遠い夏に想いを -203ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-フィリップ  フィリップはレンヌ大学の農業経済の教授で、今は学部長を引受けており、管理の仕事にも精を出している。年齢は判らないが、多分50才くらいだろう。モニックは48才くらいか、昔から老けた感じだったが、当時と余り変わっていないので、今はむしろ年齢より若く見える。欧米では年齢を尋ねる習慣がないので、私は彼らが幾つかは知らない。シャンタルを含めて3人の子供がいる。ここのレンヌの家で2人子供と暮らしている。我々は玄関脇の小部屋にこの夜泊まった。


 シャンタルは22才。パリ大学で国際経済学を勉強している。卒業後は企業の国際関係のアナリストとしてキャリアを積みたいという。ジョンはロー・スクールを卒業したばかりのアメリアカ人で、ボストンの法律事務所で仕事をしている。夏の休暇でフランスへ来ている。シャンタルとはどの程度の関係かは知らない。


 タルティーニはシエナ大学の教授で、イタリア人にしては細身で背が高く、いかにも大学の教授風。年齢は不明だが53才ぐらいだろうか。婦人は静かなほうだが、やはり、イタリア人。キリリと一本筋が通っている感じだ。

 
 さて、食後のデザートの時間になってから、話題が国際政治に展開し始めた。日本では食事の時は政治の話、特に国際政治が話題にのぼることは希である。国内政治でも自民党の派閥争いか選挙時の予想ぐらいで、メシや酒の席で政治の話はタブーだ。女性が居る席ではなおさらである。


 丁度、この年(90年)の8月上旬にイラクがクエートに兵を進めた直後であった。ヨーロッパと中東との関係は地理的にも人種的にも、古代ギリシャの時代から親戚同士の関係みたいだ。キリスト教だって中東のユダヤが発祥の地で、西暦70年に国が自滅して各地に散ったユダヤ人がおこしたユダヤ教の一派に過ぎない。


 中東と日本は石油の取り引き以外、全く関係がないと日本人は信じている。そして、中東への理解は欧米からの情報と欧米の価値判断に基づいている。日本人はそのような価値基準で自分達が判断していることさえ気づいていないのが現実だ。

遠い夏に想いを-lance01  城壁に沿って進んだ。町の東端に出ると、突然視界が開け、80メートルほど真下にランス川が銀色に輝き流れている。素晴らしい眺めだ。晴天の日には、城の上からサン・マロまで見通せるそうだ。今日は太陽も時には顔を出すが、朝から空一面に雲が低く垂れ込めているので遠くまで見渡せない。


遠い夏に想いを-lance02  町をほぼ半周して、来た道を下り、城門を出て、ランス川を渡る。もう、5時近い。急いで車まで引き返す。帰りは何処にも寄らずに一気にレンヌを目指す。


 夕食の準備でマリは忙しい。台所に引きこもったきり出てこない。日が暮れた頃、シャンタルが帰ってきた。ボーイ・フレンドのジョンが一緒だ。2人でサン・マロへ行ってきたとのことだった。すっかり女性になっていた。それもなかなか素敵な女性になった。何年振りだろうか。1972年の6月にミネソタで別れたてから18年経った。お茶目なシャンタルは4才だったろうか。今でも小さな赤い水着を着たシャンタルがミシシッピー河の岸辺でチャオと砂遊びをしている写真が残っている。
遠い夏に想いを-chantal 「シャンタル、覚えている?」
彼女は写真を見て、恥ずかしそうに笑った。
「ワー、こんなだったの?」

 多分、彼女は我々のことを覚えていないだろう。4才くらいの時の記憶は成人すれば消え失せる。でもシャンタルは我々がフィリップの友達とゆうことで、話しを合わせてくれている。


 タルティーニ夫妻もやって来た。イタリアはシエナ大学の教授で、夏休みを過ごすために一家でレンヌにやって来た。フィリップの隣家は家族がヴァカンスで家を留守にするので、信頼の置ける人に短期間貸して出かけたのだそうだ。


