ヴィヴァルディ - 039 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-イン・ブラーゴ教会  サン・マルコ広場から海岸の歩道を東に向かって歩く。ヴィヴァルディが洗礼を受けたサン・ジョヴァンニ・イン・ブラゴーラ教会に行きたかった。


 街の東側にカンポ・バンディエラ・エ・モロという広場がある。割と殺風景な広場だ。そこに教会があった。おもての壁に1枚のプレートを発見。『アントニオ・ヴィヴァルディ「赤毛の司祭」と呼ばれる最高の音楽家が1678年3月4日にこの教区で生まれたと伝えられる。この教会で洗礼を受けた』とある。ヴェネツィアの音楽家といえばヴィヴァルディ。


遠い夏に想いを-プレート01  一般大衆がイタリア・バロック音楽を耳にし始めるのは戦後のことである。日本で耳にするようになるのは、イタリアの弦楽団『イ・ムジーチ』が1950年代に来日し、LP化したヴィヴァルディの『四季』からであろう。現在、バロックは当時の楽器を使ったり、レプリカを作ったりして、ガット弦で演奏する古楽演奏が一つのジャンルとして確立されている。


遠い夏に想いを-vivaldi  彼が書いたのは勿論『四季』だけではない。この『赤毛の僧侶』は協奏曲だけでも500曲以上書いた。しかも、当時の作曲家の常として、教会音楽のみならずオペラも書いた。協奏曲はヴェネツィアの貧しい女の孤児達が集まるピエタ音楽院の合奏団のために書いた。自分で楽団を持っているようなものだから、即、演奏が可能だった。この音楽院は今はないがサン・マルコ寺院の後側に在ったらしい。


 ヴィヴァルディの曲なんて、みな同じ、単純な変奏曲だと、昔のドイツの音楽評論家の言葉を真に受けて日本のバロック音楽の先生で同じ事を言う人がいるが、欧米人は悪意をもって他人を批評することを分ってない。もしそうなら、モーツアルトにもベートーヴェンにも同じ事が言える。


 ヴィヴァルディが死だのはヴェネツィアではない。1678年にヴェネツィアで生まれて、亡くなったのはウイーンだった。1741年に死んだのだが、理由は判っていない。死ぬ前には、当時のヴァイオリンニストがそうであったように、彼も他国を訪れ、プラハやアムステルダムにも滞在している。


 私達がウイーンの街を散策している時、プレートがあるので、立ち止まって何気なく見上げると、ヴィヴァルディの記念プレートであった。そこには1741年にウイーンで極貧のうちに亡くなったと記してあった。18世紀に、イタリアの音楽家はドイツやオーストリアで大変もてた。


 モーツアルトを描いた『アマディウス』に出てくる、有名なウイーンの宮廷楽長のサリエリもイタリア人だ。サリエリはベートーヴェンやシューベルトにもオペラを教えたほどで、ウイーンでは他のイタリア音楽家とともに絶大な名声を博していた。


 そして、鬼才パガニーニの出現でイタリアのヴァイオリン音楽はその頂点に達し、そして、イタリア器楽音楽は終るのである。シューベルトは高い入場料を払ってパガニーニの演奏会を聴きにいったと歴史に残っているから、パガニーニは、結構広く演奏活動をしていたようだ。その後は、ご存知のようにイタリア・オペラ全盛になる。器楽音楽が再びイタリアの音楽シーンに戻ってくるにはレスピーギを待たなくてはならない。