遠い夏に想いを -204ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-シャトー03  館の左側は小さな庭園になっている。低い灌木やバラが植えられ、散歩道に沿って石像や水鉢が配置されている。殆ど手入れがされていない。小さな庭園を回遊して、館の裏手にある広場に出た。裏手のテラスから北東に広がる大地が望める。イギリスのビーヴァー城の裏手の広場(テラス)からの眺めと同じ趣向だ。支配階級の住まいは洋の東西を問わずどこも同じコンセプトとプランに基づいている。


 晴れた日には、ここから20キロ先のランス溪谷やディナン周辺まで見通せるとのことだ。ここの館はルイ15世時代の法務長官であったカラドゥーク・ド・シヤトレ侯爵、ルイ・ルネの旧居邸であった。


 余り時間もないし、シャトー内部は入館禁止で、さして見るべき処もない。この場に別れを告げ、先を急ぐことにした。この辺りはブルターニュ地方の中でも正直言って余り見るべき観光名所がない。とにかく時間が限られているのでディナンまで真直ぐ行くことにした。


遠い夏に想いを-聖母マリア  暫く走った。狭い曲りくねった道に入ると小さな町がある。右手の坂道の奥に素朴な造りの教会の塔が一瞬見えた。モニックが気を利かして、見て行くようにとフィリップを促す。



車を歩道側に止めて一旦外へでた。教会の前では地元の老若男女が盛装して行列を作ってゆっくりと堂内に入ってゆく。
「聖母マリア被昇天祭の礼拝だわ」
モニックが呟いた。


遠い夏に想いを-パルドン祭  聖母マリア被昇天といえば、そのフレスコ画がイタリアのパルマのドゥオーモにある。ルネッサンス時代にコレッジオが描いた大作の天井画だ。イエスに手を引かれて天国へ上ってゆくマリアの絵には感動を覚える。構図といい光の取り入れ方といい素晴らしい傑作だ。


 ブルターニュやアイルランドなどには、いまだに「パルドン祭」というカトリックの行事が残っている。地域毎に催されるもので、時期はさまざまである。ローカルでとり行われるから、地元の聖人に捧げられる。このベチェレルの町で行われていたのは、聖母マリア被昇天祭の礼拝に続けて執り行われたパルドン祭であった思う。

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 ブルターニュとブリテンは同じ意味だ。イギリスはブルターニュと区別するのにグレート・ブリテンと自分達の国を呼んだ。5千年前までは、この両地域は歩いて海峡を渡れたという。ケルト人が来るずっと前にブリトン人という種族が移り住んでいた。これがブルターニュの地名の起こりで、イギリスと同じ祖先である。イギリス人はケルト人、サクソン人、ノルマン人などと混血しているが。

 古代ケルト人が住んでいたカンペールとかコンカルノー、それともゴーギャンが10年間も住んだポン・タヴァンを訪れるか、今はブルターニュには属さないが、古いブルターニュの首都のナントなどに行かなければブルターニュを見たことにならない。


 レンヌからはディナンが一番近い。サン・マロは観光地としては素晴らしいが、大戦で全て破壊され現在の町は戦後復興されたものだ。ディナンなら夕方まで帰宅できるし、古い町がそっくり残っているという。かつてシャルトルやランスへ出掛けたことがある。古い町だが、これらは教会を中心に発展した町だから庶民的な町造りにはなっていない。

遠い夏に想いを-シャトー01  やがて道がT字路に突当たった。
「小さなシャトーがあるけど、興味が有るなら見て行こうか」
フィリップが訊く。


 シャトーと名の付くものはワインのシャトーでさえ見たことがないから勿論OKである。シャトーにも語義上ピンからキリまであって、上は王宮・砦城からイギリスのマナー・ハウスと同じような大敷地内の館まで、更に下はワインの醸造所まで様々だ。


 道路の反対側に小さな駐車場があり、そこに車をとめた。シャトーは『カラドゥーク・シャトー』と呼ばれ、小高い台地の上にある。下の入口に受付があり、ここで料金を払う。なだらかな坂道を歩いてのぼる。

