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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-ducale  ドゥカーレが今のように形になったのは14世紀の中頃らしい。ドゥカーレ内に入る。サン・マルコ寺院とドゥカーレの間の門から入り、白い石造りの広い中庭に出る。中庭から右手の『巨人の石段』を登り、ドゥカーレの中に入る。


 ここはまさに豪華絢爛の言葉そのままの素晴らしさである。そして、ティントレットやヴェロネーゼの大作が続く。もう圧巻と言う以外言葉がない。各部屋を巡って、ナポレオンの侵略によって終焉するまでの一千年にわたるヴェネツィアの栄光そのものを見る思いである。


 ここでは詳しくは書かないが、ヴェネツィアに興味のある方は『海の都の物語・上下』(塩野七生氏・中公文庫)を読まれたい。


 ドゥカーレを出てから、隣のサンマルコ寺院に入る。雲行きが悪くなってきて雨がぽつりぽつり落ちてきた。私が列に並んで、ノッコが広場の反対側にあるホテルに傘を取りに行く。ノッコは思ったより時間がかかった。


遠い夏に想いを-サン・マルコ  内部はビザンチン風のエキゾチックな装飾や絵画であふれている。もともとは、9世紀に聖マルコの遺骸をアレキサンドリアから運んで来て安置するために建てられた聖堂なのだが、最初の建物は焼け落ちて、今見ているのは11世紀に建築が始められたものらしい。


 聖堂内の上部を見上げると、内壁が鈍い金色に輝き、その中に壁画が描かれている。ドームの内側にはモザイク画で12使徒が描かれ、その他の壁面にはフレスコ画やテンペラ画で描かれている。聖堂としては、エキゾチックな東洋趣味だが、キリスト教はもともと中東地域でおこって、ギリシャやローマやエチオピアにまで広まったから、それは当然といえば当然なのであろう。


 雲行きは悪いが、雨は止んだようだ遠い夏に想いを-santa maria formosa 。インテルプレーティの音楽会が予定されているサンタ・マリア・フォルモーサ教会を経由してリアルト橋方向へ行く事にする。サンマルコの裏手のリストランテ・アチュゲの角を左に曲がり、運河を超えて右に折れ、更に左に曲がってしばらく真っ直ぐ行く。突然、サンタ・マリア・フォルモーサ広場に出る。


 「フォルモーサ」とは「豊満で美しい」という意味だが、「豊かで美しいマリア」とは何と美しい名前の教会だろう。ここが例の音楽会の会場だ。堂内に入る。ほぼ正方形をした内陣は音を奏でるのには最適な場所だろうが、観客席は狭すぎる。95年夏のロンドンでのセント・マーチン・イン・ザ・フィールズ教会のような広さも2階席もない。どの程度の客が入るのか見当が付かない。この教会の起源は古く、7世紀までさかのぼる。現在の建物は15世紀に建てられたらしい。

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遠い夏に想いを-イン・ブラーゴ教会  サン・マルコ広場から海岸の歩道を東に向かって歩く。ヴィヴァルディが洗礼を受けたサン・ジョヴァンニ・イン・ブラゴーラ教会に行きたかった。


 街の東側にカンポ・バンディエラ・エ・モロという広場がある。割と殺風景な広場だ。そこに教会があった。おもての壁に1枚のプレートを発見。『アントニオ・ヴィヴァルディ「赤毛の司祭」と呼ばれる最高の音楽家が1678年3月4日にこの教区で生まれたと伝えられる。この教会で洗礼を受けた』とある。ヴェネツィアの音楽家といえばヴィヴァルディ。


遠い夏に想いを-プレート01  一般大衆がイタリア・バロック音楽を耳にし始めるのは戦後のことである。日本で耳にするようになるのは、イタリアの弦楽団『イ・ムジーチ』が1950年代に来日し、LP化したヴィヴァルディの『四季』からであろう。現在、バロックは当時の楽器を使ったり、レプリカを作ったりして、ガット弦で演奏する古楽演奏が一つのジャンルとして確立されている。


遠い夏に想いを-vivaldi  彼が書いたのは勿論『四季』だけではない。この『赤毛の僧侶』は協奏曲だけでも500曲以上書いた。しかも、当時の作曲家の常として、教会音楽のみならずオペラも書いた。協奏曲はヴェネツィアの貧しい女の孤児達が集まるピエタ音楽院の合奏団のために書いた。自分で楽団を持っているようなものだから、即、演奏が可能だった。この音楽院は今はないがサン・マルコ寺院の後側に在ったらしい。


 ヴィヴァルディの曲なんて、みな同じ、単純な変奏曲だと、昔のドイツの音楽評論家の言葉を真に受けて日本のバロック音楽の先生で同じ事を言う人がいるが、欧米人は悪意をもって他人を批評することを分ってない。もしそうなら、モーツアルトにもベートーヴェンにも同じ事が言える。


