遠い夏に想いを -185ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 工房には彼しかいない。クレモナ式のヴァイオリン工法は全て自分で作り分業はしない。
「ところで、年間にどのくらい楽器を作るのですか」
「ヴァイオリンが6台くらい、チェロが2台くらい」
「93年はどのくらい作りましたか」
私のヴァイオリンが93年製なので聞いた。
「ちょっと調べてみましょう・・・、えーと、記録を見るとヴァイオリンが8台ですね。この年はすこし多く作りました」
「所で、ヴァイオリンはいくらですか」
「大体、5千ドルくらいです(現在、価格は1万5千ドルくらいする)」
送料その他経費を入れても、日本に着いたら60万円くらいだろう。60万円が仕入れ価格で、小売価格は倍近くになる。チェロも同じとすれば、気に入らなくても、日本で売れば決して損はないだろう。リスクと言えば円が安くなる事ぐらいだろう。今の経済状況からするとその可能性は高い。


 「日本に帰ってから返事をします。ファックスはありますか」
私は名刺に自宅のファックス番号を記して渡し、彼も名刺をくれた。
「わたしは年に2度ほどアメリカに行きます。アメリカのヴァイオリン制作の水準は非常に高いです。日本にも訪問しないかとの誘いはありますがなかなか行けません」
「インターネットを見ていると、結構アメリカのヴァイオリン制作情報が多いですね」
「今年は旅行が出来ません。2~3日中に2人目の子供が産まれるのです」
「それはおめでとうございます。写真を一緒に撮りましょう」
ファックスでの連絡を約して工房を辞した。


 「クレモナは駄目だったが、ミノツィに会えて、イタリアに来た目的の一つは達成されたね」
私はほっとして言う。
「一昨日の夕方は会えなくて、がっくりしてたもね」
ノッコが冷やかす。


 私達は大学を卒業してから35年間楽器から遠ざかっていた。経済成長期で忙しくて楽器を弾いている暇がない。ノッコがチェロの練習を再開してから、私も定年後のことを考えて再びヴァイオリンを弾き始めた。35年間のブランクは大きかったが、このとき購入したのがミノッツィのヴァイオリンだった。


遠い夏に想いを-チェロ

 後日談になるが、翌年の12月にDHLで注文した楽器が着いた。楽器はベニヤの梱包(写真右のボックス)で送られてきた。期待したとおりのいい楽器だった。新作の弦楽器は最低5年~10年は弾かないと、音は良くならない。長年自然乾燥した木材でも水分を含んでいて生きているので、ある程度水分が抜けるまで微妙な雑音があるからだ。

 ミネソタの遠い日々 - New (シカゴへの旅パート2を追加) -
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 今朝は9時までミノツィに会いに行かなければならない。ホテルの一階のレストランで無料サービスの朝食を取り、荷物はホテルに置いたまま出かける。一度訪れているから道は近い。ブザーを押す。扉が開いてミノツィが現れた。


 イタリア人にしては背が高く、30代とは思えぬ老けた感じだ。物腰も話し振りも穏やかだ。室中に案内されたが、工房は10畳もない広さだ。絵に描いたような楽器製作者の工房と言う感じはしない。ミノツィさんは若い時にパルマ音楽院で弦楽器製作課程で優秀な成績をおさめている。


遠い夏に想いを-violin  私の手元にあるミノツィのヴァイオリンを写真に撮ってきた。彼に見せると、じっと見ていた。
「間違いないですね」
だが現物で無いので、何か自信なげだ。
東京の楽器屋に置いてあった『現代イタリアの弦楽楽器製作者百人』という本で住所を知ったことを告げる。


 「チェロはありますか。ヴァイオリンは気に入っているので、チェロがあれば彼女に買いたいのですが。今、彼女が使っているチェロは100年前のチェコの楽器なのです。音は滑らかでいいのですが、音量がさほど無いので」 遠い夏に想いを-marco

「今は売れるのはありません。これは売れ先が決まっているのですが、まだニスを塗っていないし、調整もしていませんが弾いてみますか」
そう言いながら真白いチェロを取り出す。


 ノッコがそろりと音を出す。
「どうだい」
「凄くいい音。場所のせいで響くのかもしれないけど」
ヨーロッパの住宅は石造りだから、木造の日本の家屋よりも響きがいい。
「値段は」
「1,700百万リラです」
「110万円くらいかな」
私はノッコに呟いた。


 「頭金が最低10%です。残金は出来上がった時に」
「今頼むと、何時出来ますか」
「来年の8月から12月くらいでしょうか。ネックを女性に合うように微調整してあげますよ」
「輸送はどうします」
「DHLで一週間くらいでしょう。費用は調べないと詳しくは判りませんが、300ドルくらいでしょうか。梱包は私の費用でやります」