遠い夏に想いを-シャトー02  高台の上に出ると、突然、左手の砂利道の奥に黒い館が視界に入った。さして大きくもないが、端正な形の館である。痛みがひどく住む人がいない。そのせいか、何か恐ろしい過去が秘められているような暗いイメージがつきまとう。館の左右の花壇や芝生に夏の彩りがあれば、まだフランスのシャトーの華やかさも残っているであろうに。今年の夏は全てを裸にして、その醜さだけを晒らし出してしまった。

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 日本を発つ前の計画では、ブルターニュとノルマディーの境にあるモン・サン・ミシェルを回ってレンヌに来るつもりだった。しかし、このルートだと汽車の便が悪く時間が掛かり過ぎる。パリからの電話でフィリップの返事は「モン・サン・ミシェルはやめて、とにかくレンヌへ来い」であった。結局、モン・サン・ミシェルは諦めた。


 再び車の中でモン・サン・ミシェルの話になった。
「モン・サン・ミシェルは日帰り出来ない距離ではないが、着いてからが大変だ。夏のヴァカンスで観光客が溢れてる。駐車場を探すのが無理、修道院までバスしかないし、これがまた時間が不規則で当てにならない。とても夕方までは帰れないんだ」


 ロンドンでチャールスと同じようなやり取りをしたのを思い出す。
「モン・サン・ミシェルは諦めたよ。ここらの近くで城があるところがいい。ブルターニュ的な趣のあるところでね」
「ディナンかディナールかサン・マロだけど」
「ディナンがいい」


遠い夏に想いを-館01  車は国道から地方道に入った。雲が少し切れて、柔らかい陽射しが広がり始めた。この辺りは緑の野原があちらこちらに点在している。道の両脇に一直線に木々が立並ぶ。なにか映画のなかで見たような洒落た並木道だ。車のフロントガラスにちらちらと太陽光があったて、明暗の陽射しが眩しい。右手には広大な自然と森に囲まれた水辺の古い館が並木の合間から顔を覗かせる。人手の入らない自然はイギリス的だが館のたたずまいは違う。フィリップの車はエアコンが利くので、ロンドンでのチャールスとのドライブよりは静かで快適である。


 パリを発つ前に、レンヌ周辺の観光地のことはガイド・ブックで読んでおいた。レンヌはブルターニュの東の入口にしか過ぎない。本当のブルターニュを知るには西のカルナックやカンペールの『地の果て』まで行かなければならないのだが、行く時間がないので諦めるしかない。

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 満腹感には乏しいが充分満足のゆく昼食だった。一度フィリップの家に戻って、それから出かけることにした。


 車は市内を抜けて自動車道に入る。緩やかな丘陵地帯が一面に広がる。灰色の雲が白さを増しながら地面を這うように低く流れてゆく。土地は寒々とした荒れ地である。冬には雪が大地を覆ってしまうのかと思いきや、意外に、雪は殆ど積もらないという。ポール・ゴーギャンの描いた雪のブルターニュの絵があったような気がするが。確かタヒチに移住する前にブルターニュのポン・タヴァンに住んでいた頃の作品だ。いかにも陰鬱なブルターニュの田舎の風景画である。


 最高気温と最低気温の差が余りないから、日本人からすると最高の避暑地なのだが、ヨーロッパ人にとっては夏のヴァカンスは避暑が目的ではなく、むしろ太陽を求めての南下だから、ブルターニュでも海に面したサン・マロなどの保養地以外は来る者がいない。


遠い夏に想いを-renne07  レンヌの北へ6キロほどのところに、ルイ達が住む、古い教会と小さな集落を核として開発された比較的新しい住宅地域がある。充分な幅の車道と両側に歩道があり、道は意図的に不規則に入り組んで、町の景観にゆとりを与えている。家々は大きさや間取りが違うからデザインが異なる。しかし、どの家にも共通した特徴があって、屋根は天然のスレート葺で傾斜がきつく、壁はベージュ色で統一されて、新しいブルターニュのイメージが感じられる。町には落ち着いた大人の雰囲気が満ちていて、共通する様式が存在することの大切さが分かる。


