日本社会と外国語に思うこと - 036 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 これは外国語を教えている人たちには何の責任もないのだが、社会が基本から変わらないとどうにもならない。今の日本で語学を習得しても、活用されることは余りない。特に大企業や大きな組織などによくあることだ。日本の社会は閉鎖的で、口で言うほど開かれていない。個人主義を尊重し、ルールを尊重し、もっと合理的になり、社会や企業がもっともっとスキル・オリエンテットにならないと駄目だ。日本の大きな組織ではスキルや経験で人を雇わない。語学も出来て才能のある者をそれなりにフルに活用したら、コミュニケーションと生産性は格段に向上するだろう。即ち、個人自らの体験を個人のものだけに留めないで、企業や社会やコミュニティが受け入れるシステムが必要である。


 それと同時に個人の側にも、外国語は単にスキル(日本人には大変な努力が必要だが)の一つだと思って、その他の知識やスキルの習得が必要だ。英語が上手いだけだと、ただの英語使いに過ぎなくなって、一般の会社や組織では評価されないだろう。


 能力があれば、小さくとも特徴のある企業の方がその分野に必要な人材を採用するから、専門知識と英語などの外国語を習得した者には遥かに仕事のしがいがあるだろう。社内教育などしている暇も余裕もないからスキルと実践知識を備えた人を欲しがる。


 それと、話がそれるけれど、日本人との付き合よりも、外人の方が気がらくだ。精神的にもいい。ヨーロッパ語族では、上下をあらわす尊敬語も謙譲語も丁寧語も殆ど必要ない。年齢差に応じて言葉を使い分ける必要もないからだ。単純に言えばコミュニケーションの手段として言葉を使うからだ。


 現在は公立の小学校でも英語を教えるらしい。いろいろ議論はあろうが、本当に必要なのだろうか。子供に英語を教えるには、英語=英会話なら現地人の講師が絶対に必要だ。そんなこと全国の小学校で可能なのだろうか。英語=英語の知識なら、教える必要はない。


 それよりも、悪平等教育はもうご免だ。出来る者がどんどん飛び級して先に進める教育が必要な時代である(私みたいなボンクラ者は見捨てられること必定だが)。これをエリート教育と嫌う人もいるが、どこを切っても金太郎あめみたいな教育はもういらないと思う。今は昭和30年代のように教育を平準化する時代ではない。たぶん、こうゆうエリート教育は先生方が最も嫌うところかもしれない。努力しないで成績がいい子がいると、努力するけど成績の悪い子が可愛そうだという。才能を認めないで、努力しか認めない。そんな先生が多い。また、子供の個性を伸ばそうと言うが、ばらばらの個性を管理してゆく方法を先生方は全く知らない。こと細かく校則で管理しようとする。どこまでが大まかな校則で、どこからが自由なのかの境界線もない。


 さて、英語の話しはこのくらいにして、ここのワインはなかなかいい。ヴェネツィアのワインには、白がソアーヴェ、赤がヴァルポリチェラとバルドリーノが一般的で、日本では庶民的なワインに入る。昨日と同じく、ヴァルポリチェラの小瓶をとったらこれが美味しい。コクやほのかな甘みと豊かな香り。酒飲みでない私にも分る。この夫婦は赤ワインしか飲まないが、魚を食べる時でも赤。常に赤だけというのも芸がないかも知れない。これで通すことを心情としているし、この頑固さでいいのではないか。客の間をメガネのカメリエリ君が泳ぐようにすいすいと渡り歩いていた。