72年の6月上旬だった。ミネソタ大学での約2年間の留学生活を終えて、ヨーロッパへ渡るためにニューヨークへ飛んだ。親友の本多君のアパートに1週間ほど泊めてもらった。 あの時は、パリ大学で夏期講座を受けることが奥様の目的だったから、ニューヨークからロンドンでトランジットをしてパリへ直行した。当時、日本航空の大西洋線はニューヨークからロンドンまでだった。ロンドンからパリまでは英国航空に乗り換えなければならない。
ニューヨークを発つ時、ケネディー空港で、「プロフェッサー・・・さん」で始まるアナウンスで呼び出された。日本航空のカウンターへ行くと、パリの富田さんから「オルリー空港でお待ちしています」のメッセージがあった。「プロフェッサー・・・・」はノッコと大学時代の同級生だった富田さんのユーモアであった。当時、富田さんは日本航空のパリ支店に勤務していた。
ニューヨークを夕方に発って翌朝にはヒースロー経由でパリに着く。ニューヨークを発つ時に、「家族サービスです」などと告げられて、日本航空の係員がチャオの胸にワッペンを張付けた。しかし、ワッペンだけで、機中では『家族サービス』のサの字の配慮もなかった。古いDC8の機内はガラガラだった。離陸と同時に搭乗客は夜の睡眠用の座席とりに機内に散らばっていった。私達は「家族サービスです」との配慮で一番前に座らされていたので、この様子に気が付かなかった。
結局、私達以外は各人『ベッド』付きとなった。夜遅くなって、近くの席にいた日本人のお母さんのが見かねて、チャオに席を譲ってくれた。小学生と中学生の2人の子供連れで、中西部のミシガンから来たそうで、ご主人がロンドンに転勤することになったので、夏休み(欧米では秋が新学期)の開始と同時に家族全員で引越しをし、ロンドンへ行くところだという。親切に感謝! 旅は道連れ、世は情けである。
緑の絨毯のように広がる畑や牧草の上を英国航空のDC8が滑るように飛んで行ったのを覚えている。パリはもうすぐだ。
ミネソタの遠い日々
1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