引越しの日は、朝から小雨模様だったろうか、ホテル・ベルソリーズからタクシーを拾った。当時、アメリカからの帰国途中だったから荷物はかなりの量になり、距離はたいしたこと無かったが、徒歩では無理だった。タクシーの運転手はアルジェリア出身らしくアラブ系でひどい訛のフランス語だった。運転手は反対方向からラスパイユ大通りへ出てどんどん走りだした。ホテル・コンデに行くにはサン・ジェルマン大通りへ出るのが一番の近道だ。『このまま放っておいたら料金をボラれるだけだ』と気がついた。
前日、ホテル・コンデまで歩いていたので地理は知っていた。
「どこへ行くんだ。オデオンだぞ。道がちがうではないか」
大声でどなった。パリは一方通行が多いが、一方通行を考慮に入れても変だった。住所を記したメモを見せてくれと運転手が言う。
「ああ、サン・シュルピスか」
やっとボージラール通りを経てホテルへ着いた。タクシーに乗った時に既に住所のメモを見せていたので、ごまかし以外の何ものでもなかった。パリでは、特に、あの頃は植民地系の運転手は外国人と見るとインチキをやるのだ。
話は違うがカレーでイギリス行きの連絡船に乗り込む時、アルジェリア出身者らしき男が、出国手続きにボールペンを貸してくれと言う。使い終わったら、ポケットに突っ込んでその場を立ち去ろうとする。慌てて、袖を掴まえて、「返せ!」と怒鳴った。こともなげに突っ返して、ささと消えてしまった。ミネソタ大学の生協で買った25セントのプラスチック・ボールペンに過ぎなかったが、この時の筆記具はこれしかなかった。油断も隙もない。外国にいるとつまらない事で突然苛立つことがよくある。
コンデの私達の部屋は最上階の6階(フランスでは5階で掲載写真の左上端)であった。エレベータはなく、狭く急な階段をハーハーいいながら登らなければならない。階段を登り切って廊下の突当りの部屋だった。ダブル・ベッドと子供用のベッド。トイレも風呂もなく、部屋の隅にビデがあった。当時、アメリカでも見かけなかったビデだが、使い方については知識があった。だが、どうしても我々日本人には違和感があった。私達にしてみればビデの代わりにシャワーがあっても同じではないかと思ったからだ。同じスペースでそれが可能な筈だ。
実際、この時の帰国途中に立ち寄ったミラノでは、駅裏の安ホテルの部屋に1メートル四方のシャワー・スペースが付いていたのだ。しかし、文句を言ってもしようがない。フランスでは星1つ変わるごとにホテルの必要設備と規則が事細かに決められているのだから、ホテル側も余計なことはしない。それに、もともとフランス人は風呂やシャワーに余り入らない人達なのdから。