あの日のことを思い出す。静かに小雨が降っていた。富田さんたちが車で来るのを待っていた。ドゥー・マゴーのテラスに座って、暖かいコーヒーをすすりながら、サン・ジェルマン教会を眺めた。
このパリで一番古いというロマネスク風の教会は暖かみはあるが素朴で寂しげなたたずまいだ。何かパリよりブリュターニュあたりが似合いそうな気がした。暗い灰色の雲が低くたれこめ、人通りもまばらで、皆な急ぎ足で通り過ぎて行く。雨のせいだろうか、日頃の賑わいが消えていた。何か当時の気持ちに妙に相応しい風景だった。
「パリは嫌いだ」
それは直ぐに思い出せないほど遠い昔日の記憶であった。帰国して間もなく、富田さんが亡くなられたと、奥さんから知らせがあった。一つの想いが消えていった。
ドゥー・マゴーに入ったのはこの時だけだったと思う。当時は貧しく、実存主義の思い出のためにサン・ジェルマンやモンパルナスのカフェに通うほどの余裕はなかった。それに、コーヒー1杯で小さなチャオとカフェで長居する訳にもいかない。
さて、今日は、ここからノッコの想い出の旅に出かけることにした。オデオンまで戻って、地下鉄でジュシューまで行く。ここからジュシューまではそれほど遠くはない。オデオンからは距離にして1.3キロくらいだから歩いても行ける。しかし、ノッコは右足の小指にマメを作ってしまい、歩くのが辛そうだ。
ジュシューの駅から外へ出た。何故ジュシューに来たのだろうか。そこが分校への地下鉄の駅と考えたのだろうか。それとも、あの女性の職員の言葉の通りに来てしまったのだろうか。
駅の出口で、奥様は一瞬立止まったまま動かない。
「どうしたの」
「こんなだったかなあ・・・」
18年間ノッコの記憶の底に眠っていた街の面影と目前の街並とが重ならないようだ。正直言って、私も直ぐに思い出せなかった。何も覚えていないのだ。何分間過ぎたろうか。2人は時間が一瞬止まったかのように言葉なく立尽くした。