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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-市庁舎  そのまま旧市街を車で進み、市庁舎の近くの路上に車を駐め、旧市内を散策して歩いた。ヴァカンスの季節とはいえ、レンヌまで観光に来る旅行者は少ない。石畳の路面は雨に濡れて、薄暗い空模様は一段と古い街に陰鬱な影を投げかけていた。観光シーズンでも人が来ないから、旧市街の大半は店を閉めてヴァカンスで出掛けてしまっている。一層人影がない。


 日本には「旧市街」というものがない。町全体が旧市街的に生き延びている町はある。旧と新がモザイク模様で混在している町もある。これは木造建築が理由だろう。簡単に古い建物を壊して、新しく建て替えてしまうからだ。


 フィリップがブルターニュ風に昼食を取ろうと言い出した。旧市街には無数のレストランがある。15世紀頃の古い石造りの建物の狭い入口を入る。中は天井が高く薄暗い。一瞬ひんやりと冷たい空気が肌を包む。白木のシンプルなテーブルや椅子が整然と並んでいる。何か日本の古い蕎麦屋に入ったような錯覚を覚えた。「へい、何んにしやすか」と江戸子訛で声が掛かりそうな気配さえ感じる。


遠い夏に想いを-ガレット02  クレープかパンケーキ。クレープリーだから選べるメニューはこれだけ。クレープには普通の小麦粉のものと蕎麦粉のものと2種類あって、蕎麦粉のものはガレットという。クレープとは呼ばない。ガレットはブルターニュの名物である。メニューにはリンゴだの、アプリコットだの、幾種類かのソース(詰物)、生ハム等の名前が載っている。所詮はクレープだから、どんな姿・形かは想像出来るが、味の方はフィリップとモニックのお薦めに頼らざるを得ない。とにかく、ブルターニュまで来たのだ。最もブルターニュ的な味を試したい。飲物はやはりシードルでゆこうとフィリップが言う。

遠い夏に想いを-ガレット01  14年ほど前に東京の神楽坂の坂を上ったところに小さなガレット屋が開店した(上の写真は神楽坂店)。当時、ガレット専門の店としては日本で最初だったかも知れない。確かフラスン人のシェフが焼いていたと思う。ブルターニュ名物とうたっていたが、生地が厚く、余りにもモチモチしていて美味しいとはいえなかった。今は同じ場所に同じガレット店があるが、味は全く違ってとても美味しい。ここと同じパリ店の系列の店が新宿(下の写真は高島屋店)、原宿、赤坂、横浜、名古屋に現れた。クリスピーさとモチッと感の兼ね合いが難しいところだが、これらの店で出すガレットは「更科そば」みたいに上品な味がして美味しい。

 10分ほど待っただろうか、長めの髪にダボダボのズボンをはいた中年男が少し猫背の背中を更に屈めてこちらにやって来る。東京で会って以来だから、顔をあわせるのも5年振りだ。ミネソタにいた頃よりはかなり太めになった。頭は白くなり中年肥りだが、貫禄がついていかにも大学の教授の風貌になった。
「やー、久し振りだ。待たして悪かった」


 この男は昔から余り感動的な素振りを示さない。ミネソタ大学で農業経済の大学院に通っていた頃は、このクールさとフランス男というだけで、アメリカ女には結構もてたものだ。


「少し待ってくれ」
駅前に立ったままフィリップが言う。話が少々ややっこしい。
「モニックが娘を幼稚園から連れて来る。タルティーニが子供達と一緒に駅まで来て、ここで娘をタルティーニに渡したら、それからモニックと君達の4人で出掛よう」
よく解らないが、詮索したところで無意味だ。時間の無駄だが待つしかない。


遠い夏に想いを-サン・ピエール  やがてモニックがやって来て、タルティー二も子供達と車でやって来て、私達4人が車に乗って出掛けることになった。


 『レンヌは18世紀の大火のために見るところが少ない』と、どの旅行案内も判で押したように同じ記述だ。
「新市内は見る所がないから旧市内へ行こう」
フィリップも同じことを言う。

