遠い夏に想いを -206ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 さて、何とか定食を平らげて店を出ることにする。あんなにガラ空きだった店内も満席になった。なにせ、この界隈の安レストランはどこもとっくに超満員だから、アブレた客達には選択の余地がない。それでも、入口から中を覗いて、殆どの観光客は一瞬尻込みする。パリへ来てこんな酷いレストランで夕食をとるなんて、夢想だにしなかっただろう。この客達の反応を垣間見るのも一興であった。


 外へ出た。火吹き男の大道芸も終わりに近付いていたが、彼を取巻く観衆は一向に立去ろうとしない。


 私達は夕暮れの迫る街をサン・ミシェル通りまでお腹をかばいながらゆっくり歩いた。まずい飯ほどお腹がはって苦しくなる。まずいワインほど速く酔いが回って悪酔いする。ラ・コショナイユのハウス・ワインは値段の割に美味しかったので、酔いがゆっくりゆっくり回ってくる。緯度が高い上に夏時間のせいで、空はまだ薄明るく、夕焼けの残照が宵闇の中にゆっくりとのみ込まれてゆく。


遠い夏に想いを-モンマルトル  パリの夕焼けは美しい。その昔INODEPから眺めた夕焼けはパリの街々を紅紫に染めてモンマルトルの丘の向こうに消えて行った。あの頃、サクレ・クール寺院には2度ばかり行った。チャオがケーブルカーに乗りたいとごねるのを、長い急な階段をフウフウいいながら登ったのが懐かしい。


 また、ある時には夕暮れの空が一瞬闇に包まれ、突然の雷鳴と同時に大粒の雨が激しく地面を打つ。このオデオンの駅のまわりは傘を持たない人達の右往左往で騒然となった。北国の夏は天候が激しく急変する。ほろ酔い気分で、昔の思い出に浸りながら夕暮れの街を歩いた。


 明かりがきらめくセーヌの川面を眺めながら、サン・ミシェル橋を渡り、裁判所の前を通る頃には風も出てきて肌寒いくらい遠い夏に想いを-夕暮れ に気温が下がってきた。サント・シャペルの塔が黒い影となって夕暮れの空にそびえている。ここにはコンシエルジュリーがあり、裁判所があって、その昔、マリー・アントワネットが幽閉されていたというから、少し不気味な感じがする。


 しかし、散策しながら照明に浮び上った夜のパリを眺めるのも楽しい、今日は余りにも疲れていたし、気温も下がってきた。とにかくホテルに帰って休みたいの一念だった。シャトレから1号線でフランクリン・ルーズベルトへ帰還した。

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 安レストランが出す観光客相手のお定まりの定食。美味しい筈がない。観光シーズンだから値段だって安くはない。しかし、ムード音楽の代わりにギャルソンの口笛。曲はプレスリー。この若いのは大したものだ。どんな客にも笑顔を絶やさない。腰も低く、動きも軽やかだ。これではストレスが溜らない訳がない。本当に、日本の若いウエイターどもにこの男の爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ。


 72年にパリにいた頃は、日本料理店と称する店は2軒くらいだったと思う。今はパリに限らず、『すし』が世界的に大ブームらしい。すしがアメリカに初めて進出したときから、なんて馬鹿なことを始めたのだと、少々腹立たしかった。『日本の食文化』を海外に広めるなどと鼻高だかの連中には怒りを覚えた。日本人は魚がなければ生きてゆけない。魚は農業や畜産業のように人為的に再生が不可能である。


 現代の日本では子供から大人までマグロのすしを日常的に食べる。戦前での話だが、商家だた私の家では暮れは忙しく、料理する暇がない。だから、使用人の労をねぎらうために寿司の出前をとった。すしを食べるのが暮れの一度だけ。今に魚が取れなくなって、すしどころではなくなるだろう。黒マグロもワシントン条約で取れなくなるに違いない。キャビアと同じ運命をたどるだろう。