 ミネソタの遠い日々 - New (シカゴへの旅パート2を追加) -
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 午後3時頃、駅前からバスでサンタポリナーレ・イン・クラッセ教会に行った。この教会は聖アポリナリスの記念教会堂として549年に建設された。バスに乗り5キロくらい南に下がる。ローマ時代は、この辺はアドリア海に近いため、初代ローマ皇帝アウグストス(教会の庭には彼の銅像が立っている)によって東地中海艦隊の基地が置かれていた。いろいろな物資の荷揚げが盛んに行われて、賑わっていた町らしい。

遠い夏に想いを-s.apollinare classe 01  今は海岸線が後退し、何もない野原の真ん中にぽつんと教会が建っているだけだ。クラッセという名前は『Civitas Clasisi』というローマ時代の町からきているらしい。その後、ラヴェンナが衰退して、港も忘れられてしまった。ここの教会はサンタポリナーレ・ヌオーヴォのように40メーターほどの円形の塔(塔の建設は11世紀の頃らしい)をもったバシリカである。バシリカとは本来古代ローマの神殿を教会に利用したのが始まりである。



 堂内の左右の列柱は、サンタポリナーレ・ヌオーヴォより高く、その上に並ぶ窓の空間にもさしたるモザイクはないのだが、正面の祭壇の上部に描かれたキリストと子ひつじのモザイクは緑がなんとも美しい。半円形のモザイク画の中心に、大きな十字架が描かれ、半円形の頂点から人の手が下りてくる。これは神を暗示しており、十字架の下の聖アポリナーレを指し示しているのだ。十字架の左右に大予言者モーゼとエリヤがおり、その下にペテロとヨハネとヤコブが羊の姿で立っている。ただ、私にとっては聖書の暗示や比喩よりも、ただ美しいがどうかが価値基準となる。なにせ、5~6世紀といえば、日本では古墳時代なのだから。



遠い夏に想いを-s.apllinare classe 02  モザイク画の一番下には十二使徒が羊の姿で一列に並んでいる。更に、半円形の上部の外側には十二使徒が山を登る羊の姿で描かれ、その最上段には中央にキリストの半身像と左右に左から鷲の姿をした聖ヨハネ、天使の姿で聖マタイ、ライオンの姿で聖マルコ、そして牛の姿で聖ルカの4人の福音書著述家が描かれている。このフレスコ画は、素朴なアレゴリーを大変に分かり易く説明している。大変にやわらかい色調で、素晴らしいモザイク画だ。



遠い夏に想いを-s.apollinare classe 03  野原にポツンと建っている教会に訪れる人もない。帰りのバスには、来る時に同乗していた若いカップルだけだった。ラヴェンナの寺院は素晴らしいモザイク画で飾られている。古代ローマ崩壊から12世紀ルネッサンスが始まるまでの中世の空白を埋める文化遺産の宝庫である。


 街へ戻って、市内を歩き、夕食をとる。今日はノッコの反対を押しきって、昨日のリストランテの近くにある別の店に入った。結構、大きな店だが客は年寄りが一人夕食を取っていた。時間が経って、ぼつぼつと客が入ってきたが、この客層も昨夜のレストランに比べてよくない。おまけに残念ながら、味は昨日の店より各段に落ちる。コーヒーは無いと言う。こういう店が時々ある。夜の街を歩きながらホテルに帰る。広場のテラスには夜の憩いを求めて人々が集まっているが、今夜は昨夜よりずっと人出が少ない。不思議な街だ。昨夜はいったい何だったのか。不思議だ。

 ミネソタの遠い日々 - New (シカゴへの旅パート2を追加) -
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ

遠い夏に想いを-アリアーニ概観  スピリト・サント教会に行く。かってはアリアーニ聖堂と呼ばれていた。ここの洗礼堂(写真右側の建物)は薄暗く小さいお堂のようなところだが、扉を開けると狭いドーム一杯にモザイクが広がり美しい。周りに12使徒を控えて中央にイエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネにより洗礼を受けている。


遠い夏に想いを-天井画03  もともとはテオドリックがこの地を支配していた。彼の部族のゴート族は北方から移動してきた北方ゲルルマンの一派で、みなアリウス派を信仰していた。キリストは神ではなく偉大なる預言者であるという立場をとっていた。


 しかし、カトリックはキリストを神の子だとし、三位一体という訳の判らない説を展開する。ユダヤ教もイスラム教もイエスを預言者としているそうだ。これでキリスト教は単なるファンタジーと化した。理性では理解できないファンタジー。



 時のローマ皇帝コンスタンティヌスが混乱したローマ帝国を統一すために325年ニカエアで公会議を開き、アリウス派を異端として排斥してしまう。宗教界も権力闘争が激しいところだから、教義は譲れない。キリスト教で不思議なのはキリスト=神であるとする教義だ。これを説明するのに「三位一体」というわけの分からない教義を持ち出す。アリウス派を排斥した理由は、自分の息子を当時禁止されていた跡継ぎの皇帝にするのに、その神の後ろ盾があることで、民衆の誰もが否定することも、逆らうことも出来ない状況の方が好都合だったからといわれている。実際、コンスタンティヌスは死の直前にローマの国教となったキリスト教に改宗している。