 しかし、レンヌの新しい街が造られた18世紀は270年も前の事だ。パリだって現在の姿になってから100年しか経っていない。ロンドンだって多くの建築物は19世紀後半のビクトリア朝時代に建てられたものだ。



遠い夏に想いを-古い家  旧市街に入り、サン・ピエール大聖堂(上の写真)を見上げながら通りを進む。フィリップによると、この聖堂は6世紀の建立で3度建て直されたのだと言う。いかにも重々しい荘厳な教会だ。更に、第二次世界大戦でレンヌの街は大きな被害を受け、多くの犠牲者が出たらしい。


 1720年の暮れも押迫った頃、酔払いの大工の不始末から火は燃え広がり、今の旧市街を残して、街の大半を焼き尽くした。それまでの家々は殆どが14、5世紀頃に建てられた木組造りであった。

 ヨーロッパにはドイツでもフランスでもイギリスでも木組造りの古い家が多く残っている。ドイツのロマンシック街道沿いの町々には個性的な木組みの家々が目を楽しませてくれる。アルザス地方にもドイツの町とは違った素晴らしい木組みの町並みがある。これらの町並みは町のアイデンティティとして大切に保存されている。

遠い夏に想いを-ルート03  ルマンを過ぎた頃から、上空には灰色の雲が低く垂れ込めて、雨模様になってきた。激しい雨ではないが、大きな水滴が時折列車の窓を斜めに走る。まだブルターニュ地方に入っていないのに、荒涼とした景色が続く。フランスもイギリスと同じく春からの雨不足で緑がまるで無い。まさに、恵みの雨だ。


その昔パリにいた頃、時々汽車で足を延ばした。近くではベルサイユに、また私だけでシャルトルへ(あの時は夫婦で詰まらないことに意地を張ってしまった。結局、私のわがままにしか過ぎなかったのだが。同じ日にノッコとチャオはエッフェル塔に登ってパリを一望したらしい)、その後3人でシャパーニュ地方のランスへも行った。(下の写真は歴代王の戴冠式がおこなわれたランスの大聖堂)



遠い夏に想いを-ランス  八月にはイギリスへ船で渡るためにカレーまで列車で行った。あの夏の車窓からの景色は今日のとはまるで違っていた。深い緑の森を抜け、緑の絨毯を敷き詰めたような草原を走り、満々と水をたたえて流れる川を越え、点在する朱い瓦屋根の農家が目の前を過ぎ去って行った。あの風景はどこへ行ってしまたのだろう。今日はせめて、久し振りの恵の雨を神に感謝して喜ぶことにしよう。


 ほどなく列車はレンヌに到着した。新幹線で東京から名古屋までが2時間だが、結構長く感じる。しかし、このTGVの2時間は短かった。ホームは屋根の覆いもなく、わりと殺風景な駅だ。改札を通って駅の待合室に入った。人口20万以上のブルターニュの県都の駅舎としては、いかにも粗末過ぎる。、

ただ、駅の改修工事が始まったばかりだ。どんな駅舎になるのか、この時は分からなかった。


 駅前は広場で車の駐車場になっている。雨あがりのせいもあって、何となく沈んだ感じだが、まあ悪くない町だ。周囲を見渡しても、誰かが迎えに来ている様子も気配もない。

 文化的にコンティニュティーのあるヨーロッパといえども、戦後の都市再開発は大変だったと思う。特に50年とか、100年とかの長期計画は長すぎる。昔の100年の変化は今では10年も掛からない。その上、現代は確立された様式が存在しない。だからあらゆる建造物は建てた瞬間にその価値を失ってしまう。モンパルナス駅とモンパルナス・タワーも同じ運命をたどるだろう。

遠い夏に想いを-TGV  モンパルナス駅を上階へと昇って行く。TGVの発着ホームは東京駅の新幹線ホームと同じで上階にある。列車はホームに入っていた。ダーク・グレーの車体はまるでシトロエンの車を連想させて、いかにもフランス的だ。車内は意外と狭く、日本の新幹線に乗り馴れている我々には少々窮屈に感じる。軌道幅は日本の新幹線と同じだが、車幅は新幹線よりも30%くらい狭い。だが、車内のすっきりと洒落たデザインはさすがである。日本の新幹線車両は非常に画一的で乗客よりも駅側の作業性を重視したデサインだと思わざるを得ない。