 外が少し騒がしくなった。アトラクションが始まりそうな気配だ。痩せた初老の大道芸人の小男がさかんにわめいている。上半身裸の火吐き男だ。観衆を後ろにさげ、縄張を決めて、檻の中の熊みたいにうろうろ動き回る。何か叫んだ。
「なんて言ってるんだい」
「カメラは駄目って。写真を撮るならお金を出せって」
奥様の通訳付きは有難い。隠れてカメラをむける者がいて、見付けると芸人の男は大声で怒鳴る。しかし、ビデオ・カメラを回している連中には何も言わない。金を払ったのだろうか。ガソリンを口に含んで、一気に噴出す。間発を入れず、トーチを突出す。ゴーという音と共に1メートル以上の火柱が吹き上がる。吐く息には酸素がないから火は逆流しないというが、やはり、ぞっとするほどの炎だ。


 トゥールネル橋のたもとにある天下のラ・トゥール・ダルジャンでは川向こうに照明で浮上ったノートルダームをアトラクション代わりにして、金持は豪華で美味なる鴨料理に舌堤を打つのだそうだ。また、パッケージ旅行や団体旅行で来た人達は三つ星レストランでお定まりのディナーを食べる。しかし、パリまで来てこんな酷い大衆食堂へ連れて来られたら訴訟ものであろう。


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 ギャルソンがメニューを持ってきた。いたって、シンプルだ。店の名は『ラ・コショナイユ』、ノッコの説明だと、豚肉の家庭料理とでもいうことになろうか。ところが、店の名前とは関係なく、手書きのメニューには観光客目当ての定食ばかりだ。いわゆるフランス料理なんかじゃない。どこの国でも食べる『洋風料理』だ。豚肉の家庭料理などメニューの何処を探しても載っていない。選択の余地が無いのに、取り敢えず赤のハウス・ワインをグラスで貰って考えることにした。


 定食は上中下で、いわゆる松竹梅の3種類。この店では中の竹で充分だろう。こんな所で気取って上を注文しても、出てくる料理に味の差はない。違いはボリュームだけだ。


 外のテラスの2人は食事をしているのか、イチャついているのか判らない。店の中では『大工の頭領』が白の葡萄酒を1本テーブルに置いている。メシを食いながら、ワインを口に含む。コロコロと口の中で回してから、目を心持ち細めてゆっくり飲込む。いかにも旨そうな様子は日本の酒のみと同じだ。


 タバコのヤニや油煙で壁が黄ばんだ薄暗い店内。小さくとも、うなぎの寝床みたいに奥行きのある店だが、ギャルソンは1人だけ。客は3組しかいないのに、「忙しい、忙しい」の連発である。ところが、このギャルソン、とにかく面白い。四六時中、歌を口ずさんでいる。見掛けはシャンゼリゼ大通り界隈のカフェのギャルソンと変らない。観光客相手の英語は充分だ。しかし、シャンゼリゼ通りのギャルソンみたいに観光客ずれしていない。


「アメリカの歌が好きなんだね」
「そうさ、この曲知ってる?」
腰を曲げ、顔を近づけ、口笛を吹いてみせた。
「ああ、知っているよ。『ラブ・ミー・テンダー』だろう」
「そう、おれはプレスリーにぞっこんさ」
「・・・・」
「どうしても行きたいんだ。メンフィスにね。アメリカのテネシーのさ」
得意げに次から次と曲を変えて鼻歌を歌っている。テラスの若い2人の客は知らぬ顔。『大工の頭領』は背筋をシャンとしたままニヤニヤしている。
「ストレス。分るかい?」
「ああ、あの神経的なやつだね」
「そうさ。こんなところで毎日同じ仕事をしていると、鼻歌でも歌ってなきゃストレスにやられてしまうんだよ」


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 オデオン駅の界隈でこれ以上ひどい店は無いという飯屋で定食を食べる事になった。ここは小さな広場になっており、まわりの安ビストロは観光客で満員だ。この店には客がたったの2組。テラスなどと呼べる代物ではない。形もサイズもバラバラなテーブルと椅子が歩道を占拠している。このテラスにイギリス訛の英語を話す若い痩せた男と長い髪に厚化粧の女が顔を寄せ合って座っている。店の中には大工の頭領みたいに体のがっちりした年配のおやじが一人でメシを食っている。


遠い夏に想いを-安レストラン

 入口で一瞬ためらった。余りにも酷い店だ。昔のお金が無い頃でも、こんな情無いレストランには入った記憶がない。店の外側は補修の為にパイプでやぐらが組んである。おまけに店の前には1トン積みの汚い小型トラックが置きっぱなしだ。


