オデオン駅の界隈でこれ以上ひどい店は無いという飯屋で定食を食べる事になった。ここは小さな広場になっており、まわりの安ビストロは観光客で満員だ。この店には客がたったの2組。テラスなどと呼べる代物ではない。形もサイズもバラバラなテーブルと椅子が歩道を占拠している。このテラスにイギリス訛の英語を話す若い痩せた男と長い髪に厚化粧の女が顔を寄せ合って座っている。店の中には大工の頭領みたいに体のがっちりした年配のおやじが一人でメシを食っている。
入口で一瞬ためらった。余りにも酷い店だ。昔のお金が無い頃でも、こんな情無いレストランには入った記憶がない。店の外側は補修の為にパイプでやぐらが組んである。おまけに店の前には1トン積みの汚い小型トラックが置きっぱなしだ。
突然、奥からギャルソンが勢いよく飛び出してきた。まるでイルカがスイスイと小気味よく泳ぎ回る姿にそっくりだ。
「どこの席にしましょうか」
どこでも空いていますと言わんばかりに、身体をくねらせて、手振りよろしく店先から奥まで案内し、ニコリと微笑んだ。これで決り。入口の右側のテーブルを取った。ノッコは外を眺めて、私は店の中を、といいうより、短髪で白髪頭の『大工の頭領』と向かい合うことになった。表の小型トラックはこの頭領のものらしい。
私には変わった癖がある。店員が気が利いているという理由だけで洋服を買ってみたり、女店員の応対に愛嬌があるからとネクタイを買ったりする。しかし、この手で選択した(又は選択させられた)品は不思議と飽きずに長持ちする場合が多いのだ。この店もその手の選択だったのかも知れない。ただ、我々夫婦の特徴は「パリまで来て、何でこんな店なんかで!」などと言わないところだ。
料理もワインも本物の美味なるものを口にしなければ、何時までたっても味は分からない。これは真実である。しかし、「分かっている」のと「旨いと感じる」のは正比例しない。舌の味覚と心の味覚は一致しないことが結構あるのだ。お茶漬けしかり。ごはんに味噌汁と沢庵だけのネコメシしかり。舌の満足感より心の満足感が支配する。それは食欲を越えている。
ミネソタの遠い日々
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