 TGVは走り出すと大変に乗り心地がいい。パリの市街地を抜けるまではゆっくり走るが、その後はスピードもJRの新幹線以上だから申し分ない。レンヌまで約2時間の旅だ。途中の停車駅は例の24時間自動車レースで有名なルマンとラバルの2駅だけ。列車によってはパリ~レンヌ・ノンストップ便もある。終着駅はブレスト。


遠い夏に想いを-プレヴェール  ブレスト、何か懐かしい響きがある。60年代の初め、まだ実存主義の華やかなりし頃、日本でもジャック・プレベールの詩集『パロール』がもてはやされ(写真-ガリマール版より)、その中の『バルバラ』はイヴ・モンタンの語りで一世を風靡した。当時学生だった私もガリマール版のペパーバックを買込んでは、下手な発音で一人で読み耽った。
"Rappelle-toi Barbara
Il pleuvait sans cesse sur Brest ce jour-la
Et tu marchais souriante
Epanouie ravie ruisselante
Sous la pluie
・・・・・・"
「思いだして、バルバラ あの日のブレストはひきりなしの雨だった きみは微笑みながら歩いていた。 雨にぬれて晴れ晴れと輝くような表情で・・・・」


 結婚前の仏文科のノッコに下手な発音をよく笑われたものだった。50年代、60年代は反戦の時代だった。ベトナム戦争のアメリカは70年代も反戦の時代が続く。『バルバラ』も反戦詩だ。第二次世界大戦でブレストはドイツ軍に爆撃・占領され、鋼鉄の血の雨が降り注いだ。バルバラの恋と残虐な戦争とをダブらせて詠った反戦詩。ノンポリだった私も反戦歌を口ずさみ、反戦詩を読んだ。あの詩の最後にも雨の降るブレストが出てくる。ブレストは軍港だった。そして時は過ぎ、時代は変わった。反戦運動も消え、実存主義も消え、プレベールの詩集は本屋の棚から消えた。

 今日はいよいよレンヌへ出発する。大きなトランクは部屋にそのままにして、チェック・アウトせずに出掛けた。一晩無駄になるが、この方が何かと便利だ。モンパルナスからは9時20分の出発だし、駅には昨日来て様子は分っていたので、充分に時間の余裕があった。


遠い夏に想いを-モンパルナスカフェ  朝食はモンパルナスの駅の近くで取ることにした。昨朝はまだ掃除中だった駅前広場に面したカフェが開いていた。


 店内のカウンターでコーヒーを立ち飲みしている労働者風の男、テラスのテーブル席では痩せて日焼けした中年女性がタバコを吸っている。隣のテーブルでは娘と母親が簡単な朝食を終えてそそくさと出て行く。これから汽車に乗るのだろうか。閑散とした朝の静けさの中にも、何か慌しさを感じる雰囲気だ。


 あいも変わらずコーヒーにクロワッサンである。昨日の店よりパンもコーヒーも一回り大きめだ。味も悪くない。何か徳をした気分になる。知らない土地では、こんな詰まらないことで不安と満足感が交差し、一喜一憂するのだ。


 ここのテラスからはモンパルナスの駅前広場が見渡せる。モンパル駅はパリ改造計画の初期の作品だ。しかし、こんなに味気無い無機質的な建物を到底フランス人が文句なく受入れたとは思えない。30年代に構想が練られたモンパルナス駅都市再開発計画に基づいて60年代後半にはほぼ建替えが完了した。昔パリに居た72年にはモンパルナスの駅はほぼ完成していたが、部分的に仕上げ工事をしていたので駅構内は雑然としていた記憶がある。今は更に当初の計画通りモンパルナス・タワーが出来て一段と変貌を遂げた。百年以上も前にエッフェル塔が出来たときにも、パリ市民は反対したのろうが、今ではパリの象徴的な構築物になってしまったから、このモンパルナス・タワーも街の景観に馴染む日が来るのだろ。


 私達がいた当時は、パリの西にあるデファンス地区の開発が始まったばかりで、巨大なクレーンが何本も空に聳えていて、パリの景観を損ねていた。