 ヴィヴァルディが死だのはヴェネツィアではない。1678年にヴェネツィアで生まれて、亡くなったのはウイーンだった。1741年に死んだのだが、理由は判っていない。死ぬ前には、当時のヴァイオリンニストがそうであったように、彼も他国を訪れ、プラハやアムステルダムにも滞在している。


 私達がウイーンの街を散策している時、プレートがあるので、立ち止まって何気なく見上げると、ヴィヴァルディの記念プレートであった。そこには1741年にウイーンで極貧のうちに亡くなったと記してあった。18世紀に、イタリアの音楽家はドイツやオーストリアで大変もてた。


 モーツアルトを描いた『アマディウス』に出てくる、有名なウイーンの宮廷楽長のサリエリもイタリア人だ。サリエリはベートーヴェンやシューベルトにもオペラを教えたほどで、ウイーンでは他のイタリア音楽家とともに絶大な名声を博していた。


 そして、鬼才パガニーニの出現でイタリアのヴァイオリン音楽はその頂点に達し、そして、イタリア器楽音楽は終るのである。シューベルトは高い入場料を払ってパガニーニの演奏会を聴きにいったと歴史に残っているから、パガニーニは、結構広く演奏活動をしていたようだ。その後は、ご存知のようにイタリア・オペラ全盛になる。器楽音楽が再びイタリアの音楽シーンに戻ってくるにはレスピーギを待たなくてはならない。

遠い夏に想いを-鐘楼  サン・マルコ広場には人が出始めていた。空は薄曇りで、今にも雨が降り出しそうだ。左手の鐘楼を見上げた。


 最初の鐘楼は9世紀末に建てられたらしい。度重なる火災や戦火で焼失してきたが、16世紀には現在の形の鐘楼が建設された。現在も当時のままの鐘楼かと思ったが、これも1902年に崩れ落ちて、今見ているのは1912年に再建されたものだという。


遠い夏に想いを-広場  あの日は晴れ上がった夏の一日だった。高い所の好きなチャオがこの塔を見上げて呟いた。
「ぼく、あの高いところにのぼりたいな」
「パパは高いところは苦手だからなあ」

優柔不断なパパは躊躇している。

それでも、チャオはどうしても鐘楼に登りたいと言い張るので、皆で登ってみることにした。ここの展望台は金網で周囲を囲ってあるので、高所恐怖症のパパは安心だ。丁度、11時45分になっていたから、いま登れば正午の鐘の音がまじかで聞ける。


遠い夏に想いを-サルーテ教会  鐘楼の高さはサン・ジョルジオよりも高く、98.6メートルある。微かに霞んでいるが、見晴らしは最高だった。サンマルコ広場が絵葉書のように美しく見渡せる。遠くを眺めると、ヴェネツィア市内が手に取るように分る。霞んでいるがリドの浜辺や街中の寺院も見える。


遠い夏に想いを-遠望02  正午になった。突然、耳をつん裂くような、たくさんの鐘の連打が始まった。互いに話している声が聞こえない。チャオもノッコも耳を手でふさぎ、口をぱくぱくしているが、何を言っているのか判らない。


 遠くで聞く鐘の音は、まさにパガニーニの「ラ・カンパネッラ」(ヴァイオリンの協奏曲2番の3楽章)ように可憐だが、目の前でがんがん鳴る鐘の音はそんなものではない。むしろ、彼の「24の奇想曲」の24番めの最終変奏曲のようにガンガンと激しい。鐘が鳴り止むと、一瞬、ポカンと、身体から力が抜けた状態になった。


 1972年の過ぎ去った遠い思い出だ。

 ホテル近くのカフェでカプチーノとクロワッサンの朝食をとる。間口の狭いうなぎの寝床のような薄暗い店だ。客はいなく、味もそこそこだ。


遠い夏に想いを-san giorgio01  今日はサン・マルコの向かいのサン・ジョルジョ島に行き、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会を訪れるつもりだ。


 サン・マルコ広場の一番東寄りの発着所から船が出る。目と鼻の先だから直ぐに着く。だが、教会が開く時間を調べてこなった。9時30分からと扉に記してある。開くまで30分以上は待たねばならない。島にはサン・ジョルジョ教会以外に入れる場所がない。海沿いに島の奥まで行き、教会裏の殺風景な庭園に入って時間を潰す。朝日を浴びて、潮風にあたるのは大変に心地よい。


遠い夏に想いを-san giorgio02  サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会は16世紀にパッラディオの設計に基づいて建築が始められた。パッラディオ様式と呼ばれるコリント様式の高い柱をもった建物である。軽やかなヴェネツィア建築を見慣れていると、このパッラディオの建物は見るものを圧倒する。パッラディオの建築はヴェネツィアの近くのヴィチェンツィアという街に多く残っているが、彼の様式は当時のヨーロッパの国々にも影響を与えている。聖堂の中は明るく、装飾のない内部は整然として、清々しい気持ちになる。


