきちんとして落ち着いる男だった。英語でパパ以外の男性と話ができて、チャオは久々に上機嫌だった。


 ママは奮発してブッフ・ブルギニヨンを朝から準備していた。ミネソタにいた時にフィリップのアパートで夕食をご馳走になり、その時モニックが作ったブッフ・ブルギニヨン(牛肉のブルゴーニュ風赤ワイン煮)が余りに美味しかったので、レシピをもらってあった。ノッコはいつも目分量で料理を作っていたのだが、この時はレシピどおりに腕を振ったのだ。出来栄えは上々であった。
「今日のシチューは特に美味しいね」
「材料がいいからよ。ワインも牛肉も日本と違うし」
当時の日本のワインは国内産のブドウを使っていたので、今では想像もできないほどひどかった。赤はだだ酸っぱいだけで、フルーティさや若々しさとはほど遠い状態だったし、白もどういう訳か埃っぽい味がした。それでも1本500円以上した。

 この日は奮発して5フランで(当時の金額で300円だ)、AOCの一番安いブルゴーニュのピノ・ノワールを買ってあった。
「料理には飲むワインと同じ位のものが必要よ」
どこから仕入れたのか、たかが5フランのAOCなのに、通ぶったことを言った自分に笑い転げていた。


 マークは無料のシャワーにも入り、久し振りの家庭料理に大満足だった。私達は箸を使って食べた。マークは自分も使ってみたいと言う。予備の割り箸を器用に扱いながら感心したように言う。
「僕は東洋文明にある種の尊敬の念を抱いているんです。箸もそうです。フォークやナイフは武器や農工具そのものです。西洋人は人を殺す道具で食事をするのです。ところが、箸は違います。食事をするための道具としてつくられたからです」


 16世紀にカトリーヌ・ド・メディシスがフィレンツェからフランス王のアンリ2世に嫁いだときに、イタリアの料理人とともにフォークなどの食器を持ち込んだ。それまでフランスでは食事は手で食べていたらしい。


 もし彼の夢がかなったら、素晴らしい外交官になるだろう。相手の国を理解し交渉にあたる外交官。新しい友を作り、耳を傾け合う。外国にあっては特にその素晴らしさを肌で感じる。