遠い夏に想いを -207ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 ホテル・コンデに前にも書いた日本人の若いカップルが同棲していた。女の子はフランス語を勉強に、男の子はレストランで皿洗いをしながら料理の勉強に来ていた。みんな貧しく、孤独だった。
「パリに居る日本人はひどいんですよ」
「どうして?」
「一日でも先に来た者は偉そうな顔をして威張るんです」
「へえー」
「だから、日本人は街で見掛けても、お互いに声も掛けないし、顔も見ないようにしているんです」


 私達も別に日本人に関心が有る訳でもなかったが、子供連れが当時は珍しかったので、時々声を掛けられた。ある日、リヴォリ通りを3人で歩いていた。リヴォリ通りは当時も観光客めあての店屋が多いところだったが、一軒の店のウインドウを覗いていたら、日本女性の店員がいて声をかけてきた。
「お子さんが一緒だったので、観光客ではないと思って」
「まあ、短期の留学で滞在しているので、旅行客と同じようなものですよ」
「日本の観光客は物凄いのです。このウインドーにあるものを全部くださいなんて、こちらは有り難いのですがね」
私たちは驚いてしまった。当時、金持ちの庶民や農協さんの団体旅行が流行りだしたころだった。我々はとてもそんなお金がないので、リモージュのちっちゃな飾り皿をひとつ買うのがせい一杯だった。


 この偉そうな態度には、日本人特有の年功序列が関係している。特に、年齢の差は社会的に色々な面で影響する。日本人が人に年齢をよく訊くが、これは先輩ぶるためだ。相手が自分より上なら下手に出る、自分より下だと突然横柄な態度と言葉づかいになる。これを日本人は無意識におこなっている。だから若い人は特に疲れる。外国では人に歳を訊くことは滅多にない。外国人に対しても日本人はこんな態度をとらない。パリという外国の都市にいると、この日本人の言動はあまりにも異常で目立つことになる。


 この2人の若いカップルは、 先輩振りを発揮して、ベトナム人が経営する左岸の中華料理屋に私達を招待してくれ、ご馳走までしてくれた。なかなか気持ちのよい若者達であったが、彼等のパリ滞在も長くは続かな かったようだ。


 モンパルナスで11号線に乗換遠い夏に想いを-ノ-トルダム えてシャトレで降りた。セーヌの右岸に沿ってポン・マリーまで散策する。パリは歩くのに限る。空が少し薄曇りになってきた。風が出てきて一段と爽やかになった。

 ポン・マリー橋を渡ってサン・ルイ島を横切りトゥルネル橋からセーヌに浮かぶシテ島とその上に聳えるノートルダムを眺める。川面をじっと見詰めていると、シテ島がまるで20万トン級の巨大船のようにゆっくり進んで行くような錯覚に落ちる。

 グラシエールの次はサン・ジャック駅。この駅も高架線上にあるが、線路わきの町並に記憶があった。ここの駅には1度だけ降りたことがある。


 まだ、オデオンのホテル・コンデの屋根裏部屋にいた頃だった。「サン・ジャックにあるホールで江藤淳の講演があるから行ったら」


 誰か忘れたがそう教えてくれた。日本を出てからほぼ2年、この種の集りには出ていなかったので、ノッコとチャオの3人で出掛けた。500人は収容できるホールは結構の入りで、当然の事ながら日本人ばかりである。それにしても、こんな難しい(子供にとってはつまらない)講演にチャオが文句も言わずに椅子に座っていてくれたのは有難かった。




 江藤淳の人気絶頂期であった。演題は忘れたが、明治維新と日本人の同質性についての話であった。当時は日本経済が急速に発展し始め、商社を先兵隊として海外進出が始まった頃だった。アメリカにはニッサンのブルーバードやトヨタのカローラが学生達に重宝がられ、家庭のセカンド・カー、サード・カーとして使われ始めていた。



 日本の発展を説明するのに、『ホモジニアス対ヘテロジニアス論』(単一民族対多民族)とか『農耕民族対狩猟民族』とかは充分に説得力があった。イザヤベンダサンの『日本人とユダヤ人』がベストセラーになった後だったし。