 突然、奥からギャルソンが勢いよく飛び出してきた。まるでイルカがスイスイと小気味よく泳ぎ回る姿にそっくりだ。
「どこの席にしましょうか」
どこでも空いていますと言わんばかりに、身体をくねらせて、手振りよろしく店先から奥まで案内し、ニコリと微笑んだ。これで決り。入口の右側のテーブルを取った。ノッコは外を眺めて、私は店の中を、といいうより、短髪で白髪頭の『大工の頭領』と向かい合うことになった。表の小型トラックはこの頭領のものらしい。


 私には変わった癖がある。店員が気が利いているという理由だけで洋服を買ってみたり、女店員の応対に愛嬌があるからとネクタイを買ったりする。しかし、この手で選択した(又は選択させられた)品は不思議と飽きずに長持ちする場合が多いのだ。この店もその手の選択だったのかも知れない。ただ、我々夫婦の特徴は「パリまで来て、何でこんな店なんかで!」などと言わないところだ。


 料理もワインも本物の美味なるものを口にしなければ、何時までたっても味は分からない。これは真実である。しかし、「分かっている」のと「旨いと感じる」のは正比例しない。舌の味覚と心の味覚は一致しないことが結構あるのだ。お茶漬けしかり。ごはんに味噌汁と沢庵だけのネコメシしかり。舌の満足感より心の満足感が支配する。それは食欲を越えている。

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遠い夏に想いを-アルシュ橋  サン・ルイ島に戻って、川岸をサン・ルイ橋まで歩く。シテ島に渡ってそのまま通り抜け、ポン・ドゥ・アルシュヴェシェ橋を渡る。大司教(アルシュヴェシェ)橋と名付けられているのだから、ノートルダムと関係があるのだろうか。背後から眺めるノートルダムは目前に迫って一段と迫力がある。ノートルダムの壮麗なゴシック寺院の特徴がよく見える。後ろ姿が美しいノートルダムを見るための展望台みたいな橋だ。ただ、ローザン橋からの眺めも捨てがたい。広々とした全景が望める。(前ページの写真)


 アルシュヴェシェ橋を渡って、左岸をサン・ミシェルまで歩く。川岸の露店は当時より数が幾分少なくなった。その昔、セーヌの名物などと親しまれ、結構の掘出し物も時には有ったらしいが、18年前でさえも、並んでいる『古書の類い』は取るに足らない物ばかりだった。と言っても、東京の神田の古本屋街でも扱っている書籍はピンキリだ。だから、たまには珍本などが出て来るのだろう。屋台の権利が代々継がれるそうだから、風物詩としてこれからも残してほしいものだ。


 途中のプチ・ポンでひと休み。その名の通りパリのセーヌに架かる橋の中で一番小さな短い橋だ。同じ橋の上で長い髪のノッコの写真を18年前に撮ったはずだ。チャオと一緒の写真だと思うが、もう一度ノートルダームを背景に撮って比べてみよう。このことはノッコには内緒。


遠い夏に想いを-サン・ミシェル  サン・ミシェルの角にある書店に入った。本屋があると直ぐ入る。といっても、本の虫ではない。本のウインドー・ショッピング専門である。立ち読みとは違う。何か新しい本はないか、役に立つ本はないかと覗き回るだけだ。だから古典文学の類いはゼロ。読み終わったら何の役にも立たない本か、辞書、参考書、資料の類いの無味乾燥な本がやたらと増える。


 この書店は本屋というよりは、本のスーパーと呼ぶに相応しい店だ。ドアを押したらチャリンとゆうフランス的な趣はゼロである。東京でも神田の昔ながらの本屋以外はみな新しくなったのだから、パリでも書店の形態はどんどん変わっていくだろう。時代の流れというものだろう。


 ノッコがスエーデン語の辞書・参考書の類いを買入れた。日本では英、仏、独の書籍は何とか手に入る。あとはスペイン語が幾分ましだが、その他の外国語は小さな辞書か語学テープが売られているだけで絶望的である。


 日が暮れてきた。今日はかなり疲れた。余り食欲がない。本当なら一度ホテルに戻って身仕度をして、二つ星のレストランにでも出掛けたいところだが、とてもそんな元気は無い。ロンドンと同じに成ってしまった。と言っても、何か食べない訳にいかない。この辺には、裏通りに何かあると思い、ダントン通りを歩いてみた。