 食堂にある楕円形の大きな食卓に料理が準備されて、一同が席に着く。フィリップとモニック、シャンタルとジョン、タルティーニ夫妻、そして私達夫婦。

遠い夏に想いを-anne castle  時計塔の前を通って、ディナンの城へ向う。町の北端に城がある。14世紀に、ブルターニュ公ジャン4世という人が造った城塔は「アンヌ公爵夫人の城」と名付けられている。何かノルマン風の造りで、今にも崩れ落ちそうな気配だ。現在は博物館、美術館として、様々な物が展示され、一般に公開されている。時間はないが覗いて見ようと思ったが、入り口が閉まっていて入れない。入館は4時迄で、時計の針は残念ながら4時を数分回ったところだった。


 今まで、時間切れで博物館や美術館に入れなかった経験は海外で幾度かある。一番記憶に残っているのが、1972年のミラノでの出来事だ。ノッコとチャオの3人で市内を歩き回って、最後にサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会へ急いでいた時だ。ここにはダヴィンチの『最後の晩餐』がある。


遠い夏に想いを-italy  スフォルツァ城の裏手まで来て、道に迷った。当時、夏場は閉館が5時半だった。既に5時10分になっていた。通りには人影が少なかった。角の建物からブラリと中年男が出て来た。背丈は低く、頭は禿げて小太りの、典型的なイタリア中年男だ。イタリア語で道筋を尋ねた。通じたが、この男は教会に行く道が分からない。信じられない事だった。とにかく大きな声と大きな身振りである。
「あっちかな、こっちかな」
延々と止まらない。場所は分らなくとも、親切心は止まらない。


 そこへ、1人の痩せた老齢の男が通りかかった。最初の小太りの男がこの男を呼び止めて、教会への道筋を訊いた。この初老の男も首を傾げた。
「あの教会にダヴィンチの絵なんてあったかなー」
とそこへ3人目の中年の男が通りがかった。最初の男が教会ついて尋ねた。この男も教会の場所のについてはあやふやだ。これで万事休すと相成った。遂に、こちらはそっち除けで議論が続く。
「あっちだ」
「やあ、こっちさ」
「ダヴィンチはないよ・・・」
と口角泡を飛ばし議論が始まった。時計は5時半を回っていた。
「もういいよ。有り難う」
私達は今来た道を引き返した。親切にしてくれたことだし、それだけでよかった。振り返ると、路上の3人の『議論』はまだ続いていた。本当のイタリアを見た思いがして、愉快になった。イタリア人は議論が好きだ。その上、親切だ。

 サン・マロは第2次世界大戦で壊滅的に爆撃破壊されてしまったが、戦後完璧に修復復興した街だ。古いものを求めての旅なら、失望するに違いないだろうが、金持ちの保養地区としてできた町だから、箱根にでも行くような気分で訪れたらこれほど楽しい所もないに違いない。ブルターニュやノルマディーの海岸は夏でも冷たくて海水浴は向かないと案内書にあるが、サン・マロには水着を持参せよとある。保養所がたくさんあるからだろう。但し、充分なお金があればだが。


遠い夏に想いを-ディナン01  城壁に囲まれたディナンの町には、橋を渡って、暫くのぼり、門をくぐって入る。これが旅の楽しみだ。パック旅行では時間の節約の為に、往々にして、この期待に胸弾む部分を省略してしまう。


 北東側のプチ・フォール通りを登って、途中、メゾン・ドュ・グヴェルヌール(長官の家)を覗いてみる。ガラーンとしているが、当時の古い面影は十分に伝わる。更にその先を登る。坂道の両側には細工師やら陶器やらの古い店に混じって、小さな画廊やら飾り物屋などの新しい店が並ぶ。ノルマン式の石の城門をくぐって町に入る。