 たしかに、多民族国家が世界の主流であるなか、日本は単一民族国家に見える。しかし、今思えば、それだけで日本の発展を説明できるだろうか。国が発展するにはいろいろな要因がある。農耕民族と単一民族だけでは説明ができない。アメリカは多民族国の見本みたいな国だ。今では、このような単純な発想はしないだろう。当時はみんなが懸命に一丸となり前進することだけしか考えない社会だった。何かその理由が欲しかったのだろう。


 その発展のおかげで、当時、ヨーロッパには、学生、芸術家、外交官といった旧型のパリ在住の日本人とは異なる種類の日本人が集り出していた。

 さて、そろそろ、この街にも別れを告げる時間となった。
駅前のサン・ジャック大通りまで来てノッコが言う。
「新しいINODEPに行ってみる?」
「地下鉄(高架になっている)の下をくぐって、この通りを行けば大して時間は掛からないだろうけれど、行ってどうするの?」
「そうか、もうINODEPに泊めてもらうなんてことは有りそうもないから無意味ね」
いまだに好学心に燃えて、留学願望が吹っ切れないでいる。2人は顔を見合わせて苦笑してしまった。通り
のこの辺りは並木が多く、青々とした木々の歩道は広々としている。


遠い夏に想いを-駅前通り  地下鉄駅の近くに「ニコラ」が同じ場所にあった。ニコラは大手の酒販売店で、パリ市内だけでも100軒以上の店舗を所有するという。


 酒の飲めない私が時々葡萄酒を買いにニコラに立寄ったものだった。当時、日本では葡萄酒がまだ変人の飲物で、国産ではサドヤとかメルシャンくらいしかなかった。一番安いボトルが500円から700円に値上がりした頃だったろうか。とても不美味くて飲めた代物でなかった。酒税の違いかフランスやイタリアは安かった。5フランでメドックAOCが買えた。2.5フランから3フランでVDQSが買えた。安いテーブル・ワインなら僅か1フランか1.5フランだ。それでも節約したい時は、ニコラでなくて近くのコンビニのような店で安いワインを買う。当時1フランが60円弱だったから、150円でVDQSが買えた!VDQSでも当時の日本の葡萄酒の味より遥かにましだった。フランスでワインが安いのは酒税が低いのが一因だ。


 当時、日本ではフランスの輸入ワインが特売のカルヴェのグラーブで1.200円はした、イタリアの丸いフラスコ瓶のルッフィーノがやはり同じくらいの値段だった。だから、日本に帰ったらフランスのワインは飲めない。金が無くともパリで買って飲むのが理に適っている。これが屁理屈であった。人間は自分の行為を正当化するためなら、どんなおかしな理屈でも並べたてる。でなければ、自分自身をやってゆけない。また、これをお互いにある程度認めあうことで、世の中がうまく行くものなのだ。

遠い夏に想いを-monopli  この通りの右側にはスーパーマーケットのモノプリがある。殆んどの日常品や食料品はこの店で調達した。INODEPの冷蔵庫は共同利用だから1日分を買って食べ残した分を貯蔵する位しかスペースがない。だから、殆んど毎日、外出の帰りに立寄ってその日の分を買った。


 モノプリはもともと安物衣料品の扱いが本業で、食料品はスーパーの体裁の一部にしか過ぎない。従って、衣料品が1階で食料品は地階になっている。規模はさして大きくないが、外国人の我々には手頃で便利な店であった。


 今回も地下から入り、1階へ抜けてみたが、地下は食料品で1階は衣料品と雑貨で以前と同じだ。地下の階段の昇り口にあった酒ビン回収カウンターが無くなっている以外は、18年前と何一つ変わっていない。



遠い夏に想いを-美容院  モノプリを出て表に抜ける通路の角までは商店が並んでいる。今は少々古ぼけたが、小綺麗な美容院があって、この店の前を通るとノッコはよく言ったものだ。
「今度パリに来たら、絶対に美容院へ行く!」
これは今回もかなえられそうにない。お金は少々あるが、時間がないから。