「今日は帰ってきてから家で夕食をとるけど、いい?」
フィリップが家に入りながら言う。
「タルティーニ夫婦も一緒にね。それに、夜にはシャンタルも来るわ」
「シャンタルが帰ってくるって?」
私達は思いがけないことに嬉しくなった。シャンタルに会えるなんて、ミネソタで別れてから18年振りだ。モニックが料理の段取りを見届けて、私達は再び車で出かけることにした。

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遠い夏に想いを-散歩  蕎麦が名産などというのは土地が貧しい証拠で、経済的には農民に辛い場所だ。リンゴは長野や山形や青森や北海道が名産の通り、寒い地方の産物だ。(写真右は旧市街で食後の散歩を楽しむ3人)


 アメリカでもインディアナなどの中西部や東部のニューイングランドがりんごの産地と相場が決まっている。ミネソタでも10月から11月にかけて、その年のリンゴが町に出回る。広場や空地などにリンゴ市が出る。種類は色々あるが、深い赤味を帯びたデリシャスが木箱に無造作に詰められて並ばれる。日本のリンゴのように形は気にしないから、必ずしもきれいな丸い形をしていない。しかし、味は天下一品だ。歯ごたいといい、甘味、酸味、しぶ味、特有の微かなアクといい、香り、風味などなんとも美味しい。ミネソタでもリンゴ・ジュースは日常的に飲まれる。シードルも量は少ないが売られている。しかし、アメリカはビールの国だから、シードルは低級な酒の扱いにしかならない。


 シードル酒もブルターニュの特産だ。英仏海峡に面したブルターニュとノルマンディーは気候が厳しく、日照時間が不足して良質の葡萄は育たない。緯度的には、この地域はシャンパニュー地方やアルザス地方と大差はない。白ワインで定評のあるドイツのライン河やモーゼル河流域はブルターニュやアルザス地方より更に北に位置する。ブルターニュは日照とか、温度差とか、土壌の関係で葡萄の栽培には適していないとフィリップが言う。ノルマンディーではリンゴから作るカルバドスがある。しかし、シードルにしてもカルバドスにしてもビールにしても、フランスではワインやシャンペンやコニャックに比べて脇役でしかない。


 英国はフランスのブルターニと区別してグレート・ブリテンブ(大ブルターニュ)というが、両方ともケルトの民である。英国のコーンウォル地方はフランスに近く、ケルトの色が濃い。数千年前に中央アジアから広がってフランス、イギリスにまで達したケルト民族はその後ローマ人やゲルマン民族などの他民族に押しのけられて、アイルランド、スコットランド、ウエールズ、ブルターニュなどに残るだけとなった。抑圧を受け搾取されてきた歴史が地域の暗さを反映している。


 ブルターニュ地方は貧しい。かつて、ブルターニュはフランスからの独立を主張して政治的にもめた。今でもその火種は消えていないとフィリップは言う。ブルターニュは人種的にも文化的にもケルトの流れを汲んでいるから、事ある毎にフランスの中央には反発する。そして、更に貧しさに取り残される。まるでかつてイギリスに搾取されていたアイルランドと同じだ。最近は開発が進んで状況は少しずつ変わってきたらしい。しかし、ここでも地元の人達の思惑とは別の結果が現れているとフィリップが言う。工業化が進み、水は汚染され、林檎の木は少なくなり、蕎麦も作付面積が減少している。最近になって林檎園の保護や保存が叫ばれるようになったという。


「ブルターニュの象徴だった女性のあの白い帽子はどうなったの?」
「コワフね」
「そう、あの白いレースの被りもの」
「今じゃ、あんなものを被っている人はいないよ」
フィリップがこともなげに言う。
「観光客相手に見せている所はあるけど」
それほど極端でもないだろうが、確実にブルターニュの伝統と風俗は失われつつある。

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