遠い夏に想いを-ディナン02

 城門を抜けるとと、そこは高台で、突然視界が開ける。色々な店屋や宿屋が周囲を取り巻く。この辺りは旧市街なので、石畳の路は凸凹がきつく、歩くのに疲れるが、古い町の雰囲気にマッチして情緒がある。前方正面には『時計塔』の素朴で古風な尖塔が鉛色の空に聳えている。15世紀末に建てられたこの建物はこの町の象徴的モニュメントだ。


 観光地だからカフェやビストロなどたくさんあるが、時間がなく、駆け足の旅だから、ひたすら歩いた。ディナンはフランスの文化省から「芸術・歴史都市」に指定されているという。町の起源は9世紀に遡るらしい。最初、カトリックの修行僧が住み着いて、木製の砦を造ったのが始まりらしい。12世紀に建築が始められたサン・ソヴェール教会やサン・マロ教会など古い教会がり、町の家々も木組みの古い造りで見るところが多い。


遠い夏に想いを-ディナン03  何人かの画家が町角に陣取って、町の景色や風物を描いている。モンマルトルのテアトル広場の画家達と同じ嗜好だ。描いた絵を路上に並べて売る。これが彼らの商売だ。ところが、たいした出来でもないのに、値段だけはやたらと高い。フィリップも覗き込んでいたが、少々あきれ顔で、何も言わず行ってしまう。所詮、観光地なのだから、この程度はご愛嬌であろう。

(写真上はプチ・フォ-ル通り、写真中は市内と時計塔、写真下はサン・ソヴェール教会と辻画家)

 私達はクリスチャンではないので、8月15日が『聖母マリア被昇天祭』で、祭日とは知らなかった。私達にとって8月15日は敗戦記念日か、同じ宗教的な意味ではお盆であることしか頭にない。フィリップが今日大学に出なくてよいのは夏休みのせいだと思っていた。モニックの仕事は毎日ではないだろうけど、たまたま、今日はオフの日かと思っていた。


 フランスの祝日は日本に比べて日数が少なくて12日しかない。というより、最近の日本では訳のわからない祝日がやたらと増えて16日もある。日本では休みが取れないので、国民のために祝日を増やすしかないのかも知れない。たぶん、フランス人はヴァカンスを1ヶ月ほどもとるので(最近では1週間から10日ほどしか取れない人も多いらしいが)、休日は十分なのだろう。


 聖母マリア被昇天祭で、もしかして、ブルターニュ独特の衣装や装束が見られるかと、心を踊らせたが、老婆の頭には白い長い帽子はなかった。町の名はベシェレル。レンヌとディナンの中間に位置していいる。かつては麻織物で栄えた小さな村である。大勢の村人が小さな町にドッとくりだす行事に巡りあうのは初めてだ。『観光客』は我々しかいない。町の様子も住む人達の様子もいまだに素朴そのものだ。何か素朴で信心深い田舎の生活の一端をかいま見た思いだ。


 3時を過ぎた。ランス川にかかる石橋を渡る。眼前の切立った丘の上にはディナンの町だ。城を建て、町を造るには戦略的に最高の地形だ。


 フィリップは駐車場捜しに街を一周する。今日は祭日とあって結構な人出だ。観光客もかなり来ていて、町中の広場や通りは賑わっている。中心街に入ると狭い車道に人が溢れて車が進まない。天候が思わしくなく、まだ3時半なのに、辺りは薄暗くなってきた。旧市内の駐車場は一杯で、結局、ランス川を越えてもとへ戻ってしまった。


遠い夏に想いを-lance

 ランス川の眺めは素晴らしい。この辺りはランスが溪谷から川に変わる境目にあたる。川に沿って小さな石造りの家々が並び、川岸には色とりどりの小船やヨットが繋がれている。まるで絵か写真の景色そのままである。緩やかな流れの川面は鏡のように対岸の家々を色のモザイクにして映している。ゆったりとうねる小さな波が万華鏡の中ので揺れるイメージのように色と形が変わる。ここから、ボートに乗って大西洋まで下っていったら、どんなに素晴らしいだろうか。ランスの河口には金持ちの保養地として有名なサン・マロやディナールがある。

 ミネソタの遠い日々 - New -
1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