 ノッコのこの言葉には訳があった。日本を出てアメリカとヨーロッパに滞在した2年間、美容院と床屋の敷居は1度も跨いだことがなかった。当時はお金がなかった。日本に帰って出来ることは、極力やらない主義だった。


 日本料理も72年のメモリアル・デイの休日に、アメリカの友達の家を訪問するためシカゴに行った際に、田舎の駅前食堂のような薄汚れた日本食堂に1度入っただけだ。でも、あの「めし」は旨かった。大きな切り身のマグロの刺身は三段重ねで皿からはみ出していた。刺身のツマも大根の千切りもない。ただ赤身の刺身が皿にのっているだけ。そして、正直、これほど美味なマグロの刺身は始めてだった。米もカルフォルニア米で、チャオは腹がはち切れそうになるまで黙々と食べた。満足し切ってニコニコしている顔を見ていると、「やっぱり、日本の子なんだなー」と改めて感心してしまったものだ。


 アメリカの大学で美容院に行く者は、裕福な日本人留学生の奥さん以外、殆どいなかった。アメリカの女子学生や学生結婚の女房どもはカーラーとセット・ローションで何とかしのいだし、男達は女房達にハサミでチョキチョキやってもらってお終い。そうゆう時代だった。パリに来ても我々の事情は少しも変わらなかった。そこで「美容院に行きたい」がノッコの口癖になった。私も最後の剃刀の刃で2ヵ月ひげを剃った。終いには顎の皮がヒリヒリ痛む程のケチケチ振りだった。

遠い夏に想いを-アレジア  色々教えてくれたのは、パリに住んでいた洋子さんだった。カフェで国際電話が掛けられるなんて、日本の常識では考えられなかった。この点だけはさすがに国際都市であった。普通はジュトンを買って利用するのだが、国際電話は店のおやじが交換につないでくれる。相手と話し終えると、おやじが交換手に料金を聞いてくれて、こちらが相当額をはらう。INODEPにかかって来た電話は、いい顔はしないが、係りが部屋まで取次いでくれる。しかし、こちらからは電話を掛けさせてくれなかった。


 カフェも最近では若い人達に人気が無くなり、その数がどんどん減っているらしい。こんな所にも効率主義と金儲けの風潮が押し寄せて来ているのだ。そのうち、本当にパリの街並みが変わってしまう日が来るかも知れない。


遠い夏に想いを-マップ03  アレジア通りの北東の角では定期的に朝市が開かれていた。野菜や果物、鳥や兔が歩道の台に並べられる。さして大きくもなく、閑散とした市だった。鴨や鶏や兔が羽や毛や頭を付けたままぶら下げられているのは、余り楽しいものではないし、食通でもない私には食欲をそそる光景でもなかった。


 ここから先はサンテ通りになる。通りの左側には馬の頭部の彫り物が店の軒先にドーンと突出している馬肉店がある。戦後の食糧不足の頃に、近所の肉屋さんからこっそり手に入れた軍馬の肉の塊をお袋さんが煮込んで食べさせてくれて以来、馬刺も桜鍋も食べない私には無縁な店であった。

遠い夏に想いを-Asterix
 アレジアという名前に記憶があった。ローマ時代にシーザーによって書かれた「ガリア戦記」だ。その最大の戦いがあった場所がアレジアだ。近くに地下鉄のアレジアという駅がある。何か古代の遺跡らしいものが残っていないか。
ある日、ノッコとチャオの3人でアレジアの駅まで歩いた。


 店屋を覗きながらぶらぶらとアレジア通りを歩いたが、何も見あたらい。このアレジアは単にガリア戦争でフランス(当時はゴール)が負けたのを記念して(誇り高いフランスらしくないが)付けられた地名に過ぎなかった。本当のアレジアはブルゴーニュ地方のアリス・サント・レーヌというところがその場所らしい。しかし、フランスには『アステリクス』シリーズというコミックがあって、人気を博している。当時、シーザー軍に対抗した勢力の英雄らしい。

 ミネソタの遠い日々 - New -
1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