 扉が開く頃には、10人ほどの観光客が集まった。日本人の観光客は中年の夫婦、年配の3人組みと私達。ここの塔にはエレベーターで登る。エレベーターの操作はお坊さんがやる。お坊さんのエレベターも初めてだが、エレベーターが小さく、観光用には出来ていないので少人数で昇り降りする。最後は私達だけ。他の連中は先に昇ってしまった。私は高所恐怖症なので、高いところが苦手だ。だが、ここへ来てしまったら、塔に登らないわけにはいかない。


遠い夏に想いを-san marco  ここの塔は18世紀末に再建されたらしいが、頂上からの眺望はすばらしい。空は少し霞んで、ヴェネツィアの上に広がっている。右手にはリドが、正面にはサン・マルコ広場、その向こうにはムラノや墓地の島まで一望できる。西手すぐにはジュデック島が手に取るように望める。リドには昔立ち寄ったことがあるが、ヴェネツィアには珍しい砂浜があり、海水浴客で賑わっていた記憶がある。眼下にはサン・ジョルジョ教会の回廊と芝生の緑が美しい。


 1階に降りると、奥にティントレットの『最後の晩餐』(1592)がある。ティントレットにはサント・ステファノ教会とサン・ポロ教会にも『最後の晩餐』(1570年)があるが、サン・ジョルジョ教会の方は彼の晩年の作で、方向は逆だが、やはり斜めからのアングルで描いている。


 観光客夫婦の奥さんがカメラのシャッターを押してくださいとカメラを突き出す。今度はお返しに撮ってあげるという。大抵、こうゆう時は切り出すのがどうゆう訳か女性の方だ。帰りはまた船に乗りサン・マルコへ戻った。

 これは外国語を教えている人たちには何の責任もないのだが、社会が基本から変わらないとどうにもならない。今の日本で語学を習得しても、活用されることは余りない。特に大企業や大きな組織などによくあることだ。日本の社会は閉鎖的で、口で言うほど開かれていない。個人主義を尊重し、ルールを尊重し、もっと合理的になり、社会や企業がもっともっとスキル・オリエンテットにならないと駄目だ。日本の大きな組織ではスキルや経験で人を雇わない。語学も出来て才能のある者をそれなりにフルに活用したら、コミュニケーションと生産性は格段に向上するだろう。即ち、個人自らの体験を個人のものだけに留めないで、企業や社会やコミュニティが受け入れるシステムが必要である。


 それと同時に個人の側にも、外国語は単にスキル(日本人には大変な努力が必要だが)の一つだと思って、その他の知識やスキルの習得が必要だ。英語が上手いだけだと、ただの英語使いに過ぎなくなって、一般の会社や組織では評価されないだろう。


 能力があれば、小さくとも特徴のある企業の方がその分野に必要な人材を採用するから、専門知識と英語などの外国語を習得した者には遥かに仕事のしがいがあるだろう。社内教育などしている暇も余裕もないからスキルと実践知識を備えた人を欲しがる。


 それと、話がそれるけれど、日本人との付き合よりも、外人の方が気がらくだ。精神的にもいい。ヨーロッパ語族では、上下をあらわす尊敬語も謙譲語も丁寧語も殆ど必要ない。年齢差に応じて言葉を使い分ける必要もないからだ。単純に言えばコミュニケーションの手段として言葉を使うからだ。


 現在は公立の小学校でも英語を教えるらしい。いろいろ議論はあろうが、本当に必要なのだろうか。子供に英語を教えるには、英語=英会話なら現地人の講師が絶対に必要だ。そんなこと全国の小学校で可能なのだろうか。英語=英語の知識なら、教える必要はない。


 それよりも、悪平等教育はもうご免だ。出来る者がどんどん飛び級して先に進める教育が必要な時代である(私みたいなボンクラ者は見捨てられること必定だが)。これをエリート教育と嫌う人もいるが、どこを切っても金太郎あめみたいな教育はもういらないと思う。今は昭和30年代のように教育を平準化する時代ではない。たぶん、こうゆうエリート教育は先生方が最も嫌うところかもしれない。努力しないで成績がいい子がいると、努力するけど成績の悪い子が可愛そうだという。才能を認めないで、努力しか認めない。そんな先生が多い。また、子供の個性を伸ばそうと言うが、ばらばらの個性を管理してゆく方法を先生方は全く知らない。こと細かく校則で管理しようとする。どこまでが大まかな校則で、どこからが自由なのかの境界線もない。


 さて、英語の話しはこのくらいにして、ここのワインはなかなかいい。ヴェネツィアのワインには、白がソアーヴェ、赤がヴァルポリチェラとバルドリーノが一般的で、日本では庶民的なワインに入る。昨日と同じく、ヴァルポリチェラの小瓶をとったらこれが美味しい。コクやほのかな甘みと豊かな香り。酒飲みでない私にも分る。この夫婦は赤ワインしか飲まないが、魚を食べる時でも赤。常に赤だけというのも芸がないかも知れない。これで通すことを心情としているし、この頑固さでいいのではないか。客の間をメガネのカメリエリ君が泳ぐようにすいすいと渡り歩いていた。