遠い夏に想いを-ニーチェ  私はキリスト教徒ではないが、若い頃メノナイト派のアメリカ人達と親交があり、新約聖書も読み、キリスト教の歴史に関心があった。ニーチェの『キリスト教批判の試み』などもキリスト教の本質を理解するのに役立つ。


 アリウス派はもともとアレキサンドリアのアリウスという司教が唱えた教義である。異端審判の後もゲルマン系の人達が信じていた宗派で、「キリストは神と民衆をつなぐ特別な人で、神から預かった言葉を伝える人間である」、即ち預言者だと主張する。この主張のほうがローマカトリックに潜む諸々の矛盾を抱え込まなくてすむ。だがコンスタンティヌスはイエスが神であるとする考えを支持したのだ。


 12世紀に南フランスでカタリ派の信者数万人がローマカトリックがすすめるアルビジョア十字軍よって虐殺された。彼らの教義は「肉体と物質は悪で魂と霊は善である」とするイラン周辺に起こった古いゾロアスター教(ニーチェのツアラストラとは同じ)のグノーシス主義の色彩が強く、キリストの神聖を否定する。彼らの説に従うとキリストは実体のない幽霊のような存在になってしまう。これ以降、カトリックによる悪名高い異端審問が行われるようになる。自分たちの教義に反対する者は徹底的に排除した。


 プロテスタントはそもそも聖書に忠実でなければならないという原理主義で、アメリカでダーウィンの進化論を学校で教えるべきでないという論争が起きているのは皆さんもご存知だろう。だがしかし、キリスト教徒でなくとも世界中がキリスト教徒の欧米に思考方法も行動様式も大きく影響を受けている現実がある。


 唯一、アメリカのプロテスタントではユニタリアン教会派がアリウス派と同じキリストは神ではなく神と人間をつなく大切な存在であると主張する。アメリカに留学していた時に親しかった友人の家族がユニタリアン派だった。彼らが宗教に寛容であったのを思い出す。


遠い夏に想いを-天井画02  ニカエア公会議で異端とされたアリウス派はその後もゴート族の間では衰えていなかった。テオドリック王が奨励していたアリウス派の教会として、5世紀末にスピリト・サント教会付属の礼拝堂として建てられたものだが、その後勢力をつけたローマカトリックがアリウス派を異端として排斥して、この礼拝堂を小礼拝堂にしてしまった。洗礼堂のモザイクはドームの部分(但し、ネオニアーノ洗礼堂のモザイク画のうつしだが、洗礼者ヨハネの位置が逆である)しか残っておらず、壁の部分は何もない状態であった。

遠い夏に想いを-サン・ヴィターレ  旧市街の南西に位置するサン・ビターレ教会にも行った。5ヶ所の共通チケットを手に入れておく方が割安である。ラヴェンナの街は歩いて回れる範囲に史跡があるので助かるが、ノッコも私も息が切れる教会巡りとなった。


 サン・ビターレ教会は6世紀前半に司教エクレシオによって建立され、その後548年に司教マキシミリアンによってバシリカが建てられた、かなり大きな寺院である。教会には緑が多い回廊もあり心休まる空間がある。


遠い夏に想いを-祭壇画  テオドリック王の時代とはと違って、モザイクの色調は金が主体で緑がアクセントに使われ、ビザンチン風である。ここの圧巻は『ユスティニアヌス帝とその廷臣たち』と『テオドーラ皇后と女官達』である。残念ながら、足場を組んで修復作業をしているので、その合間から覗くしかなかったが、まさにビザンチンモザイクの傑作であろう。





遠い夏に想いを-テオドシウス  テオドリックが亡くなるとともに東ゴート帝国が衰退し、ユスティニアヌス帝が526年に東ローマ帝国の皇帝になった。(興味のある方には『東ゴート興亡史』(松谷健二・中公文庫)がおすすめ)



遠い夏に想いを-テオドアラ  彼の后であるテオドーラはコスタンチノープル生まれの踊り子で、淫らで活発な娼婦だったらしい。東ローマ帝国の皇帝になる男は踊り子や娼婦などと結婚してはならぬという法律があったにもかかわらず、ユスティニアヌス帝の父のユスティヌス帝が息子のために法律をかえてまったという。そんな彼女だから、政治には口を出したらしい。ビザンチン文化の影響が濃い教会だが、美しさはこの上ない。



遠い夏に想いを-ガッラ ここの近くに、ガッラ・プラキディア廟堂という小さな霊廟がある。ガッラ・プラキディアという女性は450年頃この霊廟を造ったが、ローマで死んだらしく、この霊廟には彼女の遺体は収められていない。彼女はローマの皇帝テオドシウス1世の娘で、波乱万丈の人生を送ったらしく、長年に渡りラヴェンナを統治していたという。


遠い夏に想いを-堂内01 内部のモザイクは建物の外観からは想像も出来ないほど美しい。ビザンチン風の趣はなく、ローマ的な色彩が強いという。


遠い夏に想いを-堂内02

















 ミネソタの遠い日々 - New (シカゴへの旅パート2を追加) -
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